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どうして生きなければならないのか(長文)

どうして生きなければならないのでしょうか。そして私はこうも思います。どうして自殺をしてはいけないのでしょうか。

おそらくは誰でも一度は考える問題ではないでしょうか。私は、もし本当の答えが分かれば、多くの人が人生の新しい価値に目覚めるのではないかと思います。そもそも「なぜ生きるのか」が分からないのに「なぜ死んではいけないのか」を説明することはできないでしょう。世の中にはたくさんの考えがあります。これからお話しするのもその中の一つです。これが本当の答えかどうかはわかりません。また人の目を覚ますほどの説得力があるのかどうかもわかりません。ただ、今のところは、私自身がこの考えに納得しているというまでです。無責任と思われるかもしれませんが、この問題について一緒に考えていただきたいと思いお話しすることにしました。これは私の想像ですが、正解は大昔からごく自然な形で当たり前のように存在していて、誰の心にもスッと入っていくものだろうと思います。そういうことを念頭に置きながらお話を進めたいと思います。

今から2500年ほど前、今のインドとネパールの国境あたりにシャカ(釈迦)族という部族が暮らしていました。このシャカ族の中にガウタマ・シッダールタという名前の王子がいました。後に悟りを開き「ブッダ」となられた方です。私たち僧侶は、尊敬と親しみを込めて「お釈迦様」と呼んでいます。お釈迦様はこのようなことを仰っています。

「この世界では、すべてが原因と条件と結果の関係で成り立っている。その関係の中ですべては生じ、変化し、そして消滅する。これは誰にも変えられない真実である」

多少言葉を置き換えていますが、意味するところは同じです。この言葉をヒントに考えてみたいと思います。まずはこの言葉を紐解いてみましょう。ご存知の方も多いかもしれませんが、この「原因と条件と結果の関係」を「縁起」といいます。「縁起が良い」とか「縁起が悪い」とか、私たちがよく口にするあの縁起です。もし人から「仏教って何を教えているの?」と尋ねられたら、私は「仏教は縁起を教えています」と答えます。それくらい縁起は仏教の中心にある教えです。でも原因と条件と結果という言葉では、まだちょっと分かりづらいですね。それぞれの言葉を置き換えてみましょう。かりに庭に咲いている一輪の花を「結果」とします。この花を咲かせる「原因」は種です。しかし種さえあれば花が咲くわけではありません。そこには太陽とか雨とか土といった色々な「条件」が揃っていなければなりません。これが「原因と条件と結果の関係で成り立っている」です。それぞれは互いにしっかりつながっています。必要な日照や雨水や土壌があるから花は咲きます。そして咲いた花もそのままということはなく、条件などが少しでも変われば、しおれて枯れてやがて地に落ちます。これが「生じ、変化し、そして消滅する」ということです。原因があっても条件が揃わなければ結果とはなりません。条件が揃っても、その条件が少しでも変われば結果も変わります。ずっと同じ姿のままということはありません。これを「無常」といいます。そして次には、その咲いた花に引き寄せられたミツバチが巣に帰って蜂蜜を作ります。今度は花が「原因」となり、ミツバチが「条件」となって蜂蜜が「結果」になりました。こうやって縁起はつながっていき、別の場面を形成するのです。私たちの命はどうでしょう。父の存在、母の存在、それぞれが原因となり、その後の色々な条件が揃って、私の誕生という結果に結びつきます。そして次には私の存在が原因となり、仏法によって見知らぬ誰かが人生の新しい価値に目覚め自殺を思いとどまったとしたら、それもまた原因があり条件が揃って結果に結びついたと言えます。原因と条件と結果の関係は、目に見える形、目に見えない形(ここでは血のつながりと心のつながり)を問わず成立しています。このように考えると、この世の中で縁起でないものはないと言えます。最後にお釈迦様は「誰にも変えられない真実」だと仰っています。人間の力では変えることはできないというのです。もっと身近な例で言えば、私たちが、生まれて老いて病気になって死ぬことも、全てが原因と条件と結果の連続です。しかも誰も老いを止められないし、死なずにいることもできません。この「誰にも変えられない真実」を「真理」といいます。つまり、これまでの話は縁起と無常と真理という三つの言葉に集約できることが分かります。もう一度お釈迦様の言葉を見てみましょう。

