沙門日記

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一番大切なこと

私たち僧侶にとって一番大切なことは、どんな時でも仏道に背かず、仏道から離れないことです。「そんなことはお坊さんなら当然でしょ」とお叱りを受けるかもしれませんね。ところが正直に申し上げると、この当然のことができない時があります。恥ずかしいことです。日本で曹洞宗をお開きになった道元禅師(どうげんぜんじ1200-1252)は、当時の僧侶を評してこのように仰っています。原文(古文)を現代語訳にしてご紹介します。

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もし世間の人が褒めたり喜んだりするなら、
たとえ仏道に背くと分かっていてもこれをしてしまう。
もし世間の人が褒めなかったり尊敬しなかったら、
たとえ正しい仏道だと分かっていてもこれをしない。
そのような僧侶は見るに忍びない。
恥を知るべきである。

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道元禅師が生きた時代(鎌倉時代)は、仏教が歪められ退廃した時代でもありました。檀信徒や権力者に媚びへつらい、人に良く思われたい、人気を集めたい、自分の地位を守りたいといったことを考える僧侶が多かった時代です。彼らに共通するのは、正しい仏道を探し求めることをやめて(修行を捨てて)自己流の仏道に満足している点です。常に人の顔色を伺って、相手が喜ぶことだけを言葉にします。中には人々の支持を得ていること、権力者に気に入られていることが即ち正しい仏道を歩んでいることだと考える輩もいたようです。こうした人々を道元禅師は厳しく諌めているのです。私は先の道元禅師のお言葉を自分なりに言い直して心に刻んでいます。

人々が称賛してくれるからといって
正しい仏道を歩んでいるとは限らない。
自分の快楽のために仏道を歪めてはならない。

生意気を言うようですが、これは私たち僧侶が肝に銘ずべきことだと思います。修行中の身ならば誰でもこの過ちを犯す可能性があるからです。私も例外ではありません。僧侶は時々過分な褒め言葉を頂くことがあります。若い頃の私はすっかり気を良くして天狗になってしまうことがありました。これだけ認めてもらっているのだから、自分は正しい仏道を歩んでいるのだと傲慢になることがありました。その挙句、自己流の仏道で満足し、気づきや学びのない生活に安住してしまうのです。今にして思えば恥ずかしいばかりです。ここまでひどくはないにしても、今でも小さな勘違いをすることがあります。耳に心地の良い言葉は、それを口にした人の心は清らかでも、聞いた人間の心を汚すことがあるのです。一番大切なことに用心しながら、お寺に来てくださる皆様と真実のお付き合いがしたいと願っております。

住職代理 無聖(むしょう)

仏門の安心感はどこから来るのでしょう

仏門には独特の居心地の良さがあります。何とも言えない安心感です。私は、この安心感はどこから来るのだろうと考えることがあります。正雲寺が静かな自然の中にあるからでしょうか。ご縁ある方々と善い関係を築けているからでしょうか。もちろんそれらもあるでしょうが、一番は、お釈迦様が私たちの心にある苦しみを決して否定しないからだと思います。

「そんなのは苦しみじゃない」「心が弱い」「現実から逃げている」。こういった言葉をよく耳にします。私も言われたことがあります。私はこのように否定されると、苦しんでいることが悪いことのように感じてしまいます。こうした言葉で傷つきたくないので、誰にも言わずにいようと思ってしまいます。皆さんはいかがでしょうか。苦しいのに苦しいと言えない。それがまた苦しみを深めます。しかし仏門では、苦しいことは苦しいと素直に言うことができます。お釈迦様は苦しみを否定する言葉は一言も言いません。ただ「よく来たね」と仰るのです。

このお言葉が示すように、仏門は昔から心に苦しみを抱く人や社会で生きづらさを感じている人を迎え入れて来ました。これは言い換えると、救いを必要としない人々には縁のない存在だということです。多少の苦しみはあるにせよ、自分の努力によって解決し、社会の一員として調和し幸福を感じられる人に仏門は必要のないものでした。仏門は、お釈迦様の時代から今日まで、自分で解決したくても解決できずに苦しんでいる人のためにあります。仏教を必要としていない人に仏教を強いることはないのです。

