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正雲寺の修行 -善いこと悪いこと-

自分は善いことをしているのか、それとも悪いことをしているのか。修行僧はいつも悩んでいます。修行僧は仏法の理解が浅いため我流の判断に陥りがちです。自分では善いと思っていることでも、仏法に照らせば悪いという場合もあります。普通に考え話し行動しているだけなのに、それらがすでに悪いということがあるのです。学びのない、よく調教されていない心は、私は敢えて「ありのままの自分」「自然体の自分」と呼んでいますが、そのままでは悪い場合が多いのです。

師匠や善い先輩に恵まれれば、ことの善悪について助言をもらうことができますし、悪いことをしている時には修正してもらうこともできます。しかしそれらは人生の中ではごく一時的なことです。結局は人に頼らず自分で正しい判断をしなければなりません。そのためには、仏法を懸命に学ぶのと同時に日常の言葉や行動を慎しむことが大切になってきます。その昔、「お前は黙っていなさい」とよく叱られました。これは「沈黙せよ」という意味ですが、同時に「考え話し行動する前に、それらが仏法に適っているのかよく点検しなさい」という意味でもあります。

しっかり点検し、満を持して話し行動しても、必ず善い結果になるとは限りません。まだまだ点検が足りないということもありますし、そもそも拠り所となる仏法への理解が浅いということもあります。もし対人関係で痛い思いをしようものなら、「もう何もしない方がいい」となりがちです。しかしそれではいけないと思います。慎しむことと臆病になることとは違います。慎しみながらも踏み出す勇気は必要です。結果として痛くて苦しい思いをしたなら、自分で悪い原因を作ったということですし、反対に嬉しくて楽しい思いをしたなら、自分で善い原因を作ったということでしょう。こういう実体験を通して善悪のことを学ぶのには勇気が必要です。悪因苦果を懺悔(さんげ)するのも、善因楽果に自惚(うぬぼ)れないのも勇気です。苦果をもたらした悪因は何だったのか、楽果をもたらした善因は何だったのかを冷静に見定めることで善悪の判断が徐々にできるようになります。勇気を出して痛みや失敗を乗り越え、悪因苦果を確実に減らし、善因楽果を一つずつ増やしていくこと、それが現実的な仏道修行と言えるでしょう。目標とするのは、考えること、話すこと、行動することの全てが善因となり楽果となることです。

住職代理 無聖(むしょう)

仏教の目的

お釈迦様の教えは「この世の全ては原因と条件と結果の関係の中で生まれて変化し消滅する」です。ここから二つの目的が見えてきます。一つ目は、運命や神秘的な力に頼らず、自分の持てる力と眠っている力とを信じて、あきらめずに改善の努力を重ね、生きている間に本物の幸せを得ることです。たとえ過去の悪業の報いに苦しむことになっても、苦しみに負けずに今この時に善い原因を作り、善い条件を選び、そして善い結果を獲得するのです。二つ目は、苦しみの正体を知って苦しみを回避することです。変化し消滅するものに対して、変わらないように望んだり、消滅しないように望んでもそれらが叶うことはありません。この思い通りにしたいのに思い通りにならないことで生じる怒りや失望が苦しみの正体です。苦しみを招く執着心を制御しながら善に生きることで清らかな心を獲得することができます。清らかな心は自分と他人との両者を幸せにします。

言葉のルール

正雲寺には、滞在中は誰であろうと必ず守っていただく言葉のルールがあります。一時的に身を寄せている人にも、長期にわたって修行をしている人にも共通したルールです。

  1. 乱暴な言葉を吐かない。
  2. 自慢話をしない。
  3. 人の悪口を言わない。
  4. 人の過ちを責めない。
  5. 嘘や妄想を語らない。
  6. 愚痴を言わない。特に自分の不幸を他人のせいにしない。
  7. 自分を卑下する(自分を人より劣った者として扱う)言葉を言わない。

 

お寺は心を清める場所です。乱暴な言葉や嘘は似合いません。「口は災いのもと」と言いますが、その口をコントロールできれば「幸せのもと」にもなります。ここで出会った人には「まずは自分の普段の言葉を見直すことから始めましょう」とお話しします。それほど言葉で失敗している人は多いのです。

