沙門日記

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ナマケモノ

皆さんは、怠(なま)けることがありますか。私はあります。ずっと昔から、「怠けたい」と「怠けたらダメ」の間を行ったり来たりしてきたように思います。お経の中には、「怠けてはだめだぞ」というお釈迦さまの言葉が何度も繰り返し出てきます。それは裏を返せば、お釈迦さまの時代も、私のような怠け者がたくさんいたということでしょう。それを知って、情けないことに、少し安心したりしているわけです。とはいえ、怠けることがダメなのは知っています。心を奮い立たせて、少ない智慧を絞りながら、怠け心と戦っています。勝つときもあれば負けるときもあります。

そもそも、怠けるとは、どういうことなのでしょうか。一般的には、自分のなすべきことをやらずに放っておくことと説明されます。また仏教では、わがままに振るまって気を散らし、なすべき修行に専念しないこととも説明されます。いずれにせよ、そのなすべきこととは、他の誰のためでもなく、自分自身のためのことです。利益を得るため、または、不利益を回避するためのことです。それをしないというわけですから、後になって後悔したり苦しんだりするのも当然です。このような態度が習慣になってしまうと、その時は楽をしているように感じても、結局は後からツケがまわってきて、苦しい思いをすることになります。怖いのは、怠けることが日常になり、それを恥ずかしいこととも思わず、自分に対しても他人に対しても、恥じる心を無くしてしまうことです。お釈迦さまは、「人は、恥じる心を無くすと、心も言葉も行動も悪に傾く」と言います。こうなると、歯止めがなくなって、悪行を重ね、苦しみを量産することになるのです。

先日、医師になることを目指している人にお会いしました。その人は、今年、医大受験に挑戦したのですが、残念なことに、不合格となってしまいました。私は、きっと落ち込んでいるだろうと思い、励ましの言葉を探しました。ところが、ご本人は清々しい笑顔で、「精一杯やりました」と言うのです。そして、「準備不足で入学したら、その後が大変なので、これでよかったと思います」とも言いました。なんと潔い態度でしょう。私よりもずっと年下の人ですが、「偉いなあ」としみじみと思いました。それと同時に、この人は、不合格にはなったものの、大きな勝利を獲得したのだと私は思いました。本人にはその自覚はないかもしれませんが。

人が幸せになるために、本当に必要なものとは何でしょうか。私は、それは智慧だと思います。親が子に遺したいのは、財産でしょうか。いいえ、きっと多くの親が、生きるための智慧だと答えるでしょう。お金はいつか無くなります。しかし、智慧は無限で、涸れることがありません。正しく、善く生きる智慧をもっているなら、貧しくとも、幸せに暮らすことができます。この「智慧」の前では、数々の合格証も免状もかすんで見えます。皆さんも実感していると思いますが、合格証や免状だけで生きていけるほど人生は甘くはありませんよね。合格証や免状は、事をスムーズに運ぶための、少しの潤滑剤にはなるでしょう。しかし所詮は枝葉のことです。私たちはもっと幹の部分に着目すべきです。それが「智慧」なのです。この人は、今回の医大受験に失敗しましたが、そのかわり、「精一杯やりました」という結果を残しました。言うのは簡単ですが、そのためには、怠けそうな心に打ち勝ち、落ち込む自分を奮い立たせ、孤独と戦う勇気を絞り出したことでしょう。これらはすべて、正しく、善く生きるための智慧なのです。この人はこうも言いました。「私のしていることは間違ってはいない、という小さな自信を得ました」と。正しく、善く生きるための智慧を実践しているのですから、「正しく、善く生きている」という自信が得られるのも当然です。そこには、幸福感があります。私はこれを指して、大きな勝利と言うのです。

失敗や挫折は、実のところ、大したことではありません。不合格になれば、合格した人よりも少し遠回りをするかもしれませんが、これとても大したことではありません。恐ろしいのは、なすべきことをなさずに怠けることです。大切なことは放っておいて、自分のしたいことだけをして、ただ快楽を求めることです。怠けることなく、快楽に傾きそうな心をコントロールして、目標に向かって努力できる人は、過程においても結果においても、幸せを得ることができるでしょう。どの場面でも、正しく、善く生きているという実感と共にあるからです。

