法話

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問い:何十年も前の水子ですが、どうすればいいでしょうか。

答え:今日を好機として、勇気を出してお子様と向き合ってください。

ある女性は「50年前に中絶した子供がいます。この事は誰にも言わずに、墓まで持っていくつもりでした。今まで、この話題に触れるのを避けてきました。子供にどう詫びていいのか分かりません。こんな私は地獄におちても仕方がないと思っています」と仏さまの前で泣いて告白されました。私は、女性が苦しみ続けた長い年月を思い、胸が詰まってしまいました。長い沈黙をはさみながら一時間ほど経ったころ、ようやく落ち着かれた様子でしたので、次のようにお話しをさせていただきました。「あなたは50年という時間をかけて、今ついに仏縁を結んだのです。もしかすると、仏さまとは無縁のまま生涯を終えたかもしれません。50年はあなたに必要な時間だったのです。この尊いご縁をもたらしてくれた方こそ、あなたのお子様です。お子様は寂しさに耐えながら、あなたの機が熟すのを50年も待ってくださったのです。これほどの親孝行があるでしょうか。あなたは自分で地獄におちるとおっしゃっていますが、お子様は無垢の愛であなたが地獄におちないように一生懸命に導こうとしているとは思いませんか。どうか、そのお子様の愛に応えてあげてください」と。女性はうつむいたままでしたが、確かにうなずいてくれました。

お子様の愛に応えるには、心からの懺悔(さんげ)とご供養が必要です。この二つが合わさったものがお葬式とお考えください。お葬式というと、形式張ったものを想像する方もおられるでしょうが、大切なのはそこではありません。お葬式によって、お子様とお母さまの両者は、大きな心の平安を得ることができます。今まで正常とは言えなかった二人の関係が、本来の「慈母と愛児」の関係に戻るのです。お子様の存在は、お母さまにとっての「悲しみの種」から「幸せの種」へと変わります。避け続けてきた存在が、「この子なくして私の幸せはない」とまで思わせる存在となるのです。生きていれば、当たり前の親子関係です。母は子を愛し、子は母を慕います。優しくて寛容な関係を再び築くこと、これがお葬式の大切な意味なのです。

水子ちゃんのことでお悩みの方は、いつでもご連絡ください。なんでもお話しください。ご相談は無料です。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
メール: mushosan@shounji.or.jp
LINE ID: mushosan
ご連絡の際「ブログを見た」と
書き添えていただけると幸いです。

会津正雲寺 0242-28-1110
大分正雲寺 097-583-4433
水子供養は、福島県と大分県にある二つの正雲寺で承ります。

問い:人を幸せにする仕事がしたいです。

答え:その前に、考えてほしいことがあります。

正雲寺には毎日たくさんの方がお見えになります。お一人お一人とのご縁を大切に思い、私ども僧侶は必ず笑顔でお迎えするようにしています。皆さまも笑顔を返してくださるので、気持ちの良い、幸せな出会いが実現します。笑顔の効果についてはよく分かっているつもりの私ですが、夕方、居宅に戻ると、疲れもあってか、仏頂面になることがあります。昼間の笑顔はどこにいったのやら。おそらくは家族への甘えがあるのかもしれませんね。他人に笑顔を見せるより、家族に笑顔を見せることの方がずっと難しいようです。「愛は近きから」と言います。実際、家族の幸せをないがしろにして、家の外に幸せを求めようとする人々が多いようです。家族の幸せのためには、乗り越えなければならない面倒があるからでしょう。

「面倒」の一番は、「許す」ことです。いつも一緒にいる家族の欠点はよく見えます。これに対して、深い付き合いのない他人の欠点は見えず、表面上の美点だけが目に映ります。家族の欠点を見るより、他人の美点を見ている方が気持ちいいのです。家族の幸せを考えるなら、欠点を許す気持ちがなければなりません。表面上の欠点は許し、表面に現れない内にある美点に気付いてあげることが大切です。おならやげっぷを繰り返すデリカシーのないお父さんでも、家族のためなら、辛いことのすべてをのみ込んで毎日会社に出かけます。怒ってばかりでヒステリー気味のお母さんでも、家族のためなら、一日も休まずご飯を作り続けます。本当に大切なものは表面には出てきません。内にある美点は、心の目で見なければ見えないのです。お父さんとお母さんの、自分はどんなに辛くても、家族への愛は変わらないというのがそれです。

