Blog

護法山正雲寺 会津本山 > 最新情報 > Blog

LINEとTwitterの運用終了について

令和4年5月31日をもってLINEとTwitterの運用を終わらせていただきます。登録をしてくださった皆様には、これまでのご厚情に深くお礼申し上げます。ありがとうございました。LINEのトークや通話で承っておりました悩み相談は、今後はホームページに一本化させていただきます。「お問い合わせ・ご相談」内のメールフォームにご記入の上お送りください。面談でのご相談はこれまでと変わらず承ります。

私はこれまで本師である無学老師の命に従って自利行よりも利他行を優先し、LINEでは悩み相談を、Twitterでは正雲時の紹介などを続けて参りました。いずれも力不足ではありましたが、多くの方々とご縁を深める善い機会になったと思っております。しかしこれからは、自利行として私自身の心の修養にもしっかりと目を向けたいと思います。多忙を理由におろそかにして来た事、心の弱さから実践できなかった事など、一つ一つに取り組むつもりです。他の多くの修行がそうであるように、仏道修行もまた脇目も振らずに必死の思いでのぞまなければ成就はしません。皆様に一心に打ち込む道があるように、私にも打ち込みたい仏道があります。私は今年で54歳です。余生はどれぐらいでしょうか。これからの時間を悔いのないものにしたいと思います。

住職代理 無聖(むしょう)

正雲寺での修行生活

正雲寺での修行生活は、日々のお勤めと作務の二つで成り立っています。入門したばかりの新参者にとっては、日々のお勤めといっても、まだその内容を理解していませんから、まわりの僧侶の形を真似るだけです。お経を読むにもただ声を合わせるだけで言葉の意味は分かりません。多くの者は切実に仏道を求める志を初めから持っているわけではないので、確かな自分を持たないまま、右へ行ったり左へ行ったりしながら修行生活を送ることになります。しかし、それでいいのです。先輩の僧侶たちも皆そうやって来ました。そんな彼らにとって、わかりやすい形で修行を実感できるのは作務です。暑くても寒くても、たとえ非効率な内容であっても、目の前の作業に黙々と集中します。「こんなこと嫌だなあ、早くやめたいなあ」、「このまま作務を続けていれば、いつか悟りが得られるのかなあ」、「もっと効率のいいやり方があるのになあ」などと頭の中では忙しくしていてもそれを口には出さず、ただ黙って作業をします。

考えてみると、私たちはいつも目標を設定したり、目標を達成するための楽で速い方法は何かと考えたりします。またある作業をしながら頭の中では別のことを考えたりもします。本当は、余計なことは考えず目の前の作業にだけ集中すればいいのにそれができません。仏教は、過去や未来に思い煩わず、今のこの瞬間を生き切ることを説いています。過去のことはすべて過ぎ去ったことで変えようがありません。未来のことはどんなに考えてもその通りになる保証はありません。ただ一つだけ確かで私たちが思い通りにできるのは、今のこの瞬間だけです。だからこそ今のこの瞬間を善く生きなさいと仏教は説くのです。未来は今の積み重ねの結果というほどの意味しかありません。

この道理を教えられた修行僧たちは、黙々と作務をすることとこの瞬間を善く生きることとがどう繋がるのかを考えることになります。それは新参者にも古参者にも平等に与えられた課題です。

住職代理 無聖(むしょう)

どうして生きなければならないのか(長文)

どうして生きなければならないのでしょうか。そして私はこうも思います。どうして自殺をしてはいけないのでしょうか。

おそらくは誰でも一度は考える問題ではないでしょうか。私は、もし本当の答えが分かれば、多くの人が人生の新しい価値に目覚めるのではないかと思います。そもそも「なぜ生きるのか」が分からないのに「なぜ死んではいけないのか」を説明することはできないでしょう。世の中にはたくさんの考えがあります。これからお話しするのもその中の一つです。これが本当の答えかどうかはわかりません。また人の目を覚ますほどの説得力があるのかどうかもわかりません。ただ、今のところは、私自身がこの考えに納得しているというまでです。無責任と思われるかもしれませんが、この問題について一緒に考えていただきたいと思いお話しすることにしました。これは私の想像ですが、正解は大昔からごく自然な形で当たり前のように存在していて、誰の心にもスッと入っていくものだろうと思います。そういうことを念頭に置きながらお話を進めたいと思います。