お釈迦さまの言葉
「もろもろの善きことは、すべて不放逸(怠けないこと)を根本となし、ひとしく不放逸に流れ注ぐ。だから不放逸は、そのもろもろの善きことの中でも最上である」

住職代理 無聖(むしょう)

ペットを供養するということ

正雲寺では、ペットの供養をしています。お葬式をして、火葬をして、お骨を拾います。深い悲しみの中で、大切な家族を送る様子はとても厳粛です。人のお葬式と違いはありません。ペットを抱きしめる人、横たわるペットを優しく撫でる人、どの人の目にも涙があふれています。室内は感謝と優しさで満たされます。一部には「動物に対してそこまで必要か?」という意見があります。しかし、その様子を傍らで見ていると、そのような疑問は意味がないことがわかります。その場には、ただ「ありがとう」の心だけがあります。ペットの供養は、その心が形になったに過ぎません。この時、私たちが抱く「ありがとう」の心は純粋です。誰も損得を計算しません。ペットがくれた幸せ、見返りを求めない無垢な姿に、私たちは素直に喜びそして感動し、自然に感謝の心を抱くのです。

自分の中に、純粋な「ありがとう」の心があることを誇りに思いましょう。たとえペットにしか言えない「ありがとう」でも大丈夫です。相手が何であれ、純粋な感謝は私たちの大切な財産です。その心がどの場面でも最悪を回避してくれます。恨みや怒りに心を占領された時でも、自分の心のどこかに感謝があることを思い出してください。自分が恨みや怒りだけの人間ではないことを証明してください。もしその努力を怠ると、人は悪魔にも鬼にもなるのです。ペットとともに生きることは、心の浄化そのものです。悪に立ち向かう善を醸成することができます。そのことを、私たちはぼんやりと気づいていますが、確かな学びにはしていません。ペットの供養は、そのことに気づく良い機会です。

住職代理 無聖(むしょう)

私の知足(ちそく)

正雲寺には、私が宝物だと思っているものが三つあります。一つ目は、寺を囲む自然です。自然は容赦がなく、生活するには厳しいこともあります。それでも、四季の彩りは美しく、山や谷をわたる風は清らかで、心が洗われる思いがします。ここには昆虫や鳥獣たちのありのままの生活があり、山々に重なって響く彼らの鳴き声が、静寂の意味を教えてくれます。二つ目は、志しを同じくする同胞と一匹の犬と四匹の猫たちです。仏道は、自分の心と向き合うことです。大きな安心につながる修行ですが、同時に忍耐といった困難をともないます。そんな時、心の支えになってくれるのがかれらです。三つ目は、仏の冥助(みょうじょ)です。正雲寺が困った時には、いつも何かが助けてくれます。それは仏の智慧であったり、時には人やお金であったりもします。私は、本当に困った時に現れる目には見えない仏の助力だと思っています。

世間でいう富や快楽はありませんが、私なりの幸せを実感することができます。午前中は自分のできる範囲の利他行に努め、午後には体を使って労働し、夕刻になると健康に配慮された食事をとり、晩には愛猫トモと一緒に仏教の勉強をします。布団に入れば、眠りにつくのに3分とかかりません。単純ですが、充実した毎日です。三つの宝物のおかげです、しかし、その宝物も、仏の智慧を除けば、はかなくもろいのです。それをよく心に留めながら、眼前の宝物に執着することなく、ありがたく受け取ろうと思います。

住職代理 無聖(むしょう)

もどき

「お前たちはもどきだ」

その昔、私たち若い修行僧は無学老師からこう言われて叱られたことがあります。「もどき」とは、にせもの、似て非なるものという意味です。「お前たちは僧侶を名乗りながら僧侶にあるまじきことをしている。にせもの僧侶だ」というわけです。その言葉に私はずいぶんショックを受けました。無学老師は修行僧の未熟を温かく見守ってくれる人でしたが、それは私たちが少しづつでも努力している時だけです。わずかでも修行を怠ければ、それを決して許さない厳しさがありました。昔のことですが、今でもその時の不動明王のような老師の顔が目に浮かびます。