住職代理 無聖

「きれいな心で正しいことをしたい」

ある若い方からお手紙をいただきました。そこには次のようなことが書かれていました。

「自分の気持ちとは別に、人の幸せに対しては笑顔で『おめでとう』と言いたいです。だってその方がかっこいいから。その人が過去に私にしたことを思うと、今でもよく思っていませんが、それとこれとは別です」。

あまり快く思っていない相手に対してでも、そうした感情はいったん引き出しに閉まって、感情には流されないで、人として善いことは善いことと認めることができるなら、それは自分の心を正しくコントロールできている証しです。そのような心から起こる行いは正しいものです。

そしてこうも書かれていました。

「みんなが私のすることを知らなくても、私は私のすることを知っています。だから自分で自分を認められるように、きれいな心で正しいことをしたいです」

結局は、何もかもすべてを知っているのは自分だけです。悪事をなして、たとえそれが人にばれなかったとしても、自分だけはよく分かっています。後悔をするのも、恥に思うのも、誰でもなく自分なのです。善事をなして、たとえそれが誰にも気づかれなくても、自分だけはよく知っています。自分を認め、自分を大切にすることができるのです。こういう目線、判断基準、ものさしを心の中に持っている人からは徐々に悪が遠のいていきます。

このお手紙は、私の目には決意表明のように映りました。いつも宣言どおりにできているわけではないでしょう。実際には、できる時もあればできない時もあるでしょう。それでもこのような心のあり方を自覚し、このような心で生きようと努力することは立派です。確かにかっこいいと思います。時々の自分の悪い感情に流されずに、様々なことに対して「きれいな心」で向き合えているか、「正しい行い」になっているかと立ち止まって考えるのは正しい精進と言えます。そして正しい精進なら、人の幸せを願ってするようなことでも、結局は自分の幸せにつながるものなのです。

お手紙を読み終わって、「さて、私はどうか」と考えました。私も同じです。できる時もあれば、できない時もあります。ですから、できない自分の愚かさを忘れずに、決して傲慢にならずに、できる時を徐々に増やしていきたいと思います。私の机の前の壁には、お釈迦様の言葉を書いたメモが貼ってあります。そこには「自分のすること、しないこと、ただこれのみを観るがよい」とあります。私だけが私のすることを知っています。

 

お手紙をくださった方へ

あなたの住所がわからないので、ここに書かせていただました。これは、私が信じていることですが、一つ一つの決意表明(仏教では「誓願」と呼びます)が人を育てるのだと思います。心に決めたことをあきらめずにやり通そうとする努力が様々な悪心を遠ざけてくれます。きれいな心になるための努力は、正しい決意表明から始まるように思います。お手紙をありがとうございました。

住職代理 無聖

どうして生きなければならないのか(長文)

どうして生きなければならないのでしょうか。そして私はこうも思います。どうして自殺をしてはいけないのでしょうか。

おそらくは誰でも一度は考える問題ではないでしょうか。私は、もし本当の答えが分かれば、多くの人が人生の新しい価値に目覚めるのではないかと思います。そもそも「なぜ生きるのか」が分からないのに「なぜ死んではいけないのか」を説明することはできないでしょう。世の中にはたくさんの考えがあります。これからお話しするのもその中の一つです。これが本当の答えかどうかはわかりません。また人の目を覚ますほどの説得力があるのかどうかもわかりません。ただ、今のところは、私自身がこの考えに納得しているというまでです。無責任と思われるかもしれませんが、この問題について一緒に考えていただきたいと思いお話しすることにしました。これは私の想像ですが、正解は大昔からごく自然な形で当たり前のように存在していて、誰の心にもスッと入っていくものだろうと思います。そういうことを念頭に置きながらお話を進めたいと思います。

今から2500年ほど前、今のインドとネパールの国境あたりにシャカ(釈迦)族という部族が暮らしていました。このシャカ族の中にガウタマ・シッダールタという名前の王子がいました。後に悟りを開き「ブッダ」となられた方です。私たち僧侶は、尊敬と親しみを込めて「お釈迦様」と呼んでいます。お釈迦様はこのようなことを仰っています。

