先日、「母親を怨んでいる」と言う六十過ぎの人と話をしました。その人が負った数々の苦しみを聞いて、私は同情する気持ちになりましたが、他方では、「六十も過ぎているというのに、人を怨んだり怒ったりすることに何の意味があるのか」と考えていました。この人ばかりではありません。程度の差こそあれ、相談に来られる人の多くが、怨みの心を持っています。宗教は「怨みを捨てよ」と説きます。しかし、信仰をもってしても、この世から怨みの心は無くなりません。家族が怨み合うのなら、その先にある民族や国家が怨み合うのも当然です。悲しいことですが、これが人間の現実です。
「人は、人を怨むためにこの世に生まれてきたわけではない」
無学老師が臨終で語った言葉です。私は老師の口から怨みの言葉を聞いたことがありません。老師は波乱の人生を送った人ですから、怨み怨まれることもあったでしょう。その老師がこの言葉を残したのには理由があったと思います。もしかすると、老師自身も心の奥底に捨てきれない怨みがあり、その心と闘い続けていたのかもしれません。私はまもなく還暦を迎えますが、最近になってやっと老師の言葉を理解するようになりました。人生の意義や残された余生を否応なく考える時、怨みや怒りで費やす時間がいかに無駄であったかと気づくのです。私はこんなことをするために生まれてきたのではないのだと。
私は、若いころ、父親を怨んでいました。父親の人生哲学に馴染めず、二十年間も反抗して関係を断っていました。その後、紆余曲折があって父と再会し、父子の関係を修復しようと努めましたが、その最中に父は亡くなりました。親不孝もそうですが、二十年間も怨みの心を持ち続けたことを、私は今後悔しています。怨みは心を汚します。自分でも気づかないうちにです。怨みの心を持つ人は、清らかな心、清らかな言葉、清らかな行動が作り出す清らかな世界を知らないまま汚れた世界を生きることになります。それも、自分が世界を汚しているという自覚のないままにです。お釈迦様は「心を清らかに保て」と説きます。心が清らかなら住む世界も清らかになると。そのような美しい世界があるとも知らず、私は、この有限の人生の中で、長い年月、時間を無駄にしたのだと思います。そんな私から怨みの心を持つ人にお伝えしたいのは、「怨みから離れる」ということです。
怨みを完全に捨てられるなら、それが最善です。しかし、私がそうであるように、愚かな人はそれができません。そこで、私が実践していることをお伝えします。捨てられないなら、離れる時間を多くするのです。そのためには、心の中にたくさんの引き出しを持つといいでしょう。昔、お医者様が使っていた「薬だんす」のようにです。

引き出しの一つに「怨み」とラベルしておきます。大切なのは、この引き出しを開けないことです。引き出しを二、三しか持っていなかったら、頻繁に開けて中身を見ることになりますが、引き出しを何十も持っていれば、開ける時間が少なくなります。時には開けることすら忘れてしまうでしょう。このようにして、怨みと共存しながら、怨みから離れる時間を多くし、やがて怨みを捨てられる日が来るのを信じて待つのです。その間に、「怨み」とは何かを明らかにしてくれる真実の教えを学ぶのです。未来の成熟した自分が怨みの根を断ってくれます。その時、武器になるのは「感謝」です。しかし、これを真の武器にするまでには長い時間がかかります。私たちが知る日常的な「感謝」とは違います。苦しみを他人のせいにせず、因果の道理をわきまえ、それらを保つ人だけが獲得できる本物の「感謝」です。この「感謝」を獲得するまでは、怨みは引き出しに閉まっておくことです。引き出しを開けたままにすると、怨みの心、怨みの言葉、怨みの行動に支配され、怨みの世界を生きることになります。それは修羅地獄というものです。怨みが持つ悪のエネルギーを軽く見ずに、厳重に管理しなければなりません。
私たちは、人を怨むためにこの世に生まれてきたのではありません。因果の道理のもとで、自ら幸福になり、他人をも幸福にして、善の因果を未来の命に繋げるために生まれてきたのです。生きとし生けるものは、自を利して他を利しながら生きています。これが自然の営みです。人を怨むことは、自を害して他を害することです。わざわざ営みに反して不自然な生き方をする必要はありません。不自然な生き方はどこかで必ず破綻するものです。
住職代理 無聖(むしょう)