そこまで老師を怒らせたのは、私たちの生活態度があまりにも仏道修行からかけ離れていたからです。見た目は僧侶でも実態はお粗末でした。つまらないことで言い争ったり、妄想で他人を誹謗したり、愚痴を言い合ったりしました。ある者は怒って暴言を吐き、ある者は慢心に走り、またある者は酒を飲みました。すぐにあきらめる者、自分の考えに固執し人の意見を受け入れない者、仏法をそしる者さえいました。今思えば、仏門にいてはならない者たちです。すべてが戒律に反しています。若い修行僧には仏道に対する漠然としたあこがれはあっても、実際にそれが何であるかを理解する力はありませんでした。それが分かるには時間がかかります。仏門では「若い」ということは「愚か」ということなのです。年を重ねて少しはましになったものの、ちょっと前まではひどいものだったのです。それ以来ずっと「もどき」という言葉は私の心に深く刻まれたままです。そこから抜け出すことは私の大きな課題になりました。

髪を落として袈裟をまとえば見た目は僧侶です。人は私を僧侶と呼ぶでしょう。しかし大切なのは私が私のことを僧侶と呼べるかどうかです。私のすることとしないことを知っているのは私だけです。誰も見ていないところで私が何を思い何をしているのかを知っているのは私だけなのです。善いことも悪いことも全てです。その私が自分で自分のことを僧侶と呼べるか。仏道はそれほど甘くはありません。仏の弟子を名乗るのは簡単なことではありません。ではいったい今の私は何者なのか? 実のところ、僧侶にもなれず、もどきにもなれない中途半端なハゲ頭といったところでしょう。真実はいつも私の思いの外にあります。

住職代理 無聖(むしょう)

私がおすすめしたい仏教聖典

仏教に関する入門書や解説書はたくさん出版されています。以前、このブログでも、私が愛読していた入門書をご紹介しました。しかし最近になって私は、一番大切な本をご紹介していないことに気づきました。私にとっては、その存在は当たり前すぎて、ことさらに注目する気持ちが起きなかったのです。思えば、人からおすすめの本を尋ねられた時には必ず筆頭にあげる本です。その本とは『ダンマパダ』です。

キリスト教には『新約聖書』、イスラム教には『コーラン』があるように、仏教には『ダンマパダ』があります。これはブッダの言行録です。この本に収録されている言葉は、生前のブッダの言葉に近いと言われています。残念ながら、ブッダの死後に後代の人々によって加筆された痕跡もあり、純粋にブッダの生の声だけが収録されているわけではありません。その選別作業は仏教学者によって現在も進行中ですが、ともかく、ブッダ在世の時代に近いというだけで聖典としての価値を十分に保っています。他にも有名な仏教聖典に『スッタニパータ』があります。こちらの方が『ダンマパダ』よりもさらに時代が古いと言われていますが、その内容には難解な部分も多く含まれています。初学者にも読みやすいという点を考慮して、今回は『ダンマパダ』をご紹介しました。さらに意欲のある方はぜひ『スッタニパータ』もご覧になってください。

『ダンマパダ』の冒頭部分をご紹介します。一番最初の教えが「心」であることに注目してください。神様のような、手の届かない絶対的な存在ではなく、その気になればいくらでも手が届く私たち一人ひとりの心がこの本の主役なのです。

第一章第一節
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。車を引く牛の足跡に車輪がついて行くように。
第一章第二節
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。影がそのからだから離れないように。

住職代理 無聖(むしょう)

アミ子は反抗期?