「この世界では、すべてが原因と条件と結果の関係で成り立っている。その関係の中ですべては生じ、変化し、そして消滅する。これは誰にも変えられない真実である」

多少言葉を置き換えていますが、意味するところは同じです。この言葉をヒントに考えてみたいと思います。まずはこの言葉を紐解いてみましょう。ご存知の方も多いかもしれませんが、この「原因と条件と結果の関係」を「縁起」といいます。「縁起が良い」とか「縁起が悪い」とか、私たちがよく口にするあの縁起です。もし人から「仏教って何を教えているの?」と尋ねられたら、私は「仏教は縁起を教えています」と答えます。それくらい縁起は仏教の中心にある教えです。でも原因と条件と結果という言葉では、まだちょっと分かりづらいですね。それぞれの言葉を置き換えてみましょう。かりに庭に咲いている一輪の花を「結果」とします。この花を咲かせる「原因」は種です。しかし種さえあれば花が咲くわけではありません。そこには太陽とか雨とか土といった色々な「条件」が揃っていなければなりません。これが「原因と条件と結果の関係で成り立っている」です。それぞれは互いにしっかりつながっています。必要な日照や雨水や土壌があるから花は咲きます。そして咲いた花もそのままということはなく、条件などが少しでも変われば、しおれて枯れてやがて地に落ちます。これが「生じ、変化し、そして消滅する」ということです。原因があっても条件が揃わなければ結果とはなりません。条件が揃っても、その条件が少しでも変われば結果も変わります。ずっと同じ姿のままということはありません。これを「無常」といいます。そして次には、その咲いた花に引き寄せられたミツバチが巣に帰って蜂蜜を作ります。今度は花が「原因」となり、ミツバチが「条件」となって蜂蜜が「結果」になりました。こうやって縁起はつながっていき、別の場面を形成するのです。私たちの命はどうでしょう。父の存在、母の存在、それぞれが原因となり、その後の色々な条件が揃って、私の誕生という結果に結びつきます。そして次には私の存在が原因となり、仏法によって見知らぬ誰かが人生の新しい価値に目覚め自殺を思いとどまったとしたら、それもまた原因があり条件が揃って結果に結びついたと言えます。原因と条件と結果の関係は、目に見える形、目に見えない形(ここでは血のつながりと心のつながり)を問わず成立しています。このように考えると、この世の中で縁起でないものはないと言えます。最後にお釈迦様は「誰にも変えられない真実」だと仰っています。人間の力では変えることはできないというのです。もっと身近な例で言えば、私たちが、生まれて老いて病気になって死ぬことも、全てが原因と条件と結果の連続です。しかも誰も老いを止められないし、死なずにいることもできません。この「誰にも変えられない真実」を「真理」といいます。つまり、これまでの話は縁起と無常と真理という三つの言葉に集約できることが分かります。もう一度お釈迦様の言葉を見てみましょう。

「この世界では、すべてが原因と条件と結果の関係にある。その関係の中ですべては生じ、変化し、そして消滅する。これは誰にも変えられない真実である」でしたね。この言葉はそのまま「この世界では、すべてが縁起の関係にある。縁起の中ではすべてが無常である。これは真理である」と言い換えることができます。縁起によってしっかりつながっているということは、見方を変えると、すべてがお互いに依存し合っているということです。お互いが頼り合って生きているということです。人間の場合ならこうです。

あなたがいるから私がいる。
あなたがいなければ私はいない。
私がいるからあなたがいる。
私がいなければあなたはいない。

ということになります。皆さんはこれを実感できますか。「あなたがいるから私がいる。あなたがいなければ私はいない」というのは分かります。お父さんとお母さんのことですね。もっと言えば、お爺ちゃんとお婆ちゃん、曾祖父ちゃんと曾祖母ちゃんのことです。また、血がつながっていなくても、心でつながっている大切な人があなたにはいるかもしれません。では、「私がいるからあなたがいる。私がいなければあなたはいない」というのはどうでしょう。ずいぶん横柄な物言いに聞こえるかもしれません。しかしこれはそういう感情の話ではないのです。人間の感情とは無関係の真理の世界のお話です。もしあなたにお子さんがいらっしゃるなら分かりやすいでしょう。あなたの存在なくして子供は存在し得ないからです。しかし多くの場合「私がいるからあなたがいる」というのは実感しづらいかもしれません。「私が誰かの命を支えている」、「誰かが私を頼りにしている」という実感はなかなか得られません。それどころか自分は一人ぼっちだと思っている方もいるでしょう。先ほど私はこの世界は、縁起によってしっかりつながっている、互いに依存し合っている、頼り合って生きていると言いました。それが本当なら、一人ぼっちというのはないはずです。それでも一人ぼっちを感じてしまうのはなぜでしょうか。

