昨年2月、私は「どうして生きなければならないのか(長文)」というタイトルのブログを掲載しました。その中で私は次のように述べました。
ここで改めて最初の疑問「なぜ生きなければならないのか」を考えたいと思います。これまでお話ししてきた経緯から私が導き出した答えです。
私という命があるから他の命はあり、
私という命がなければ他の命はない。だから生きなければならないのです。生きる意味も同じです。そして、このことは私の意思や感情や能力とは無関係です。すべては縁起によるつながりなのです。そうであるなら、命は生きているだけですでに役目を果たしていると言えるかもしれません。生きる意味は探すことではなく、すでにそこにあるのです。
もし私たちが、ただ生きているだけですでに役目を果たしているというなら(私はこれを信じておりますが)、私たちの主体性はどこにあるのでしょうか。そして私たちの意思や感情や能力が無関係というなら、それらはいったい何のためにあるのでしょうか。
私はこう思います。命と命のつながりの生滅変化は縁起に任せするとしても、そのつながりを善いものにするか、それとも悪いものにするかは私たちに任されているのではないでしょうか。私とあなたのつながりは縁起によって定められたことかもしれませんが、その関係を善くするか悪くすかは私たちの努力精進次第ということです。そのために私たちは意思や感情や能力を使うことができます。繰り返しになりますが、私たちは生きているというだけで他の命を生かしています。そこに私たちの主体性はありません。それでもなお私たちに努力精進の余地が残っている理由は、その関係をより善いものにすることができるからです。そして善い関係を築くことによって他の命を善く生かすことができるからです。そしてそのことによって結局は双方の命の価値を高めることができるのだと思います。
私は「どうして生きなければならないのか」と問うのは傲慢な態度だと思います。私たちは因果の全容を見通すことはできませんし、縁起の働きを完全に理解することもできません。私が生きているだけで他の命を生かしているというなら、私は黙ってこれに従いたいと思います。できればもっと謙虚になって、「どうして生きなければならないのか」と問うのはやめて、「縁起によって与えられたこの命、その命の価値を私の努力精進によってどこまで善くすることができるのか」と問いたいと思います。
住職代理 無聖(むしょう)