飼い主によると寺猫アミ子は「マックス反抗期」だそうです。ところが私の部屋に来るとただの甘えん坊になります。子猫の時、私がよく一緒に遊んだからだと思います。飼い主はその温度差といいますか、態度の豹変ぶりにやきもきしているようです。でも実は飼い主も知らないアミ子の別の姿があるのです。アミ子は、飼い主が家に戻ってくる時は、飼い主が家に入る前から足音を聞き分けて玄関でお迎えします。私と楽しく遊んでいる時でも飼い主の声や足音を遠くに聞くと耳を立ててソワソワし始めます。そして見えない飼い主の動きを耳でずっと追っています。そんな時は目の前の私などまったく眼中にないのです。飼い主が外泊をする時は、帰ってこない飼い主を夜遅くまで玄関で待っています。「今日は帰って来ないよ」と私が教えても待つのをやまめません。朝も早くから玄関で待っています。私にべったり甘えているようでもアミ子が本当に大好きなのは飼い主なのです。あちこちにおしっこをしたり、すぐに怒ったり、なんでも自分の思い通りにしたがるわがままアミ子ですが、飼い主を思う情の深さはワンコにも負けません。こんな子の飼い主でいられて幸せだと思います。

住職代理 無聖(むしょう)

私の悩み

私の三つの悩みをお話しします。出家を志している方の参考になればと思います。

一、私は仏法を正しく学んでいるか。
教え導いてくれた師はすでになく、私は自力で仏法を学ばなければなりません。正師を失った修行者は道を踏み外しやすく我流(仏法を自分の都合のいいように解釈すること)に陥りがちです。正しい修行は困難と苦しみを伴います。我流は楽で心地いいものです。私は心の弱さに負けて楽を選んでいないか。我流を正しい仏法と思い込んでいないか。心を清らかにするどころか逆に汚しているのではないか。これが一つ目の悩みです。

二、私が感じる孤独は正しいものか。
お釈迦さまは「ただ独り歩め」、「他に頼らず仏法を拠りどころとして己れを頼りとせよ」とおっしゃっています。修行僧が孤独になるのは必然かもしれません。ただその孤独は正しい考え(【正見(しょうけん)】)とともにあるはずです。間違った考え(邪見)は別の孤独を生みます。私が恐れるのは、私の邪見が人々を傷つけ遠ざけてしまった挙句に孤独になることです。しかし私のような未熟な修行僧が正見を十分に実践できているとは思えません。ならば私が感じる孤独は邪見から来るのか。これが二つ目の悩みです。

三、私は「仏弟子」と言えるか。
仏典や語録を読むと、私とは生き様が大きく違う仏弟子たちの姿が見えてきます。仏法を二千五百年間守り継いできた人々です。彼らの学び、彼らの真実さ、彼らの厳しさは桁違いに見えます。「私も肩を並べたい」という思いと「私にできるか」という弱気とが交錯します。彼らと比べた時に、今の私に仏弟子を名乗る資格はないように思えてなりません。私は仏弟子にもなれず俗人にもなれない半端な人間ではないか。これが三つ目の悩みです。

このような悩みを持っていると、学びも実践も思うように進みません。何事も慎重になってしまい導師をつとめることにも躊躇します。これが【脚下照顧(きゃっかしょうこ)】ならばいいのですが。今、私の目前にある自灯明と法灯明の道はとても長く険しく感じられます。その道の手前の迷いの世界で私は堂々めぐりをしているようです。私にとっては現実的な痛みです。

住職代理 無聖(むしょう)

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【正見】
正しい考え。すなわち苦、無常、無我の三相に載せた考えのことです。
【脚下照顧】
禅寺では「足下に注意せよ」という注意喚起に使いますが、この他に「人のことを論じる以前に自分のことをよく省察せよ」という意味でも用いられます。

新年のご挨拶

新年明けましておめでとうございます。

正雲寺と私たち僧侶は無事に正月を迎えることができました。

ひとえに皆様のお支えのおかげです。

あつく御礼申し上げます。ありがとうございます。

これからも仏道に専一に精進し、皆様のご恩に報いる所存です。

皆様にとりまして、幸せ多く災いのない一年となりますよう

心よりお祈り申し上げます。

合掌

 

世の中には、今この時も苦しい思いをされている方がたくさんおられるでしょう。孤独を感じその中でじっと耐えているでしょうか。そのような方々に次の話を贈ります。これはキリスト教で語られているお話ですが、私は、宗教の枠を超えて多くの人の心をハッとさせる内容ではないかと思っています。「あなたは一人ではない」というお話しです。