これは私の考えですが、それはこの縁起の世界が、観察力を総動員して素直な気持ちで見なければ見えないからだと思います。ひと目ちらっと見るぐらいでは縁起の世界は見えません。なぜなら私たちはこの世界を「こうであってほしい」「こうでなければならない」と自分の世界観で見ることに慣れきっているからです。そういうフィルターを通して見ることが当たり前になってしまっているから縁起の世界が見えづらくなっているのです。先ほどの種と花とミツバチのお話も、縁起の世界をちゃんと説明しているのに、それを自分のこととしては考えない。自分とは別の世界の話だと思っています。自分には「こうであってほしい」「こうでなければならない」という世界観があって、それに当てはまらないものは認められないからです。人間は老いることが当たり前なのに若くありたいと願います。白髪も皺も日に日に増えて見た目も変わっていくのに、髪を染めたり、皺を目立たなくしたりして、全然変わっていないかのように思いたがります。無常なものに不変を求めるのです。真実の姿とは逆の姿を求めようとします。こういう例は他にもたくさんあります。まずはこういう真実を 逆に捉えてしまう自分のフィルターを取り去らなければ縁起の世界は見えてこないのでしょう。本当は一人ぼっちじゃないのに、自分の世界観の中だけで生きているから一人ぼっちを感じてしまうのだと思います。中には「そんなことはない。自分は本当に一人なんだ」と怒る方がいるかもしれません。そう仰る方も試しにフィルターを捨てて観察してみてください。それをしたからといって損になることはないでしょう。私の場合、縁起の世界を素直に見られない時には、境内にある大きな木を観察することにしています。

正雲寺は山の中にあります。山には大きな木がたくさん立っています。境内にもいくつかの大木があります。大木の太い幹からは数えきれないぐらいのたくさんの枝が伸びています。そしてその一本一本の枝には、これまたたくさんの葉っぱが付いています。春になると枝から小さな芽が出て、やわらかくみずみずしい黄緑色の葉っぱが広がります。それが夏になると濃い緑色に変わって、今度は固く強そうな葉っぱに変身します。秋になると緑色は薄い黄色に変化し、オレンジ色になったかと思うとすぐに真っ赤に変わります。冬が訪れると赤色はうす茶色に変化し、水気を失って小さく縮みます。やがて風に煽られて自然に枝から離れて地面に落ちて行きます。地面に落ちた葉っぱは、昆虫や微生物の格好の食料です。彼らはそこでたくさんのフンをします。それらがまた栄養いっぱいの土を作ります。この土は太い幹をさらに太くします。土からたくさんの養分を吸い上げた幹は、春になると再び枝を伸ばし、たくさんの葉っぱを茂らせるのです。葉っぱも昆虫も微生物も木の幹もみんなお互いにつながって、依存し合って、頼り合っています。もっと言えば、葉っぱが季節ごとに色や姿を変えるのも太陽や雨や風や雪に依存しているからです。このような様子を素直な気持ちで観察していると、自然の営みは縁起の世界そのものだと気付かされます。お釈迦様の仰るとおり、これがこの世界の真実の姿と言うなら、人間だけがそこから外れて生きていると考えるのはとても不自然なことです。

私も葉っぱと同じようにこの縁起の世界を構成している一つの大切な要素です。私が生きているから、別の誰かも生きていられます。葉っぱからは土の中の微生物が見えないように、私の目にはその誰かは見えません。しかし、私とつながって、依存して、頼っている誰かがどこかにいるのです。もし目の前に「私はあなたのおかげで生きていられます」と言う人が現れたとしたら、それはとても幸せなことだと思います。しかしそんなことを言ってくれる人がいなくても、私が生きているから別の誰かも生きていられるという事実は変わらないでしょう。なぜならこれは、自然の営みそのものですし、私たち人間も自然の一部だからです。

誰にも変えられない真実、つまり真理は、人の意思や感情とは関係なくあり続けるものです。縁起の世界の中で生かされている私という命も、私の意思や感情とは関係なく存在しています。命は縁起という真理に従って存在しているだけで、意思や感情とは無関係です。ところが以前の私は、自分の意思と自分の力で生きていると思っていました。それは私の、そうであってほしいという錯覚でした。私はこの縁起の世界で、私以外のもの達から生かされ、そして私以外のもの達を生かしているのです。

