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心の平和

かつて、無学老師は「心が平和でない者は、人の心を平和にすることはできない」と言いました。たとえば、海の中で溺れている人がいるとします。その人は助かりたい一心で必死にもがいています。そしてまた、そのすぐ隣りに、同じように溺れて必死にもがいている人がいるとします。この場合、片方の人はもう片方の人を助けることができるでしょうか。おそらくそれはできないでしょう。それぞれが、自分のことで精一杯だからです。ではいったい誰が溺れる人を助けることができるでしょうか。それは、頑丈な船、つまり十分に安定した船に乗っている人だけが助けることができるのです。これと同じことが、私たちの心にも言えます。老師のいう心の平和とは、人を助けるために、心が十分に安定しているということです。当たり前のことなのに、この当たり前のことが、度々おろそかになりがちです。老師は「まずは自分をととのえなさい。人助けはそれからだ」とも言いました。利他を重視するあまり自利をおろそかにしてはならないのです。「人の役に立ちたい。人を幸せにしたい」という意気込みを聞くことがあります。そのような志しを実現しようと思うなら、それにふさわしい心を持たなければなりません。もしも、簡単に心を乱したり、悪い心を起こすようなら、それは程遠いといえるでしょう。

心の平和、心の安定、自分をととのえる、それぞれ表現は違いますが、私たちがなすべきことは一つです。それは自分を知ることです。もしあなたの心が平和ではないのなら、その原因を他人にでなはく、自分の中に探ることです。その作業は、主観を除いた客観的分析でなければなりません。人は誰でも自分をひいき目に見るからです。最初期の仏典には、この客観的分析が多く記されています。独善や感情を除いた極めて冷静な分析です。難しいですが、ひと通りご紹介します。探究心のある方はご自分で紐解いてみてください。人間一人の存在は、肉体の要素1と精神作用の要素4の合計五つの要素に分解されます。すなわち、色・受・想・行・識です。色(しき)は人間の肉体を指し、受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)は人間の精神作用を指します。肉体の要素はただ一つなのに、精神作用の要素が四つも存在する理由は、人間の精神がそれだけ複雑だからです。そしてここからがたいへん重要な分析です。釈尊は、これらの五つの要素はそれぞれ無常であると説きました。そして無常であるから苦であり、苦であるから無我でり、無我であるから、これはわが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない、と説きました。そして最後に、この正しい智慧によってありのままに観察し、五つの要素に執着することを止めよと言ったのです。そうすれば心の平和が得られると。自分を知るとは、私たち人間も他の万物と同じように移ろい変わる存在であり、執着しても意味がないと知ることです。執着とは、移ろい変わるものに対して変わらぬことを望むことです。望んでもそれが叶うことはありません。そこに苦が生じるのです。歳をとりたくない、死にたくないと願っても、私たちは必ず歳をとり、死に至ります。その移ろい変わりを止めることは誰にもできません。

私は、この教えを聞いた時「釈尊は、肉体の活動、精神の働きによって成される人としての向上をあきらめよと言っているのだろうか。それは虚しいことではないか」と思いました。しかしそれは浅はかでした。釈尊は、執着するのを止めよと言ったのです。肉体の活動と精神の働きを否定しているのではありません。それらは、私たちの執著する心によって営まれるのではなく、正しい智慧のみによって営まれるべきであると、そのように説いているのだと思います。対象に執著する心を捨てて、対象をありのままに受け入れることなのです。たとえば、死に至る病気になった人がいるとします。もしその人が「なぜ自分がこんな目にあうのか」と悲嘆し、悩み、怒り、恐れ、不安に苛まれるならば、それらは執着となるのです。しかしもし「私は死に至る病気になったのだ」という事実だけをありのままに受け入れたのなら、それは心の平和となるのです。江戸時代の僧侶に良寛(りょうかん)というお方がいます。良寛様の言葉は、まさにこの境地を表しているのです。最後にご紹介します。

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候

住職代理 無聖(むしょう)