ある男が夢を見ました。夢の中で男は主イエスと二人で並んで歩いていました。男が後ろを振り返ると、これまでの道のりには、主イエスと自分の二組の足跡が記されていました。ところが、所々、足跡が一組しかない場所があります。男は思いました。

「そういえば、その場所は私が苦しんでいた時だ。
私が苦しんでいた時に限って一組しかない」。
そこで男は傍らのイエスに尋ねます。
「どうして私があなたを一番必要とした時に、
私からお離れになったのですか」。
イエスがお答えになりました。
「いとしい我が子よ。
私は片時もお前の側を離れたことはない。
お前が見た一組の足跡は、私のもの。
私はその時、お前を背負っていたのだ」

苦しい時に「私は誰かに背負われているかもしれない」と想像すらできないとすれば、それは悲しいことです。なぜならその人は苦しみに中にいてもなお自分のことばかり考えているからです。この男のように、一組の足跡を見て自分の足跡だと思い込むところに苦しみは隠れています。

住職代理 無聖(むしょう)

 

本日の紅葉

今年の色づきはいいようです。普段は気にも止めませんが、今日は思わず足を止めて見入ってしまいました。こうした美しい風景を見ると、自分が恵まれた環境で修行していることを思い出します。修行生活は易しくないので、ついそれを忘れがちです。

住職代理 無聖(むしょう)

三匹の寺猫

正雲寺の庫裏(くり:お坊さんの住居)には三匹の猫が住んでいます。三匹とも元は野良猫で、私たちが偶然に見つけて寺に迎え入れました。古参の猫はトモ吉(通称トモ)、次にやって来た子は観太郎(通称カンカン)、新参の子はアミタ(通称アミ子)です。トモは私の部屋に、カンカンとアミ子は別の僧侶の部屋に二匹一緒に住んでいます。

トモは甘えん坊ですが臆病な性格です。知らない人が来ると姿を隠します。アミ子が私の部屋に遊びに来ても一目散にハウスに逃げ込んでしまいます。私以外の人にはほとんど気を許さないトモです。それがまた可愛いのです。飼い猫の虜になった飼い主のことを下僕(げぼく:あまり良い呼び名ではありませんね)と呼ぶそうですが、私はそれかもしれません。

カンカンは全身真っ白でとても美しい猫です。捕獲の時、激しく抵抗するカンカンを私が無理やり押さえ込んでケージに入れたため、すっかり恨みを買ってしまいました。いまだに許してもらえません。それでも飼い主である別の僧侶にはべったり甘えていて、いなくなるとずっと鳴き続けます。他の二匹は子猫の時に保護しましたが、カンカンは成猫になってから保護しました。野良の生活が長かったからでしょうか。小さなことにはまったく動じない貫禄をそなえています。たくさんの苦労を乗り越えて心が強くなったのでしょうね。それもあって余計に美しく見えます。

アミ子は最近仲間入りしました。まだ大人になる前のあどけなさが残る子です。トモやカンカンとは性格が全然違います。人見知りせず誰にでも近づいてスリスリします。カナリアのように細く可愛い声で鳴きます。好奇心旺盛で何にでも興味を示し体当たりで向かっていきます。トモに「シャーシャー」言われても、ひるむことはありません。何度も何度も近づいて甘えようとします。「友達になろうよ〜」という声が聞こえてきます。庫裏全体を明るくしてくれる太陽のような子です。

三匹とも正雲寺によく来てくれました。たくさんいたワンコ達がみんな亡くなってしまい、私たちは寂しい思いをしていました。そんな時、抜群のタイミングで三匹のニャンコが立て続けにやって来たのです。予想だにしなかったことです。これを「命のつながり」と言うのでしょうか。お寺では良縁をいただくことが多いですが、これもその一つです。

※写真はアミ子。外作業のお坊さんを眺めながら日向ぼっこを楽しみます。

住職代理 無聖(むしょう)