ここで改めて最初の疑問「なぜ生きなければならないのか」を考えたいと思います。これまでお話ししてきた経緯から私が導き出した答えです。

私という命があるから他の命はあり、
私という命がなければ他の命はない。

だから生きなければならないのです。生きる意味も同じです。そして、このことは私の意思や感情や能力とは無関係です。すべては縁起によるつながりなのです。そうであるなら、命は生きているだけですでに役目を果たしていると言えるかもしれません。生きる意味は探すことではなく、すでにそこにあるのです。問題は、私がその事を認められるかどうかです。そのために、自分のフィルターを思い切って捨てられるかどうかなのです。

このように考えると、自分の意思で命を断ってはいけない理由が分かる気がします。それはとても不自然な姿に見えます。それはまるで、青々とした夏の葉っぱが自分の意思で枝から離れるようなものです。私はそんな光景を見たことがありません。葉っぱが枝から離れるには、その時期と理由がちゃんとあります。葉っぱは枯れて枝を離れて地に落ちても、土を肥やすという大切な役目があります。私は人間も同じではないかと思います。老いて病気になって死ぬことになっても、別の誰かを生かす役目があるように思うのです。そしてその時期は、葉っぱが自分では決められないように私たちも自分では決められません。私たちは老いや病気ではなく、事故や災害で死ぬこともあります。それでも別の誰かを生かす役目があることに変わりはありません。それは夏の葉っぱが台風によって枝から引き離されても、土を肥やす役目が変わらないことと同じです。

以上のような考えが本当に正しいのかどうか、これからも考え続けたいと思います。でもあまり固執すると、今度はこの考えがフィルターになってしまい縁起の世界を見えなくするかもしれません。そういう危険があることを忘れないでいたいと思います。ともかく今はこの考えを信じようと思います。そして自殺を考えている人に「自殺をしてはいけません」と呼びかけたいと思います。

住職代理 無聖(むしょう)

言葉の恐ろしさ

「言葉は凶器」という表現があります。たった一つの言葉が人を死に追いやることがあります。また発せられる言葉以外に必要な時に発せられない言葉もまた凶器となります。助けが必要な時に沈黙したり無関心でいることがそうです。いずれにせよ、凶器となり得る言葉、すなわち悪言は私たちが考える以上に私たちの心に巣くっています。仏教では大まかに以下の四つを挙げています。

  • 妄語 うそ、でたらめ
  • 両舌 陰口、二枚舌、二人の人に違うことを言って仲違いさせる言葉
  • 悪口 あしざまにののしる言葉
  • 綺語 真実にそむいて、巧みに飾った言葉

 

人が口にしてはいけない悪言があります。いったん発せられると取り返しがつきません。後からどんなに謝罪しても相手の心に刻まれた悪言はなかなか消えません。死ぬまで消えないこともあります。たとえその時は許しても「この人は怒りに任せてこんなにひどい言葉を吐く人だ」という印象はずっと残ったままです。

仏門でも悪言と無縁ではありません。未熟な修行僧ほど悪言を持っていますが、相手を許すことも修行ですから大事に至ることはまずありません。しかし世間では仲間でもない他人を許すことは難しいでしょう。こちらが黙っていると口撃をエスカレートさせる人もいるほどです。死傷事件や紛争に発展することもあります。正雲寺に寄せられるご相談のほとんどが悪言に関連しています。

皆様に言葉の恐ろしさを今一度考えていただきたいと思いこのブログを書いています。もちろん私自身が発した取り返しのつかない悪言を思い返しながらです。恐ろしいことに、人は悪意がなくても無意識に人を傷つけることがあります。言葉は心の表れです。私たちの心には人を傷つける悪いものがあるのです。それは、謙虚になって自分の心を見つめ、一所懸命に取り去る努力をしなければなくなりません。努力どころか自覚もない人は人を傷つけ続け、罪を量産しているのです。ご自分の言葉の恐ろしさを知って、感情に任せて口を開くのではなく、それがどれほど人を苦しめるのかをご自分の身に置き換えて考えてください。慎重に慎重を重ねても悪言は消えません。毎日の努力目標にしている僧侶でさえ悪言を消すことはできません。この厄介な悪言が私たちの人生を大きく狂わせ不幸にします。その恐ろしさをどうか知ってください。合掌