「この世界では、すべてが原因と条件と結果の関係にある。その関係の中ですべては生じ、変化し、そして消滅する。これは誰にも変えられない真実である」でしたね。この言葉はそのまま「この世界では、すべてが縁起の関係にある。縁起の中ではすべてが無常である。これは真理である」と言い換えることができます。縁起によってしっかりつながっているということは、見方を変えると、すべてがお互いに依存し合っているということです。お互いが頼り合って生きているということです。人間の場合ならこうです。

あなたがいるから私がいる。
あなたがいなければ私はいない。
私がいるからあなたがいる。
私がいなければあなたはいない。

ということになります。皆さんはこれを実感できますか。「あなたがいるから私がいる。あなたがいなければ私はいない」というのは分かります。お父さんとお母さんのことですね。もっと言えば、お爺ちゃんとお婆ちゃん、曾祖父ちゃんと曾祖母ちゃんのことです。また、血がつながっていなくても、心でつながっている大切な人があなたにはいるかもしれません。では、「私がいるからあなたがいる。私がいなければあなたはいない」というのはどうでしょう。ずいぶん横柄な物言いに聞こえるかもしれません。しかしこれはそういう感情の話ではないのです。人間の感情とは無関係の真理の世界のお話です。もしあなたにお子さんがいらっしゃるなら分かりやすいでしょう。あなたの存在なくして子供は存在し得ないからです。しかし多くの場合「私がいるからあなたがいる」というのは実感しづらいかもしれません。「私が誰かの命を支えている」、「誰かが私を頼りにしている」という実感はなかなか得られません。それどころか自分は一人ぼっちだと思っている方もいるでしょう。先ほど私はこの世界は、縁起によってしっかりつながっている、互いに依存し合っている、頼り合って生きていると言いました。それが本当なら、一人ぼっちというのはないはずです。それでも一人ぼっちを感じてしまうのはなぜでしょうか。

これは私の考えですが、それはこの縁起の世界が、観察力を総動員して素直な気持ちで見なければ見えないからだと思います。ひと目ちらっと見るぐらいでは縁起の世界は見えません。なぜなら私たちはこの世界を「こうであってほしい」「こうでなければならない」と自分の世界観で見ることに慣れきっているからです。そういうフィルターを通して見ることが当たり前になってしまっているから縁起の世界が見えづらくなっているのです。先ほどの種と花とミツバチのお話も、縁起の世界をちゃんと説明しているのに、それを自分のこととしては考えない。自分とは別の世界の話だと思っています。自分には「こうであってほしい」「こうでなければならない」という世界観があって、それに当てはまらないものは認められないからです。人間は老いることが当たり前なのに若くありたいと願います。白髪も皺も日に日に増えて見た目も変わっていくのに、髪を染めたり、皺を目立たなくしたりして、全然変わっていないかのように思いたがります。無常なものに不変を求めるのです。真実の姿とは逆の姿を求めようとします。こういう例は他にもたくさんあります。まずはこういう真実を 逆に捉えてしまう自分のフィルターを取り去らなければ縁起の世界は見えてこないのでしょう。本当は一人ぼっちじゃないのに、自分の世界観の中だけで生きているから一人ぼっちを感じてしまうのだと思います。中には「そんなことはない。自分は本当に一人なんだ」と怒る方がいるかもしれません。そう仰る方も試しにフィルターを捨てて観察してみてください。それをしたからといって損になることはないでしょう。私の場合、縁起の世界を素直に見られない時には、境内にある大きな木を観察することにしています。