今年89歳になるカトリックのシスター渡部は「面倒だから、しよう」と言葉を標語に掲げておられます。普通は「面倒だから、しない」であって矛盾するようですが、これで正しいのです。私たちは利便性や速さを追い求めるあまり「時間のかかる面倒なことはしない」という考え方を当然と思っています。しかし、そのような考え方が通用しないものがあります。本当に大切なものほど、時間がかかり面倒なものです。愛・友情・寛容・謙虚・幸福。どれも私たちの人生に欠かせないものですが、時間をかけて努力しなければ手に入らないものばかりです。「面倒だ」と言っていては、一度きりしかない人生を放棄しているようなものなのです。

人の欠点を許す心を持ってください。そして人の内に秘めた美点に気付いてあげてください。決して口には出さないけれど、どんな人にも心の中で守り通している美点があるのです。まずは最も身近な人の欠点を許すことからです。他人を幸せにする前に、あなたの家族を幸せにすることを真剣に考えてください。その努力を惜しまない人なら、他人を幸せにすることもできます。人を幸せにするノウハウは同じなのです。逆の言い方をすれば、家族を悲しませるような人は、他人を幸せにすることはできないということです。

最後に、愛の定義をご紹介します。それは「自分がして欲しいと思うことを人にすること」です。これは、ブッダとキリストのお二人が、生きた時代も場所も超えておっしゃったことです。喜びが欲しいなら、人に喜びを与えることです。自分が傷つきたくないなら、人を傷つけないことです。あなたが幸せになりたいなら、人を幸せにすることです。嘘だとお思いなら、どなたか年長の方に聞いてみてください。人生の機微をお持ちの方なら、皆さん同じはずです。あなたが自分の欠点を見ないで欲しいと思うなら、人の欠点を見ないことです。自分の美点に気付いて欲しいと思うなら、人の美点に気付いてあげることです。これらの努力は、すべて「愛」で貫かれています。あなたが努力し続ける限り、あなたは愛に満ちた人生を送っているということなのです。なんと素敵なことではありませんか!

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
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問い:心のぶつかり合いに悩んでいます。

答え:人は人。あなたはあなたの花を咲かせてください。

嫌いな人に向かって「その性格を変えてください」と言っても、相手が受け入れることはありません。なぜなら、たとえあなたが嫌っていても、相手は自分の性格を愛しているからです。その上、あなたの言葉は「私は自分の性格を変えるつもりはありません。しかしあなたは性格を変えてください。私の気に入るように」と宣言しているようなものだからです。人はあなたとは全く違う考え方を持っているものです。それなのに、あなたは自分の考え方を標準だと思い込んで、そこに当てはめようとします。それができないと知ると、腹を立てます。程度の差こそあれ、これはヒトラーがユダヤ人にしたことと根本的には同じです。

「あの人と私とは違う。違って当たり前」と、いつも心に言い聞かせてください。それを繰り返している内に、嫌いな人の存在はあなたの心の中で薄く弱くなっていきます。あなたは感情の束縛から自由になり、小さなことに目くじらを立てなくなります。もし相手が本当に嫌な性格の人だとしても、困るのは本人です。あなたとは関係ありません。嫌ったり憎んだり、結局はあなたが相手に支配されているということです。「人は人、私は私」と思えた瞬間から、相手の支配から抜け出て自由になります。この自由があなたの心を穏やかにしてくれます。今まで嫌っていた人を優しく包むことさえできるようになるのです。心の力は偉大です。心のあり方一つが、あなたを独裁者にも聖人にも変えます。

自分と人との違いをはっきり認めることができれば、人の長所に嫉妬したり、人の短所に腹を立てることはなくなります。そのように比較していること自体ばかばかしく思えてくるものです。その時間を「私は私。私なりの花を咲かせたい」と考えることに使いましょう。花を咲かせるとは、事業を成功させたり出世することではありません。それは、あなたが生きている意味、つまりあなたが誰かに喜びを与え、あなたがいるおかげで誰かが幸せな気持ちになると、証明することです。