仏門に入門すれば、苦しみが魔法のように消えるわけではありません。お釈迦様のような偉大な先生がいて、手を取って導いてくれるわけではありません。仏門では、先輩と後輩の違いはあるにせよ、誰もが同じように苦しみを抱いて生きています。「お坊さんは苦しみとは無縁では?」と思われるかもしれませんが、それは大きな誤解です。お悟りになったお坊さんは別ですが、修行中のお坊さんなら誰でも苦しみと向き合っています。そもそも仏教の目的は苦しみを消すことにあるからです。ですから仏門に入門するとは、同じ目的を持った仲間と一緒に支え合いながら修行をするということです。一人で修行するよりは心強いはずです。

本当はできるのに力を出し惜しみしたり、面倒くさいなどと言って怠けたりする人は、何をやっても苦しみが消えることはありません。もしあなたが懸命に生きていて、それでも生きづらいと思うなら、私は現実から逃げてもいいと思います。その現実が本当に正しいものなのかを見直す時間が必要です。英気を養って再び社会に出ていくのか、それとも仏門に残って心の平和を求め続けるのか、新しい選択が訪れるのを待てばいいのです。こうした寛容さも仏門の安心感につながっているように思います。

会津本山 住職代理 無聖(むしょう)

トモちゃん

正雲寺に新しい仲間が増えました。2018年7月20日、炎天下の境内でのこと。愛犬センが突然興奮気味に吠えはじめました。びっくりして吠えている方向を見ると、50メートルほど先の車の下でコソコソと動く影があります。私は何だろうと思いそっと近づきました。すると、そこには全身の毛を立てて「シャー」と威嚇しながらこちらをにらむ子猫がいました。私の手のひらに乗るほどの小さな命です。とてもおびえていました。

私たちは、長年一緒だった猫のゆふちゃんを亡くしたばかりで、お寺に猫がいないのを寂しく思っていました。動物愛護センターの保護猫を譲り受けようか、それとも猫好きの知人に声をかけようか、などと話し合っていたのですが、「やっぱりご縁に任せて、お寺に(野良)猫がやって来るのを待とう」ということになりました。しかし、それがいつになるのか分かりません。

そんな時にこの子猫が現れました。推定年齢2ヶ月。私はとっさに素手で捕まえようしましたが、子猫の素早さに追いつきません。どうしようかと悩んでいたところ、近くにいた子供達が「どうしたの?」と声をかけてくれました。そこで子供達と作戦を立て、全員で子猫を取り囲もうということになりました。幸い子猫は体力がないらしく、10メートルほど逃げるとすぐにうずくまってしまいます。その時がチャンスです。私は虫取り網を持ち、子供達が逃げ道を塞ぐのを待ってから静かにゆっくりと近づきます。「大丈夫、怖がらなくていいよ。友達だからね。友達、友達」と何度も言いながら近づきます。一度素手で捕まえたのですが、すり抜けてしまいました。今度は絶対に逃がすまいとゆっくりゆっくりです。私は無意識に「トモちゃん」と呼んでいました。友達だからトモというわけです。あと20センチ、10センチ。子猫は先ほどとは違って逃げようとしません。それどころか「トモちゃん」と呼ぶたびに小さく「ミー」と答えます。こうして子猫は無事に保護され、名前も「トモ」になったのです。

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こんなことがあるのでしょうか。ゆふちゃんが亡くなって、次に「ご縁に任せよう」と決めて、それからセンちゃんが知らせてくれて、私が子猫の存在に気づいて、人手が必要な時に子供達がいて…。そうやっていくつものご縁に支えられてトモはやって来ました。偶然ではない大きな力が働いているように思えてなりません。トモの命を、ゆふちゃんが、センちゃんが、そして子供達が支えたのです。命は互いにつながっているのですね。

やんちゃな子猫のこと、それからが大変です。現在トモは6ヶ月。私の部屋で怪獣のように暴れています。静かだった私の生活は一変。トモに振り回される毎日です。もちろん、楽しくて幸せな日々です。寺猫トモちゃんの様子はツイッターでも時々お知らせしています。よろしければご覧ください。