今から2500年ほど前、今のインドとネパールの国境あたりにシャカ(釈迦)族という部族が暮らしていました。このシャカ族の中にガウタマ・シッダールタという名前の王子がいました。後に悟りを開き「ブッダ」となられた方です。私たち僧侶は、尊敬と親しみを込めて「お釈迦様」と呼んでいます。お釈迦様はこのようなことを仰っています。

「この世界では、すべてが原因と条件と結果の関係で成り立っている。その関係の中ですべては生じ、変化し、そして消滅する。これは誰にも変えられない真実である」

多少言葉を置き換えていますが、意味するところは同じです。この言葉をヒントに考えてみたいと思います。まずはこの言葉を紐解いてみましょう。ご存知の方も多いかもしれませんが、この「原因と条件と結果の関係」を「縁起」といいます。「縁起が良い」とか「縁起が悪い」とか、私たちがよく口にするあの縁起です。もし人から「仏教って何を教えているの?」と尋ねられたら、私は「仏教は縁起を教えています」と答えます。それくらい縁起は仏教の中心にある教えです。でも原因と条件と結果という言葉では、まだちょっと分かりづらいですね。それぞれの言葉を置き換えてみましょう。かりに庭に咲いている一輪の花を「結果」とします。この花を咲かせる「原因」は種です。しかし種さえあれば花が咲くわけではありません。そこには太陽とか雨とか土といった色々な「条件」が揃っていなければなりません。これが「原因と条件と結果の関係で成り立っている」です。それぞれは互いにしっかりつながっています。必要な日照や雨水や土壌があるから花は咲きます。そして咲いた花もそのままということはなく、条件などが少しでも変われば、しおれて枯れてやがて地に落ちます。これが「生じ、変化し、そして消滅する」ということです。原因があっても条件が揃わなければ結果とはなりません。条件が揃っても、その条件が少しでも変われば結果も変わります。ずっと同じ姿のままということはありません。これを「無常」といいます。そして次には、その咲いた花に引き寄せられたミツバチが巣に帰って蜂蜜を作ります。今度は花が「原因」となり、ミツバチが「条件」となって蜂蜜が「結果」になりました。こうやって縁起はつながっていき、別の場面を形成するのです。私たちの命はどうでしょう。父の存在、母の存在、それぞれが原因となり、その後の色々な条件が揃って、私の誕生という結果に結びつきます。そして次には私の存在が原因となり、仏法によって見知らぬ誰かが人生の新しい価値に目覚め自殺を思いとどまったとしたら、それもまた原因があり条件が揃って結果に結びついたと言えます。原因と条件と結果の関係は、目に見える形、目に見えない形(ここでは血のつながりと心のつながり)を問わず成立しています。このように考えると、この世の中で縁起でないものはないと言えます。最後にお釈迦様は「誰にも変えられない真実」だと仰っています。人間の力では変えることはできないというのです。もっと身近な例で言えば、私たちが、生まれて老いて病気になって死ぬことも、全てが原因と条件と結果の連続です。しかも誰も老いを止められないし、死なずにいることもできません。この「誰にも変えられない真実」を「真理」といいます。つまり、これまでの話は縁起と無常と真理という三つの言葉に集約できることが分かります。もう一度お釈迦様の言葉を見てみましょう。

「この世界では、すべてが原因と条件と結果の関係にある。その関係の中ですべては生じ、変化し、そして消滅する。これは誰にも変えられない真実である」でしたね。この言葉はそのまま「この世界では、すべてが縁起の関係にある。縁起の中ではすべてが無常である。これは真理である」と言い換えることができます。縁起によってしっかりつながっているということは、見方を変えると、すべてがお互いに依存し合っているということです。お互いが頼り合って生きているということです。人間の場合ならこうです。