人があなたに挨拶をしなくても、あなたは挨拶をしてください。人が険しい表情をしていても、あなたはほほえんでください。実際、挨拶をしない人ほど挨拶されるのを望んでいます。険しい表情の人ほどほほえみを望んでいるのです。挨拶もほほえみも、かたくなな心をやわらかくし、幸せな気持ちにさせてくれます。しかし、分かっていても、そのような人には近づきたくないというのが本音でしょう。「したくないけれど、しよう」という気持ちが尊いのです。「私なりの花を咲かせる」とは、このような努力を言うのです。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
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問い:人から「礼儀がない」と言われました。

答え:意識してファーストワードを使いましょう。

人から「元気ですか」と尋ねられた時、あなたはどう応えますか。ただ「元気です」とだけ応える人は、これからは「おかげさまで」を先に言うようにしましょう。理屈っぽい人は「何のおかげですか」と聞いて来るかもしれませんね。何のおかげでもいいのです。「おかげさまで」は、「私が今元気なのは私一人の力でなはく、多くの人に支えられているおかげです」という気持ちの現れです。それは神さまや仏さまのおかげかもしれません。いずれにせよ、あなたが目に見えないものを大切する人、自分以外の人に敬意をはらう人だという証しです。そういう人を「人格者」と言います。

人から「体調がすぐれない」と打ち明けられた時、あなたはどうしますか。「〇〇薬を飲みなさい」や「〇〇病院に行きなさい」と言うでしょうか。言われた人は「そんなことは私にも分かっている。聞きたい言葉はそれではない」と思っているかもしれません。これからは薬や病院を紹介する前に「それはお困りですね。お辛いことでしょう」と言ってあげてください。その人は、具体的な対処法を聞くよりも、あなたからの思いやりの言葉がほしいのです。

「おかげさまで」や「それはお困りですね」は、ファーストワードです。私たちはよくこのファーストワードを省略して、セカンドワードから話しをしがちです。相手へ敬意や思いやりの心は、ファーストワードの中に込められています。これからは意識してファーストワードを使い、血の通った温かい会話、人格者の会話を目指しましょう。正しい敬語を使うこと以上に、あなたのファーストワードがあなたを「礼儀正しい人」にしてくれます。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
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問い:お金の余裕がなく、水子供養ができません。

答え:毎月24日の無料の水子供養にお申し込みください。

お母さまの中には「ずっと子供の供養をしたいと思っていますが、生活に余裕がなく供養ができません」とおっしゃる方がいます。悲しい思いをされていることでしょう。お辛いこととお察しいたします。

正雲寺では毎月24日に、無料の水子供養をさせていただいております。これは、お母さま(もちろんお父さまでも結構です)のお名前を法要の中で僧侶が読み上げて、亡きお子様に親の愛情をお伝えするのが目的です。「事情があって今はお葬式を挙げられないけれど、決してあなたのことを忘れていないよ。愛しているよ」とお伝えするのです。

電話でお名前とお住まいの都道府県をお知らせください。当寺からご連絡することは一切ありませんのでご安心ください。なお、匿名や仮名はお受けできません。ご供養に隠しごとや嘘があってはならないからです。毎月24日の午前10時から行います。その時刻には、手を合わせ、頭を下げてご一緒にお祈りください。そしてもし余裕ができましたら、正雲寺にお出でいただき、お子様のお葬式を挙げてあげてください。正雲寺(福島県会津若松市と大分県由布市にあります)では、すべてを含み1万円で承っております。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
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問い:本当の愛とは何ですか?

答え:それは慈悲(じひ)の心です。

慈悲とは、人が苦しんでいる時に、その人の心に寄り添って苦しみを和らげることです。そしてもし可能なら、苦しみの原因を取り除くことです。自分の話題にすり替えたりせず、相手の問題に入っていく優しさ(関心)と辛抱が必要です。「あなたの苦しみは苦しみではない。私はもっと苦しい経験をした」などと言って自慢気に自分の経験を話すべきではありません。心に響くどころか、その人のエゴに付き合わされて嫌気を覚えることになるのです。もし目の前に苦しんでいる人がいたら、「それは辛いですね。さぞ苦しかったでしょう」と言えばいいのです。あなたに余裕があるなら「私にできることがありますか」と言ってください。たとえ無力でも、その優しさ(関心を寄せてくれたこと)に救われるのです。そして、お金でも物でも、あなたの財産は惜しみなく分け与えてください。それが無理なら、優しい言葉や笑顔、知識や智慧でもいいのです。そうやって相手の苦しみを和らげてください。これが本当の愛です。「与えるばかりでは自分が損をする」という考えは捨ててください。仏さまもイエス様も「惜しみなく人に与える者は、自分が与えた以上のものを人から得る」とおっしゃっています。損をするどころか、一番得をすることになるのです。お二人のお言葉を信じることです。