住職代理 無聖

怒りや悲しみに支配されそうな時

誤解や妄想が原因で一方的に非難されることがあります。こちらの事情や言い分は聞いてもらえず、相手の考えが唯一の正義となって一方的に責められることがあります。他人ならまだしも、自分のことをよく知っている身内からそのような扱いを受けるのは苦しいものです。誰もが自分が正しいと思っていますから、正義や正論の名を借りて相手を責め立てます。しかし実際にはそれらの名の下でエゴを満足させているだけということもあります。忍辱(にんにく)を修行の軸に据えている人は、ただ黙って耐えるばかりです。常に傷つけられ、負かされ、泣かされ続けることになります。現実は厳しく、そんな時に慰めてくれたり、味方になってくれたり、代わりに抗弁してくれる人はいません。たった一人で心の中の怒りや悲しみと向き合い、心が歪んでいくのを食い止めねばなりません。食い止めねば、道を踏み外すことが分かっているからです。これこそが修行というものでしょう。心を善く整えて、怒りや悲しみに支配されずに安心を取り戻すのです。

すぐに捨て去ることはなかなかできません。それならば心の中の引き出しに閉まっておくことです。引き出しの名は「怒り」「悲しみ」です。引き出しを開けて覗くのはやめましょう。閉まったままにしておくのです。そして他にたくさんの引き出しを作りましょう。例えば「ペット」「恋人」「目標」「頑張ったこと」「頑張れなかったこと」などです。あなただけの名前の引き出しをたくさん作ってください。引き出しを一つ二つしか持たない人は、それらを頻繁に開けて覗き込むことになります。たくさん持てば、閉まったままの引き出しも増えていきます。

傷つけられても、負かされても、泣かされても良いではないですか。人を傷つけたり、負かしたり、泣かしたりするよりはよっぽど上等な生き方です。それは罪を量産しない生き方、仏道に通じる生き方です。確信をもってそんな生き方ができるなら、たった一人でも恐れることはありません。真理が百万の味方となってあなたを護ってくれます。

 

あるご相談を受けて

先日このようなお話を聞きました。「一方的に責め続けられています。言い返したい気持ちを抑えてずっと耐えています。もし言い返せばその時はスッキリするでしょうが、後になって必ず後悔するからです。人を責めて苦しめるような人間にはなりたくないという気持ちもあります。しかし私が黙っていると、相手はどんどん口撃をエスカレートさせます。その内、自分は本当に罪深い人間で、生きる価値はないのではないかと思うようになりました。生きる自信を失いつつあります。」と。実は私も同じ経験を持っています。私の場合は、私にもいくつかの非があって責められるだけの理由がありました。しかしその時私が感じたのは、相手が口撃をエスカレートさせていくにつれて、徐々に真実ではない妄想を膨らませて怒りを増幅させていることでした。怒りの心が冷静さを失わせているようでした。口撃は激しさを増していきました。私は段々と自分がひどい悪人であるかのように思い始めました。

悪言が放つ負のエネルギーはとても強いものです。たった一つの悪言にさえ人を死に追いやるほどの力があります。普通の良心などは簡単に吹き飛ばされてしまいます。それに負けないためには、一言で言えば「強くなる」ことです。しかし恥を恥とも思わない鉄面皮になれと言うのではありません。自分の非や恥は素直に認めますが、決して卑屈にはならず、さらに強い自信を得て生きることです。このように生きるには、真実を味方につけるしかありません。原因はどこにあるのか。非難の内容は真実か。こちらに非はあるか。その非を謝罪したか。善悪の判断は、各自の価値観や学びの度合いによってまちまちです。唯一確かなものは真実です。相手にも自分にも偏らず、感情的な要素は捨てて真実だけを見ることができれば、そしてその真実から逃げなければ、そうした努力態度が自ずと強い自信へと変わっていきます。相手の煩悩にも自分の煩悩にも振り回されない大きな安心が手に入るからです。もしそこに真実性を裏付ける正しい教えや信仰があるなら、より強固な自信となるでしょう。そこまで行けば、あなたにとって相手は「無」になります。さらに言えば「大恩人」にもなります。