あなたがいるから私がいる。
あなたがいなければ私はいない。
私がいるからあなたがいる。
私がいなければあなたはいない。

ということになります。皆さんはこれを実感できますか。「あなたがいるから私がいる。あなたがいなければ私はいない」というのは分かります。お父さんとお母さんのことですね。もっと言えば、お爺ちゃんとお婆ちゃん、曾祖父ちゃんと曾祖母ちゃんのことです。また、血がつながっていなくても、心でつながっている大切な人があなたにはいるかもしれません。では、「私がいるからあなたがいる。私がいなければあなたはいない」というのはどうでしょう。ずいぶん横柄な物言いに聞こえるかもしれません。しかしこれはそういう感情の話ではないのです。人間の感情とは無関係の真理の世界のお話です。もしあなたにお子さんがいらっしゃるなら分かりやすいでしょう。あなたの存在なくして子供は存在し得ないからです。しかし多くの場合「私がいるからあなたがいる」というのは実感しづらいかもしれません。「私が誰かの命を支えている」、「誰かが私を頼りにしている」という実感はなかなか得られません。それどころか自分は一人ぼっちだと思っている方もいるでしょう。先ほど私はこの世界は、縁起によってしっかりつながっている、互いに依存し合っている、頼り合って生きていると言いました。それが本当なら、一人ぼっちというのはないはずです。それでも一人ぼっちを感じてしまうのはなぜでしょうか。

これは私の考えですが、それはこの縁起の世界が、観察力を総動員して素直な気持ちで見なければ見えないからだと思います。ひと目ちらっと見るぐらいでは縁起の世界は見えません。なぜなら私たちはこの世界を「こうであってほしい」「こうでなければならない」と自分の世界観で見ることに慣れきっているからです。そういうフィルターを通して見ることが当たり前になってしまっているから縁起の世界が見えづらくなっているのです。先ほどの種と花とミツバチのお話も、縁起の世界をちゃんと説明しているのに、それを自分のこととしては考えない。自分とは別の世界の話だと思っています。自分には「こうであってほしい」「こうでなければならない」という世界観があって、それに当てはまらないものは認められないからです。人間は老いることが当たり前なのに若くありたいと願います。白髪も皺も日に日に増えて見た目も変わっていくのに、髪を染めたり、皺を目立たなくしたりして、全然変わっていないかのように思いたがります。無常なものに不変を求めるのです。真実の姿とは逆の姿を求めようとします。こういう例は他にもたくさんあります。まずはこういう真実を 逆に捉えてしまう自分のフィルターを取り去らなければ縁起の世界は見えてこないのでしょう。本当は一人ぼっちじゃないのに、自分の世界観の中だけで生きているから一人ぼっちを感じてしまうのだと思います。中には「そんなことはない。自分は本当に一人なんだ」と怒る方がいるかもしれません。そう仰る方も試しにフィルターを捨てて観察してみてください。それをしたからといって損になることはないでしょう。私の場合、縁起の世界を素直に見られない時には、境内にある大きな木を観察することにしています。

正雲寺は山の中にあります。山には大きな木がたくさん立っています。境内にもいくつかの大木があります。大木の太い幹からは数えきれないぐらいのたくさんの枝が伸びています。そしてその一本一本の枝には、これまたたくさんの葉っぱが付いています。春になると枝から小さな芽が出て、やわらかくみずみずしい黄緑色の葉っぱが広がります。それが夏になると濃い緑色に変わって、今度は固く強そうな葉っぱに変身します。秋になると緑色は薄い黄色に変化し、オレンジ色になったかと思うとすぐに真っ赤に変わります。冬が訪れると赤色はうす茶色に変化し、水気を失って小さく縮みます。やがて風に煽られて自然に枝から離れて地面に落ちて行きます。地面に落ちた葉っぱは、昆虫や微生物の格好の食料です。彼らはそこでたくさんのフンをします。それらがまた栄養いっぱいの土を作ります。この土は太い幹をさらに太くします。土からたくさんの養分を吸い上げた幹は、春になると再び枝を伸ばし、たくさんの葉っぱを茂らせるのです。葉っぱも昆虫も微生物も木の幹もみんなお互いにつながって、依存し合って、頼り合っています。もっと言えば、葉っぱが季節ごとに色や姿を変えるのも太陽や雨や風や雪に依存しているからです。このような様子を素直な気持ちで観察していると、自然の営みは縁起の世界そのものだと気付かされます。お釈迦様の仰るとおり、これがこの世界の真実の姿と言うなら、人間だけがそこから外れて生きていると考えるのはとても不自然なことです。

私も葉っぱと同じようにこの縁起の世界を構成している一つの大切な要素です。私が生きているから、別の誰かも生きていられます。葉っぱからは土の中の微生物が見えないように、私の目にはその誰かは見えません。しかし、私とつながって、依存して、頼っている誰かがどこかにいるのです。もし目の前に「私はあなたのおかげで生きていられます」と言う人が現れたとしたら、それはとても幸せなことだと思います。しかしそんなことを言ってくれる人がいなくても、私が生きているから別の誰かも生きていられるという事実は変わらないでしょう。なぜならこれは、自然の営みそのものですし、私たち人間も自然の一部だからです。