むしょうのツイッター
https://mobile.twitter.com/mushosan

小さな奇跡

お寺では毎日、何かしら嬉しいことが起きます。普通では考えられないほど頻繁に起きるので、私たちは「小さな奇跡」と呼んでいます。なぜだろうと考えていると、一つの答えが頭に浮かびました。それは、お寺に集まる人々の話す言葉や行いが「素直さ」から出ているということです。仏様の前では誰でも素直になります。嘘を言ったり、我を張る人はいません。その素直さが、本人だけではなく、私たちをも嬉しい気持ちにしてくれます。

お寺には、悲しむ人、苦しむ人、怒る人も集まります。暗い雰囲気になっても不思議ではないのに、そうはならないのは、皆さんが素直に心を打ち明けるからです。重苦しい話でも、どこかに清々しさが残るのは、素直さが根底にあるからです。「お寺は気持ちがいいですね」と誰もが言います。それは、素直な自分になれるから。そして、素直な自分であることが嬉しいからだと思います。

シャンちゃん

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シャンは大分別院の看板娘です。保健所で処分される寸前にお寺にやって来ました。この世から消えていても不思議ではなかった命です。その命が今、お寺に安らぎと平和をもたらし、私たちを支えてくれています。命の重みを教えてくれるシャン子さんです。いつまでも長生きしてね。

めいちゃん

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大分別院でひっそりと暮らすめい(命)ちゃん。とてもシャイな性格で、部屋からは決して出ようとしません。机で作業をしていると、小さな顔をスリスリ寄せてきます。「ミャ〜」と自己主張することはなく、ただ控えめに「ミン」となきます。古参和尚の良き友です。

ゆふちゃん

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会津本山にいるただ一匹の猫、ゆふちゃんです。ゆふちゃんは人見知りで出不精。奥の部屋でひっそりと気ままに暮らしています。時々、仏殿を一回りして、小さな声で「ニャン」。しかし天井裏のネズミを撃退するほどの迫力は全然ないのでした(泣)。今日も一日ストーブの上でリラ~ックス。

ドンちゃんとサンちゃん

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会津本山には、屋外のワンコの他に、室内にもワンコとニャンコがいます。奥のミニチュアダックスが「サンちゃん」で、手前のマルチーズが「ドンちゃん」です。正雲寺のアイドル犬です。でも本人たちは「お坊さんたちをしっかり守る!」という重大な任務を負って、日々家の中をトコトコパトロールしています。めんこい二人です。

圧巻!一切経版木6万枚

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京都に行ってきました。京都での楽しみは、お気に入りのお寺を訪れること。今回は、宇治にある黄檗山(おうばくさん)宝蔵院(ほうぞういん)です。ここは一切経の版木6万枚が収蔵されていることで有名です。仏教の教えのすべてを総称して「一切経」と呼んでいます。「一切経」という名の単独のお経があるわけではありません。『般若心経』も『法華経』も『華厳経』も『涅槃経』も「浄土三部経」もすべて「一切経」に含まれています。日本のすべての仏教宗派が読むお経がここにあるのです。

1669年、鉄眼(てつげん)禅師というお坊さまが、仏教国日本に「一切経」がないのを残念に思い、自ら発願し、版木の製作に取りかかりました。9年の歳月を要して完成させたのが、この、うずたかく積まれた版木たちです。これらは重要文化財ですが、驚いたことに、現在でも職人の手で刷られ、お経本として販売されています。

私たち僧侶にとっては「人生のすべて」とも言える一切経です。ですが、一生をかけても読破することはできないでしょう。教えを学び尽くせないのなら、せめて謙虚でありたいと思います。

一切経は、インターネットで全文を読むことができます。
ものすごいことですね。
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-bdk-sat2.php

正雲寺のカエルたち

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正雲寺のアオガエルたちは、今年も元気に活動再開です。「きれいな姿だな~」って思います。お寺は殺生禁止の聖域ですから、彼らものびのびと生活しているんでしょうね。これから夏に向けて、多くの野生動物たちが集まってくることでしょう。楽しみです。写真をクリックして拡大して見てくださいね。