誤解や妄想が原因で一方的に非難されることがあります。こちらの事情や言い分は聞いてもらえず、相手の考えが唯一の正義となって一方的に責められることがあります。他人ならまだしも、自分のことをよく知っている身内からそのような扱いを受けるのは苦しいものです。誰もが自分が正しいと思っていますから、正義や正論の名を借りて相手を責め立てます。しかし実際にはそれらの名の下でエゴを満足させているだけということもあります。忍辱(にんにく)を修行の軸に据えている人は、ただ黙って耐えるばかりです。常に傷つけられ、負かされ、泣かされ続けることになります。現実は厳しく、そんな時に慰めてくれたり、味方になってくれたり、代わりに抗弁してくれる人はいません。たった一人で心の中の怒りや悲しみと向き合い、心が歪んでいくのを食い止めねばなりません。食い止めねば、道を踏み外すことが分かっているからです。これこそが修行というものでしょう。心を善く整えて、怒りや悲しみに支配されずに安心を取り戻すのです。
すぐに捨て去ることはなかなかできません。それならば心の中の引き出しに閉まっておくことです。引き出しの名は「怒り」「悲しみ」です。引き出しを開けて覗くのはやめましょう。閉まったままにしておくのです。そして他にたくさんの引き出しを作りましょう。例えば「ペット」「恋人」「目標」「頑張ったこと」「頑張れなかったこと」などです。あなただけの名前の引き出しをたくさん作ってください。引き出しを一つ二つしか持たない人は、それらを頻繁に開けて覗き込むことになります。たくさん持てば、閉まったままの引き出しも増えていきます。
傷つけられても、負かされても、泣かされても良いではないですか。人を傷つけたり、負かしたり、泣かしたりするよりはよっぽど上等な生き方です。それは罪を量産しない生き方、仏道に通じる生き方です。確信をもってそんな生き方ができるなら、たった一人でも恐れることはありません。真理が百万の味方となってあなたを護ってくれます。
あるご相談を受けて
先日このようなお話を聞きました。「一方的に責め続けられています。言い返したい気持ちを抑えてずっと耐えています。もし言い返せばその時はスッキリするでしょうが、後になって必ず後悔するからです。人を責めて苦しめるような人間にはなりたくないという気持ちもあります。しかし私が黙っていると、相手はどんどん口撃をエスカレートさせます。その内、自分は本当に罪深い人間で、生きる価値はないのではないかと思うようになりました。生きる自信を失いつつあります。」と。実は私も同じ経験を持っています。私の場合は、私にもいくつかの非があって責められるだけの理由がありました。しかしその時私が感じたのは、相手が口撃をエスカレートさせていくにつれて、徐々に真実ではない妄想を膨らませて怒りを増幅させていることでした。怒りの心が冷静さを失わせているようでした。口撃は激しさを増していきました。私は段々と自分がひどい悪人であるかのように思い始めました。
悪言が放つ負のエネルギーはとても強いものです。たった一つの悪言にさえ人を死に追いやるほどの力があります。普通の良心などは簡単に吹き飛ばされてしまいます。それに負けないためには、一言で言えば「強くなる」ことです。しかし恥を恥とも思わない鉄面皮になれと言うのではありません。自分の非や恥は素直に認めますが、決して卑屈にはならず、さらに強い自信を得て生きることです。このように生きるには、真実を味方につけるしかありません。原因はどこにあるのか。非難の内容は真実か。こちらに非はあるか。その非を謝罪したか。善悪の判断は、各自の価値観や学びの度合いによってまちまちです。唯一確かなものは真実です。相手にも自分にも偏らず、感情的な要素は捨てて真実だけを見ることができれば、そしてその真実から逃げなければ、そうした努力態度が自ずと強い自信へと変わっていきます。相手の煩悩にも自分の煩悩にも振り回されない大きな安心が手に入るからです。もしそこに真実性を裏付ける正しい教えや信仰があるなら、より強固な自信となるでしょう。そこまで行けば、あなたにとって相手は「無」になります。さらに言えば「大恩人」にもなります。
誤解や妄想に打ち勝つのはいつも真実です。耐えることは苦しいですね。私にも実感があります。耐える中で真実を見るのは口で言うほど簡単ではありません。心の中で孤独な闘いが続きます。お釈迦様は耐えることを「最上の苦行」と表現しました。お釈迦様ほどの人が「最上」と言うからには理由があるはずです。忍耐が真実を見る契機となり、さらに強固な自信へとつながれば、私たちが善く生きるための力になるはずです。負のエネルギーを結果として正に変えることができます。人生のすべてに応用できる最上の智慧と言えるでしょう。すべてが忍耐から始まると思えば、確かに苦行ではあるけれど、私たちが幸せになるためにいかに大切な修行であるかが理解できます。
住職代理 無聖