誰にも変えられない真実、つまり真理は、人の意思や感情とは関係なくあり続けるものです。縁起の世界の中で生かされている私という命も、私の意思や感情とは関係なく存在しています。命は縁起という真理に従って存在しているだけで、意思や感情とは無関係です。ところが以前の私は、自分の意思と自分の力で生きていると思っていました。それは私の、そうであってほしいという錯覚でした。私はこの縁起の世界で、私以外のもの達から生かされ、そして私以外のもの達を生かしているのです。

ここで改めて最初の疑問「なぜ生きなければならないのか」を考えたいと思います。これまでお話ししてきた経緯から私が導き出した答えです。

私という命があるから他の命はあり、
私という命がなければ他の命はない。

だから生きなければならないのです。生きる意味も同じです。そして、このことは私の意思や感情や能力とは無関係です。すべては縁起によるつながりなのです。そうであるなら、命は生きているだけですでに役目を果たしていると言えるかもしれません。生きる意味は探すことではなく、すでにそこにあるのです。問題は、私がその事を認められるかどうかです。そのために、自分のフィルターを思い切って捨てられるかどうかなのです。

このように考えると、自分の意思で命を断ってはいけない理由が分かる気がします。それはとても不自然な姿に見えます。それはまるで、青々とした夏の葉っぱが自分の意思で枝から離れるようなものです。私はそんな光景を見たことがありません。葉っぱが枝から離れるには、その時期と理由がちゃんとあります。葉っぱは枯れて枝を離れて地に落ちても、土を肥やすという大切な役目があります。私は人間も同じではないかと思います。老いて病気になって死ぬことになっても、別の誰かを生かす役目があるように思うのです。そしてその時期は、葉っぱが自分では決められないように私たちも自分では決められません。私たちは老いや病気ではなく、事故や災害で死ぬこともあります。それでも別の誰かを生かす役目があることに変わりはありません。それは夏の葉っぱが台風によって枝から引き離されても、土を肥やす役目が変わらないことと同じです。

以上のような考えが本当に正しいのかどうか、これからも考え続けたいと思います。でもあまり固執すると、今度はこの考えがフィルターになってしまい縁起の世界を見えなくするかもしれません。そういう危険があることを忘れないでいたいと思います。ともかく今はこの考えを信じようと思います。そして自殺を考えている人に「自殺をしてはいけません」と呼びかけたいと思います。

住職代理 無聖(むしょう)

今年の除雪は一味違います

境内の除雪は毎朝7時から10時頃まで行われます。初めに四輪除雪車(ローダー)が雪をどかして車道を作り、たまった雪を崖下に投棄します。次にクローラー式投雪機がローダーが入れない狭い場所の雪を飛ばします。そして最後に数人の僧侶がスコップやツルハシで玄関周りや歩道をきれいに仕上げます。これら三段階の除雪を経て最初のお施主様をお迎えします。大雪の日には午後2時から5時頃まで午前と同じ作業です。この体制のおかげで境内の雪はきれいに片付きます。その昔、一人で除雪をしていた頃の私から見れば今の状況はまるで夢のようです。

この夢を叶えてくれたのは、3年前に新しく導入した四輪除雪車(ローダー)です。今年は操縦にも慣れて私の手足のように動いてくれます。そしてもう一人頼もしいパートナーがいます。それは寺人として3年前に入山し今では外作業を一手に引き受けてくれているS君です。

最初は機械の操作にも除雪の手順にも戸惑っていたS君ですが、今では熟練した職人のようです。朝一のローダーの動きを見て先回りして作業したり、建物を傷めそうな雪を優先的に除雪したり、他の僧侶に優しく指示を出したりとまさに大活躍。私との息もぴったり。S君の心の成長と作業の熟練のおかげで今年の除雪は一味違います。

住職代理 無聖

言葉の恐ろしさ

「言葉は凶器」という表現があります。たった一つの言葉が人を死に追いやることがあります。また発せられる言葉以外に必要な時に発せられない言葉もまた凶器となります。助けが必要な時に沈黙したり無関心でいることがそうです。いずれにせよ、凶器となり得る言葉、すなわち悪言は私たちが考える以上に私たちの心に巣くっています。仏教では大まかに以下の四つを挙げています。

