ある若い方からお手紙をいただきました。そこには次のようなことが書かれていました。
「自分の気持ちとは別に、人の幸せに対しては笑顔で『おめでとう』と言いたいです。だってその方がかっこいいから。その人が過去に私にしたことを思うと、今でもよく思っていませんが、それとこれとは別です」。
あまり快く思っていない相手に対してでも、そうした感情はいったん引き出しに閉まって、感情には流されないで、人として善いことは善いことと認めることができるなら、それは自分の心を正しくコントロールできている証しです。そのような心から起こる行いは正しいものです。
そしてこうも書かれていました。
「みんなが私のすることを知らなくても、私は私のすることを知っています。だから自分で自分を認められるように、きれいな心で正しいことをしたいです」
結局は、何もかもすべてを知っているのは自分だけです。悪事をなして、たとえそれが人にばれなかったとしても、自分だけはよく分かっています。後悔をするのも、恥に思うのも、誰でもなく自分なのです。善事をなして、たとえそれが誰にも気づかれなくても、自分だけはよく知っています。自分を認め、自分を大切にすることができるのです。こういう目線、判断基準、ものさしを心の中に持っている人からは徐々に悪が遠のいていきます。
このお手紙は、私の目には決意表明のように映りました。いつも宣言どおりにできているわけではないでしょう。実際には、できる時もあればできない時もあるでしょう。それでもこのような心のあり方を自覚し、このような心で生きようと努力することは立派です。確かにかっこいいと思います。時々の自分の悪い感情に流されずに、様々なことに対して「きれいな心」で向き合えているか、「正しい行い」になっているかと立ち止まって考えるのは正しい精進と言えます。そして正しい精進なら、人の幸せを願ってするようなことでも、結局は自分の幸せにつながるものなのです。
お手紙を読み終わって、「さて、私はどうか」と考えました。私も同じです。できる時もあれば、できない時もあります。ですから、できない自分の愚かさを忘れずに、決して傲慢にならずに、できる時を徐々に増やしていきたいと思います。私の机の前の壁には、お釈迦様の言葉を書いたメモが貼ってあります。そこには「自分のすること、しないこと、ただこれのみを観るがよい」とあります。私だけが私のすることを知っています。
お手紙をくださった方へ
あなたの住所がわからないので、ここに書かせていただました。これは、私が信じていることですが、一つ一つの決意表明(仏教では「誓願」と呼びます)が人を育てるのだと思います。心に決めたことをあきらめずにやり通そうとする努力が様々な悪心を遠ざけてくれます。きれいな心になるための努力は、正しい決意表明から始まるように思います。お手紙をありがとうございました。
住職代理 無聖