正雲寺は山の中にあります。山には大きな木がたくさん立っています。境内にもいくつかの大木があります。大木の太い幹からは数えきれないぐらいのたくさんの枝が伸びています。そしてその一本一本の枝には、これまたたくさんの葉っぱが付いています。春になると枝から小さな芽が出て、やわらかくみずみずしい黄緑色の葉っぱが広がります。それが夏になると濃い緑色に変わって、今度は固く強そうな葉っぱに変身します。秋になると緑色は薄い黄色に変化し、オレンジ色になったかと思うとすぐに真っ赤に変わります。冬が訪れると赤色はうす茶色に変化し、水気を失って小さく縮みます。やがて風に煽られて自然に枝から離れて地面に落ちて行きます。地面に落ちた葉っぱは、昆虫や微生物の格好の食料です。彼らはそこでたくさんのフンをします。それらがまた栄養いっぱいの土を作ります。この土は太い幹をさらに太くします。土からたくさんの養分を吸い上げた幹は、春になると再び枝を伸ばし、たくさんの葉っぱを茂らせるのです。葉っぱも昆虫も微生物も木の幹もみんなお互いにつながって、依存し合って、頼り合っています。もっと言えば、葉っぱが季節ごとに色や姿を変えるのも太陽や雨や風や雪に依存しているからです。このような様子を素直な気持ちで観察していると、自然の営みは縁起の世界そのものだと気付かされます。お釈迦様の仰るとおり、これがこの世界の真実の姿と言うなら、人間だけがそこから外れて生きていると考えるのはとても不自然なことです。

私も葉っぱと同じようにこの縁起の世界を構成している一つの大切な要素です。私が生きているから、別の誰かも生きていられます。葉っぱからは土の中の微生物が見えないように、私の目にはその誰かは見えません。しかし、私とつながって、依存して、頼っている誰かがどこかにいるのです。もし目の前に「私はあなたのおかげで生きていられます」と言う人が現れたとしたら、それはとても幸せなことだと思います。しかしそんなことを言ってくれる人がいなくても、私が生きているから別の誰かも生きていられるという事実は変わらないでしょう。なぜならこれは、自然の営みそのものですし、私たち人間も自然の一部だからです。

誰にも変えられない真実、つまり真理は、人の意思や感情とは関係なくあり続けるものです。縁起の世界の中で生かされている私という命も、私の意思や感情とは関係なく存在しています。命は縁起という真理に従って存在しているだけで、意思や感情とは無関係です。ところが以前の私は、自分の意思と自分の力で生きていると思っていました。それは私の、そうであってほしいという錯覚でした。私はこの縁起の世界で、私以外のもの達から生かされ、そして私以外のもの達を生かしているのです。

ここで改めて最初の疑問「なぜ生きなければならないのか」を考えたいと思います。これまでお話ししてきた経緯から私が導き出した答えです。

私という命があるから他の命はあり、
私という命がなければ他の命はない。

だから生きなければならないのです。生きる意味も同じです。そして、このことは私の意思や感情や能力とは無関係です。すべては縁起によるつながりなのです。そうであるなら、命は生きているだけですでに役目を果たしていると言えるかもしれません。生きる意味は探すことではなく、すでにそこにあるのです。問題は、私がその事を認められるかどうかです。そのために、自分のフィルターを思い切って捨てられるかどうかなのです。

このように考えると、自分の意思で命を断ってはいけない理由が分かる気がします。それはとても不自然な姿に見えます。それはまるで、青々とした夏の葉っぱが自分の意思で枝から離れるようなものです。私はそんな光景を見たことがありません。葉っぱが枝から離れるには、その時期と理由がちゃんとあります。葉っぱは枯れて枝を離れて地に落ちても、土を肥やすという大切な役目があります。私は人間も同じではないかと思います。老いて病気になって死ぬことになっても、別の誰かを生かす役目があるように思うのです。そしてその時期は、葉っぱが自分では決められないように私たちも自分では決められません。私たちは老いや病気ではなく、事故や災害で死ぬこともあります。それでも別の誰かを生かす役目があることに変わりはありません。それは夏の葉っぱが台風によって枝から引き離されても、土を肥やす役目が変わらないことと同じです。

以上のような考えが本当に正しいのかどうか、これからも考え続けたいと思います。でもあまり固執すると、今度はこの考えがフィルターになってしまい縁起の世界を見えなくするかもしれません。そういう危険があることを忘れないでいたいと思います。ともかく今はこの考えを信じようと思います。そして自殺を考えている人に「自殺をしてはいけません」と呼びかけたいと思います。

住職代理 無聖(むしょう)