  • 妄語 うそ、でたらめ
  • 両舌 陰口、二枚舌、二人の人に違うことを言って仲違いさせる言葉
  • 悪口 あしざまにののしる言葉
  • 綺語 真実にそむいて、巧みに飾った言葉

 

人が口にしてはいけない悪言があります。いったん発せられると取り返しがつきません。後からどんなに謝罪しても相手の心に刻まれた悪言はなかなか消えません。死ぬまで消えないこともあります。たとえその時は許しても「この人は怒りに任せてこんなにひどい言葉を吐く人だ」という印象はずっと残ったままです。

仏門でも悪言と無縁ではありません。未熟な修行僧ほど悪言を持っていますが、相手を許すことも修行ですから大事に至ることはまずありません。しかし世間では仲間でもない他人を許すことは難しいでしょう。こちらが黙っていると口撃をエスカレートさせる人もいるほどです。死傷事件や紛争に発展することもあります。正雲寺に寄せられるご相談のほとんどが悪言に関連しています。

皆様に言葉の恐ろしさを今一度考えていただきたいと思いこのブログを書いています。もちろん私自身が発した取り返しのつかない悪言を思い返しながらです。恐ろしいことに、人は悪意がなくても無意識に人を傷つけることがあります。言葉は心の表れです。私たちの心には人を傷つける悪いものがあるのです。それは、謙虚になって自分の心を見つめ、一所懸命に取り去る努力をしなければなくなりません。努力どころか自覚もない人は人を傷つけ続け、罪を量産しているのです。ご自分の言葉の恐ろしさを知って、感情に任せて口を開くのではなく、それがどれほど人を苦しめるのかをご自分の身に置き換えて考えてください。慎重に慎重を重ねても悪言は消えません。毎日の努力目標にしている僧侶でさえ悪言を消すことはできません。この厄介な悪言が私たちの人生を大きく狂わせ不幸にします。その恐ろしさをどうか知ってください。合掌

住職代理 無聖

怒りや悲しみに支配されそうな時

誤解や妄想が原因で一方的に非難されることがあります。こちらの事情や言い分は聞いてもらえず、相手の考えが唯一の正義となって一方的に責められることがあります。他人ならまだしも、自分のことをよく知っている身内からそのような扱いを受けるのは苦しいものです。誰もが自分が正しいと思っていますから、正義や正論の名を借りて相手を責め立てます。しかし実際にはそれらの名の下でエゴを満足させているだけということもあります。忍辱(にんにく)を修行の軸に据えている人は、ただ黙って耐えるばかりです。常に傷つけられ、負かされ、泣かされ続けることになります。現実は厳しく、そんな時に慰めてくれたり、味方になってくれたり、代わりに抗弁してくれる人はいません。たった一人で心の中の怒りや悲しみと向き合い、心が歪んでいくのを食い止めねばなりません。食い止めねば、道を踏み外すことが分かっているからです。これこそが修行というものでしょう。心を善く整えて、怒りや悲しみに支配されずに安心を取り戻すのです。

すぐに捨て去ることはなかなかできません。それならば心の中の引き出しに閉まっておくことです。引き出しの名は「怒り」「悲しみ」です。引き出しを開けて覗くのはやめましょう。閉まったままにしておくのです。そして他にたくさんの引き出しを作りましょう。例えば「ペット」「恋人」「目標」「頑張ったこと」「頑張れなかったこと」などです。あなただけの名前の引き出しをたくさん作ってください。引き出しを一つ二つしか持たない人は、それらを頻繁に開けて覗き込むことになります。たくさん持てば、閉まったままの引き出しも増えていきます。

傷つけられても、負かされても、泣かされても良いではないですか。人を傷つけたり、負かしたり、泣かしたりするよりはよっぽど上等な生き方です。それは罪を量産しない生き方、仏道に通じる生き方です。確信をもってそんな生き方ができるなら、たった一人でも恐れることはありません。真理が百万の味方となってあなたを護ってくれます。

 

あるご相談を受けて

先日このようなお話を聞きました。「一方的に責め続けられています。言い返したい気持ちを抑えてずっと耐えています。もし言い返せばその時はスッキリするでしょうが、後になって必ず後悔するからです。人を責めて苦しめるような人間にはなりたくないという気持ちもあります。しかし私が黙っていると、相手はどんどん口撃をエスカレートさせます。その内、自分は本当に罪深い人間で、生きる価値はないのではないかと思うようになりました。生きる自信を失いつつあります。」と。実は私も同じ経験を持っています。私の場合は、私にもいくつかの非があって責められるだけの理由がありました。しかしその時私が感じたのは、相手が口撃をエスカレートさせていくにつれて、徐々に真実ではない妄想を膨らませて怒りを増幅させていることでした。怒りの心が冷静さを失わせているようでした。口撃は激しさを増していきました。私は段々と自分がひどい悪人であるかのように思い始めました。

