自分は善いことをしているのか、それとも悪いことをしているのか。修行僧はいつも悩んでいます。修行僧は仏法の理解が浅いため我流の判断に陥りがちです。自分では善いと思っていることでも、仏法に照らせば悪いという場合もあります。普通に考え話し行動しているだけなのに、それらがすでに悪いということがあるのです。学びのない、よく調教されていない心は、私は敢えて「ありのままの自分」「自然体の自分」と呼んでいますが、そのままでは悪い場合が多いのです。
師匠や善い先輩に恵まれれば、ことの善悪について助言をもらうことができますし、悪いことをしている時には修正してもらうこともできます。しかしそれらは人生の中ではごく一時的なことです。結局は人に頼らず自分で正しい判断をしなければなりません。そのためには、仏法を懸命に学ぶのと同時に日常の言葉や行動を慎しむことが大切になってきます。その昔、「お前は黙っていなさい」とよく叱られました。これは「沈黙せよ」という意味ですが、同時に「考え話し行動する前に、それらが仏法に適っているのかよく点検しなさい」という意味でもあります。
しっかり点検し、満を持して話し行動しても、必ず善い結果になるとは限りません。まだまだ点検が足りないということもありますし、そもそも拠り所となる仏法への理解が浅いということもあります。もし対人関係で痛い思いをしようものなら、「もう何もしない方がいい」となりがちです。しかしそれではいけないと思います。慎しむことと臆病になることとは違います。慎しみながらも踏み出す勇気は必要です。結果として痛くて苦しい思いをしたなら、自分で悪い原因を作ったということですし、反対に嬉しくて楽しい思いをしたなら、自分で善い原因を作ったということでしょう。こういう実体験を通して善悪のことを学ぶのには勇気が必要です。悪因苦果を懺悔(さんげ)するのも、善因楽果に自惚(うぬぼ)れないのも勇気です。苦果をもたらした悪因は何だったのか、楽果をもたらした善因は何だったのかを冷静に見定めることで善悪の判断が徐々にできるようになります。勇気を出して痛みや失敗を乗り越え、悪因苦果を確実に減らし、善因楽果を一つずつ増やしていくこと、それが現実的な仏道修行と言えるでしょう。目標とするのは、考えること、話すこと、行動することの全てが善因となり楽果となることです。
住職代理 無聖(むしょう)