私たちは「私を理解してほしい。私に優しくしてほしい。私を幸せにしてほしい。私のそばにいてほしい」という具合に、いつでも「私」が中心となって、「ほしい」と叫んでいます。これらの叫び声を上手に飾って「愛」と言っていることが多いのです。私たちは、いつでも何かを「得ること」に必死になっています。本当の愛とはほど遠い、まったく反対のことをしているのです。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
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試練の中で

ある男が夢を見ました。夢の中で男は主イエスと二人で並んで歩いていました。男が後ろを振り返ると、これまでの道のりには、主イエスと自分の二組の足跡が記されていました。ところが、所々、足跡が一組しかない場所があります。男は思いました。

「そういえば、その場所は私が苦しんでいた時だ。
私が苦しんでいた時に限って一組しかない」。
そこで男は傍らのイエスに尋ねます。
「どうして私があなたを一番必要とした時に、
私からお離れになったのですか」。
イエスがお答えになりました。
「いとしい我が子よ。
私は片時もお前の側を離れたことはない。
お前が見た一組の足跡は、私のもの。
私はその時、お前を背負っていたのだ」

渡部和子著 『目に見えないけれど大切なもの』 より

   

苦しい時ほど「自分はひとりぼっち」と思いがちです。この男のように、足跡が一組しかなければ、それは自分の足跡だと思い込みます。でも本当はそうではないのです。あなたが苦しみに負けないように、その試練を乗り越えられるように、そっと手を差し伸べてくれる存在が必ずあるのです。どんな試練の中にあっても、このことは忘れないでください。

「主イエス」とありますように、これはキリスト教のお話しです。私は仏教を奉ずる僧侶ですが、この話しを信じております。私にも「ひとりぼっち」と思うことが幾度もありました。その度に「こんなに苦しんでいるのに誰も助けてくれない」とひがんだりしました。それでも、ここまでたどり着けたのは、仏さまが私を背負ってくださったからです。そうでなければ、懲りずに愚行を繰り返す私が、今こうして穏やかな気持ちでいられるわけがありません。目には見えなくても、大きくて尊い存在を感じることは誰にもあるでしょう。背負われているのは、きっとそのような時かもしれません。どうか、自暴自棄になったりあきらめたりしないでくださいね。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
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問い:中絶をしました。罪悪感に苦しんでいます。

答え:仏さまに懺悔(さんげ)をしてください。

あなたに回心していただき、笑顔を取り戻してもらいたいと思います。仏さまは、深い愛情で罪を犯した人々を平等に優しく包んでくださいます。どうぞ、家の中で悩んでいないで、お寺に足を運んでください。そして仏さまの前に座って、心からの懺悔(さんげ)をしてください。

あなたが辛いお立場にあることは承知しております。しかし事実は申し上げなければなりません。正しい自覚なしに先に進めば、再び過ちを犯す危険があるからです。中絶はいかなる理由においても罪です。ここにマザーテレサの言葉をご紹介します。「中絶する者は平和の破壊者です。なぜならば、母が子供を殺すなら、他人同士が殺し合うのは当然になるからです」。この言葉の根底には「命を与え、また命を奪うのは神のみ」という考えがあります。神ではない人が命を自由にしてはならないということです。中絶は、男女の間で適切な配慮がなされていれば、犯す必要のなかった罪です。仏教は、自分の命を維持するための最小限の殺生は認めています。しかしそれ以外の必要性のない殺生は厳しく禁じています。「みだりに殺してはならない」は、仏教の戒律の中で最も重大な戒律です。それだけに罪も重いのです。罪を犯せば、それ相応の苦の報いが必ずあります。誰も報いから逃れることはできません。これを仏教の用語で「自業自得(じごうじとく)」と言っています。あなたが現に罪悪感に苦しんでいることが報いかもしれませんし、別の形でやって来るかもしれません。それは誰にも分からないのです。苦の報いを消し去ることはできません。

