Blog
護法山正雲寺 会津本山 > 最新情報 > Blog > 沙門日記 > 正論について思うこと

正論について思うこと

私たち修行僧にとって、仏様の教えは真実であり、生きて行く上での指針でもあります。ですから、議論の場では仏様の教えこそが正論ということになります。試しに「正論」を辞書で引きますと「道理にかなった論議」とあり、さらに「道理」を調べてみると「人間として守らなければならない道」とあります。

時々、修行僧同士で議論することがあります。議論が白熱すると、誰もが仏様の教えを口にして「私が言っていることは正論なのに、なぜあなたは理解しないのか」というようなことを言います。時にそれは相手を責めているようです。言われた方も正論であることを分かっていますから、そのように言われるとぐうの音も出ません。しかし心の中では「人間は正論どおりにはいかない」と負け惜しみをつぶやくのです。

「人は仏様の教えのとおりにはなかなか生きられない」。私もそう思います。もちろん教えのとおりに生きたいと願っていますし、その努力もしています。それでもなかなか届きません。そんな私にできることは、仏様の教えに届かない自分を見限ったり、道を諦めたりしないことでしょうか。私の中には、仏様の教えに届こうと努力する実直な自分とその努力を台無しにしてしまう愚かな自分がいます。二人の私が心の中でせめぎ合っているようです。

私は議論の場ではできるだけ正論を持ち出さないようにしています。分かっていてもできない自分のように相手もそうかもしれないからです。その人が心の中のせめぎ合いに打ち勝って、課題をクリアするまでは待ってあげてもいいのではないでしょうか。私ならそうしてほしいと思います。もちろん相手が「努力の人」であることが前提ですが。正論は高徳の人が用いれば正しく力を発揮しますが、未熟な者が使えば人を責めたり非難したりするための凶器にもなります。修行僧は特に注意すべきことです。

住職代理 無聖(むしょう)