誤解や妄想に打ち勝つのはいつも真実です。耐えることは苦しいですね。私にも実感があります。耐える中で真実を見るのは口で言うほど簡単ではありません。心の中で孤独な闘いが続きます。お釈迦様は耐えることを「最上の苦行」と表現しました。お釈迦様ほどの人が「最上」と言うからには理由があるはずです。忍耐が真実を見る契機となり、さらに強固な自信へとつながれば、私たちが善く生きるための力になるはずです。負のエネルギーを結果として正に変えることができます。人生のすべてに応用できる最上の智慧と言えるでしょう。すべてが忍耐から始まると思えば、確かに苦行ではあるけれど、私たちが幸せになるためにいかに大切な修行であるかが理解できます。

住職代理 無聖

問い:人と動物、命の価値に違いはありますか。

答え:命の価値は皆同じです。

「六道輪廻(ろくどうりんね)」という仏教思想があります。全ての命は六つの世界(六道)を行き来し、その中で生死を繰り返す(輪廻する)というものです。この六つの世界とは、天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界です。命は死後に生前の善行と悪行の数を量られ、善行の数が多ければより善い世界に、また悪行の数が多ければより悪い世界に生まれかわります。私たち人間が住む世界は人間界です。ペットをはじめ人間以外の動物たちが住む世界が畜生界です。畜生界は人間界よりも下位にあるため「人間よりも動物の方が命の価値は低い」という差別的な考えが生まれました。本来、六つの世界の違いは苦しみの量だけです。ところがそこに住む命の価値にまで優劣や上下を論じるようになってしまったのです。

もとより仏教は差別を否定します。六道のような明確な区別はあっても命の差別はしません。「生まれによって賤(いや)しいものとなるのではない。行為によって賤しいものとなるのである」とお釈迦様は仰いました。命そのものではなく、行いによって尊卑が決まるということです。命の価値は平等です。もし生前の悪行が多ければ、人間は畜生界に生まれかわるかもしれません。反対に動物たちは生前の善行が多ければ、人間界に生まれかわるかもしれません。課せられた条件は人間も動物も同じです。全ての命は同じ条件のもとで生きているのです。

命の価値に違いはないとはいえ、生きている間に多くの人を傷つけたり悲しませたりする私たちと違い、ペットはたくさんの人に喜びや幸せを与えています。どちらが、お釈迦様の言う「賤(いや)しいもの」でしょうか。命の価値を考える時、こうしたことも一緒に考えてみてください。

住職代理 無聖(むしょう)

怒りや苦しみに耐える。『仏遺教経』より

数ある修行の中で、私が自分にとって特に重要だと考えている修行は「忍耐」です。忍耐とは、怒りを鎮めて苦しみに耐えることです。『仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)』というお経があります。お釈迦様がそのご臨終で説いた最後の説法と言われています。まさしく遺言ですね。このお経の中に忍耐についての記述がありますのでご紹介します。拙い意訳ですがお許しください。

修行僧たちよ、
たとえ刃物で体を切り刻まれても、
怒ってはならない。
固く口を閉ざしなさい。
怒りの言葉を吐いてはならない。
もし怒りの心をそのまま放置すれば、
今までの修行の成果は台無しになり、
これから先の修行の妨げともなる。
どれだけ戒律を守り、
どれだけ苦行を重ねたとしても、
忍耐の功徳には及ばない。
忍耐をよく実践する人は、
大人物となるであろう。
たとえ人から罵(ののし)られても、
むしろ喜んで受け入れるなら、
その人は智慧の完成した人である。
怒りは様々な善行を無価値にし、
築き上げてきたものを破壊する。
今の人も未来の人も
怒る人に対しては
誰も相手にしない。
怒りは燃え盛る炎よりも激しい。
常に防護して、
心に入れないようにしなさい。
怒りは、大切にしているものを
すべて焼き尽くすからである。

この教えを説いたお釈迦様もご自分の一族が他国によって滅ぼされるという経験をなさいました。愛する者たちが殺されるのを黙って見ているより他なかったのです。その怒りと苦しみはいかばかりでしょう。しかしその中にあってもお釈迦様は「怨みに対して怨みで報いても怨みが消えることはない。怨みを捨ててこそ怨みは消える」と仰いました。怒りや怨みを捨てて耐えることはとても難しいことです。前を走っている車が遅いというだけで怒ってしまう私たちです。そんな私たちにできるでしょうか。お釈迦様もその難しさはよく分かっておられます。ですから別のお経では「耐えることは最上の苦行」と仰っています。耐えることは確かに苦行ですが、本物の心の安らぎを獲得する(涅槃に入る)ための一番上等な修行だと仰っているのです。