懺悔とは、合掌して頭を下げ、嘘や飾りのない素直な心で仏さまに洗いざらい罪を告白することです。そして「もう二度と繰り返しません」と誓い、回心することです。その心が本物である時、仏さまがあなたの罪を消し去り、重い報いを軽くし、あなたの身と心を清らかにしてくださると経典には書かれています。懺悔の不思議な力と言えるでしょう。あなたはまず徹底して懺悔をしなければなりません。その懺悔が本物であった時、はじめて未来が開かれるのです。正雲寺にお越しの際は、どうぞ声をかけください。仏さまの慈悲の心に触れながら、これからのことを一緒に考えてまいりましょう。

住職代理 無聖(むしょう)

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大分正雲寺 097-583-4433
水子供養は、福島県と大分県にある二つの正雲寺で承ります。

〇懺悔の不思議な力については、『修証義』という経典に記されています。あわせてご覧ください。
『修証義』第7節
『修証義』第8節

問い:ここから逃げたいです。

答え:置かれた場所で咲きなさい。

私がお慕いする宗教家の一人に、渡部和子というカトリックのシスターがいます。今年、89歳におなりです。答えに示した「置かれた場所で咲きなさい」は、シスターのお言葉です。同名の著書がありますので、ご存じの方も多いでしょう。この言葉は、シスターがまだお若く、悩むこと多かった時代に、ある宣教師から贈られた英詩で、原意は「神があなたをお植えになった場所で咲きなさい」であったものをシスターが「もっと日本人に馴染みやすい言葉で」と意訳されたものです。この英詩には続きがあります。それは「咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと証明することなのです」というものです。私はこの続きの部分も含めて、この言葉がとても好きです。

おそらくは誰でも不本意な境遇に身を置いた経験がおありでしょう。今がそうだという人もいらっしゃるかもしれません。お尋ねの方のように「逃げたいのに逃げられない」という境遇で、誰にも相談できずに悩んでおられるかもしれません。シスターは、50年以上も信仰と修道に生きたお方ですが、それでも「こんなはずじゃなかった。逃げたくてしかたない」という思いの連続だったとおっしゃっています。

境遇を変えることは難しくても、それに向き合う心は自由です。境遇が変えられないからといって、あなたの心までが変えられないわけではありません。病気のためにベッドに寝たきりの人でも、心までベッドに縛られているわけではありません。病気を悲観してすさんだ気持ちになるのも、笑顔を振りまいて他の患者さんに喜びを与えるのも同じ心です。同じものを見ていても、暗い気持ちになる人もいれば、明るく前向きにとらえる人もいます。辛い境遇から逃げたいと思うか、立ち向かって自分の成長の肥やしにするかで、ずいぶんと人生は変わります。

あなたが今ここにあるのは、神様がお決めになったプランだからです。神様はきっと、その不本意な境遇でも、あなたが力を発揮することをすでにご承知なのです。あなたが出し惜しみをしている潜在的な力を引き出すために、あえてその境遇をお選びになったのでしょう。神様の親心です。そのお心に感謝して、思し召しのとおりであることを証明してみせてください。苦しいことや悲しいことが続くかもしれません。でもそれは必ず終わります。聖書には「神様は力に余る試練を決してお与えにならない。試練には、それに耐えられるように逃れる道を備えてくださる」とあります。心配せずに自分の力を信じて、笑顔で歩いてください。その時、あなたの前方には、あなたのための道が必ず延びていきます。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
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今を善(よ)く生きる

幽霊といえば、おどろ髪(手入れされていないぼさぼさの髪)を後ろに長くひき、両手は体の前でだらりと垂れ、両足のない姿というイメージですね。うつろで生気のない様子は、生きている私たちとは違って見えます。ところが本当は私たちの姿そのものだというのです。長いおどろ髪は、過去にとらわれ、ずっと引きずっている様子を、前に垂れた両手は、為す術なくただ未来を思い煩っている様子を、両足がないのは、しっかり大地を踏みしめて今を生きていない様子を表しているそうです。

仏さまは「過去を悔いることなく、未来を悩むことなく、今を善く生きなさい」と教えています。今を善く生きているなら、過去のすべての過ちは善の種となります。悔いる必要はありません。そして未来は今の積み重ねですから、今を善く生きているなら未来も善く生きられます。悩む必要はありません。過去と未来の価値を決めるのは、今の生き様なのです。あれこれ悩まずに、今を善く生きることに専念しましょう。善く生きるとは、あなたが毎日「喜び」と「感謝」とともに生きることです。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
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