私たちはどうして苦しむのでしょうか。人生には楽しいこともありますが、苦しいこともあります。中には苦しみが多すぎて楽しみを忘れてしまった人もあるでしょう。たった一つの苦しみが他のすべての楽しみを帳消しにしてしまうことがあります。そんな時は誰でも「生きるのは辛い」と思いがちです。
お釈迦様は、苦しみの原因は「渇愛(かつあい)」にあると言いました。渇愛とは、のどが渇いた人が激しく水を求めるような激しい執着(しゅうちゃく)のことです。執着には二つの顔があります。自分の好きなものに対する「愛着」と自分の嫌いなものに対する「嫌悪」です。どちらも対象にとらわれて心が拘束されている状態です。愛着が深ければ、失った時の悲しみが深くなります。嫌悪が強ければ、一緒にいることの苦痛が強くなります。愛着も嫌悪も自分の思い通りにしたいという心の現れです。そして思い通りにはならないときに苦しみが生まれます。
愛着と嫌悪が無くなれば苦しみも無くなります。それはつまり「好きなものを作るな」「嫌いなものを作るな」ということです。これは対象に対して「無関心でいなさい」という意味ではありません。むしろその逆です。対象を突き詰めて観察し、「その実相(本当の姿)を見なさい」という意味です。実相とは、私たちが好き嫌いのフィルターを外した時に初めて見える対象の本当の姿、ありのままの姿のことです。しかし実相を見るのはなかなか大変です。なぜなら私たちの心の中には愛着と嫌悪が根付いていて、それらのフィルターを通して対象を見ることに慣れきっているからです。当たり前のように対象を愛着と嫌悪で選別してしまいます。そのはびこり様はとても厄介です。この厄介者を取り除くためには強力な武器が必要です。お釈迦様はその武器として二つの知恵を用意してくれました。それが「無常」と「無我」です。

この世に存在するあらゆる事物は因縁(初めに原因があり後に条件が揃うこと)によって生まれ、変化し、やがて消滅します。初めに種があり、土や雨や太陽といった諸条件が揃って花が咲くようなものです。条件は刻一刻と変化し、それに応じて花の姿も変化し、やがて消滅します。この一連の動きは一時も止まることがありません。この連続した有り様を無常といいます。私たち人間もこの無常の中で生きています。生まれた時から肉体は老化します。目には止まっているように見えても確実に変化しています。細胞も皮膚も髪の毛も生じ変化し消滅することを繰り返しています。ところが私たち人間はその事実を認めようとしません。それどころか老化を止めようとして変化に抵抗します。移り行くこと(無常)は誰にも止められない事実なのに、時を止めて状態を固定し同じ状態のまま存続させようとします。移り行くものたちの中で自分の執着したものだけは固定した存在であるかのような妄想を抱きます。あらゆる事物は因縁によってその時その時に姿を現しているだけであり、それははかなく生成された現象に過ぎません。固定された確たる存在はどこにもないのです。この事実を無我といいます。無我は対象の存在自体以外にも対象に向き合った時の人の感情にも当てはまります。分かりやすくするために無我の「我」を「自分が感じたこと」と解釈してみましょう。人が感じる器官は六種類あります。眼(眼に見えること)、耳(耳に聞こえること)、鼻(鼻に香ること)、舌(舌に味わうこと)、身(身体に触れること)、意(心に感じること)です。ここでは六つの代表として「舌」について考えてみます。
私は子供の頃、ほうれん草が大の苦手でした。ところが大人になった今では大好物になりました。変わったのは私の感じ方であり、ほうれん草自体は昔も今も変わりません。ですから「ほうれん草はまずいもの」と決めつける私の感覚は正しくほうれん草の実相を言い当ててはいないのです。また「ほうれん草は美味しいもの」という感覚も同様です。では、私の舌の感覚を除外した時に見えるほうれん草の実相とは何でしょうか。「緑色をした野菜」ですか。果たして可視光線の異なる人間以外の昆虫や動物の目にも緑色に映るでしょうか。また彼らにとっは野菜なのでしょうか。こう考えると、「緑色」も「野菜」も人間世界だけで通用する感じ方と言えるかもしれません。このように主体によって感じ方が変わるという世界で対象の実相を見るのはとても難しいのです。もし無常と無我の視点からほうれん草を見るなら、それは因縁によってその時その時に姿を現し、はかなく生成された現象であり、固定された存在ではないとしか言いようがありません。そしてここに至っては「ほうれん草」と名前をつけて他と区別することすら無意味になるのです。
あなたが対象にしているもの、それ自体が無常の中にあって無我なる存在です。あなたが対象から受ける愛着や嫌悪といった感じ方も無常であり無我です。形のあるものも形のないものもすべては移り行くのであり、固定された存在ではありません。空に浮かぶ雲、川を流れる水、谷を渡る風、それぞれが無常の有様と無我の事実を如実に語っています。自然の営みだけではなく、私たち生き物の一生とその心に抱く感情もまた同じなのです。あなたがとらわれているものは移り行くものであり、現象のようなもので実体がありません。そのような捉えどころのないものに対して「こうあって欲しい」「こうでなければならない」という感情を持っても思い通りにはなりません。それはまるで流れる川に一本の釘を打つようなものです。私たちは流れを止めて水を固定しようとしますが実現はしません。そして実現しないことに腹を立てたり悲しんだりしています。もしあなたが流れる川に釘を打つことが無駄なことだと思うなら、対人関係においてもその思いを持てるように努力してください。すべての対象の中で対人関係を挙げたのは多くに人にとってそれが一番切実な問題だからです。嫌いな人、愛する人とどうやって向き合えばいいのか。彼らに心を乱されることなくいつも平和でいるにはどうすればいいのか。それらがとても切実なのです。相手の存在も自分の感じ方もすべては流れる水のようなものであり、釘を打ち込んで停止できるようなものではない(執着するべきものではない)ということを積極的に意識することです。それは本物の心の平和を獲得するための第一歩となります。
どこで聞いたのか覚えていませんが、「世界は執着心でできている」と言った人がいました。お釈迦さまの教えもこのとおりです。そうであるなら、その世界で執着心を捨てよというのはゴジラに対して素手で戦いを挑むようなものかもしれません。しかし驚くことに勝算は十分にあります。それほど私たちの知恵と知恵に支えられた心は強力で偉大なのです。
住職代理 無聖(むしょう)