正直に言えば、私はこの修行を途中で投げ出すことがあります。修行を台無しにしてしまうことがあります。その度にスタート地点に戻る気持ちです。ですから私の修行は遅々として進まないのでしょうね。皆様はいかがですか。そんな情けない私だからこそ、あえて忍耐を一番重要な修行にしているのです。もしもあなたが私について「怒らない人」という印象を持ったとしたら、それは私が心の中で必死に努力をしている証拠です。微笑みの下には激しく揺れ動く未熟な私がいます。

住職代理 無聖(むしょう)

人生の穴と向き合う

 人生には、ある日突然、思いがけず穴が開くことがあります。重い病気を患ったり、事故に遭ったり、大切な人を失ったりします。他人の無理解やひどい仕打ちで開く穴もあります。毎日の生活の中で私たちが経験する悲しいことや苦しいことがそうです。できることなら穴は開けたくありませんが、残念ながらそうはなりません。私たちは必ず開いてしまうこの穴に対してどうように向き合えばいいのでしょうか。

 穴の前では、茫然とする人、嘆き悲しむ人、腹を立てる人、自暴自棄になる人がいます。ありがたくも嬉しくもない穴ですから、気持ちが荒(すさ)んでしまうのは無理もありません。しかし他方では、気持ちが荒んでいくのを止めて、穴を見つめながら考える人もいます。その人は、荒んだ気持ちを長く持ち続けても、結局は自分の心と体をボロボロにするだけだと知っています。そして驚くことに、この思いがけず開いてしまった穴に顔を近づけて「穴が開く前には見えなかったけれど、こうして穴が開いたからこそ見える風景、今まで見たこともないような風景がきっと広がっているはずだ」と期待感を持って言うのです。その人は人並外れた忍耐力を持っているわけでも、底抜けの楽観主義者というわけでもありません。ただ一つの真実「すべての物事の意味は自分の心が作り出している」ということを知っていたのです。自分の心がけ次第でマイナスの意味付けもできるし、プラスの意味付けもできるということをです。

 先日、友人から手紙が届きました。その手紙には、友人のお母様が痴呆症のために、自分の名前も生い立ちも、これまでの人生の出来事もすべて忘れ去ってしまったようだと書かれてありました。私は、友人がお母様をとても大切に思っていることを知っていましたので、さぞ心中はお辛いことだろうと思いました。ところが手紙の最後には「日に日に心が軽くなっていく母を羨ましいと思うことがあります。色々と忘れてしまうことは神様からの最後の贈り物かもしれません」と書かれていました。なってしまった病いを恨み続けるのではなく、開いてしまった穴から、穴が開くまでは見えなかったものを見ようとする意思、穴が開いたことのプラスの意味を知ろうとする謙虚さが記されていました。おそらく友人はこの心がけによって、平穏な心でお母様と濃密な時間を過ごすことでしょう。

 物事の意味を決めるのは自分の心です。どんなに防御をしても、必ず開いてしまう穴です。生きていく中ではきっとたくさんの穴が開くことでしょう。それならば上手に付き合っていく方が良いに決まっています。自分を暗い気持ちにさせる意味より明るい気持ちにさせる意味を選ぶ方が賢明というものです。私たちはどちらも自由に選べるのですから。

 私たちは、何か事があるごとに神様や仏様にお願い事をします。「健康でありますように」「合格しますように」「成功しますように」といった具合にです。私たちはいつも「欲しいもの」をお願いします。しかし神仏が私たちにお授けになるのは「必要なもの」です。もしかすると、健康を願う人には病いを、合格を願う人に不合格を、成功を願う人には失敗をお授けになるかもしれません。そうだとすると、神仏はそれらが私たちに必要だと判断されたからです。悲しみや苦しみの中でさえ、その人が開いた穴から新しい風景を見ることができる人だと信じておられるのです。私は悲しい時や苦しい時は、この状況が今の私に必要なのだと思うようにしています。そしてこの状況の中で嘆き悲しむこと以外にどんな風景が見えるのか、私を人として成熟させるようなプラスの意味を探すようにしています。

住職代理 無聖(むしょう)