悪言が放つ負のエネルギーはとても強いものです。たった一つの悪言にさえ人を死に追いやるほどの力があります。普通の良心などは簡単に吹き飛ばされてしまいます。それに負けないためには、一言で言えば「強くなる」ことです。しかし恥を恥とも思わない鉄面皮になれと言うのではありません。自分の非や恥は素直に認めますが、決して卑屈にはならず、さらに強い自信を得て生きることです。このように生きるには、真実を味方につけるしかありません。原因はどこにあるのか。非難の内容は真実か。こちらに非はあるか。その非を謝罪したか。善悪の判断は、各自の価値観や学びの度合いによってまちまちです。唯一確かなものは真実です。相手にも自分にも偏らず、感情的な要素は捨てて真実だけを見ることができれば、そしてその真実から逃げなければ、そうした努力態度が自ずと強い自信へと変わっていきます。相手の煩悩にも自分の煩悩にも振り回されない大きな安心が手に入るからです。もしそこに真実性を裏付ける正しい教えや信仰があるなら、より強固な自信となるでしょう。そこまで行けば、あなたにとって相手は「無」になります。さらに言えば「大恩人」にもなります。

誤解や妄想に打ち勝つのはいつも真実です。耐えることは苦しいですね。私にも実感があります。耐える中で真実を見るのは口で言うほど簡単ではありません。心の中で孤独な闘いが続きます。お釈迦様は耐えることを「最上の苦行」と表現しました。お釈迦様ほどの人が「最上」と言うからには理由があるはずです。忍耐が真実を見る契機となり、さらに強固な自信へとつながれば、私たちが善く生きるための力になるはずです。負のエネルギーを結果として正に変えることができます。人生のすべてに応用できる最上の智慧と言えるでしょう。すべてが忍耐から始まると思えば、確かに苦行ではあるけれど、私たちが幸せになるためにいかに大切な修行であるかが理解できます。

住職代理 無聖

問い:人と動物、命の価値に違いはありますか。

答え:命の価値は皆同じです。

「六道輪廻(ろくどうりんね)」という仏教思想があります。全ての命は六つの世界(六道)を行き来し、その中で生死を繰り返す(輪廻する)というものです。この六つの世界とは、天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界です。命は死後に生前の善行と悪行の数を量られ、善行の数が多ければより善い世界に、また悪行の数が多ければより悪い世界に生まれかわります。私たち人間が住む世界は人間界です。ペットをはじめ人間以外の動物たちが住む世界が畜生界です。畜生界は人間界よりも下位にあるため「人間よりも動物の方が命の価値は低い」という差別的な考えが生まれました。本来、六つの世界の違いは苦しみの量だけです。ところがそこに住む命の価値にまで優劣や上下を論じるようになってしまったのです。

もとより仏教は差別を否定します。六道のような明確な区別はあっても命の差別はしません。「生まれによって賤(いや)しいものとなるのではない。行為によって賤しいものとなるのである」とお釈迦様は仰いました。命そのものではなく、行いによって尊卑が決まるということです。命の価値は平等です。もし生前の悪行が多ければ、人間は畜生界に生まれかわるかもしれません。反対に動物たちは生前の善行が多ければ、人間界に生まれかわるかもしれません。課せられた条件は人間も動物も同じです。全ての命は同じ条件のもとで生きているのです。

命の価値に違いはないとはいえ、生きている間に多くの人を傷つけたり悲しませたりする私たちと違い、ペットはたくさんの人に喜びや幸せを与えています。どちらが、お釈迦様の言う「賤(いや)しいもの」でしょうか。命の価値を考える時、こうしたことも一緒に考えてみてください。

住職代理 無聖(むしょう)

『修証義』第28節

「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200-1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】
私たちが今こうして仏法を聴くことができるのは、仏祖と呼ばれる過去の偉人たちが、行持(悟っても悟らなくても生涯修行を継続すること)を怠らず、まっすぐに法を伝えてくれたおかげです。もし彼らが正しく法を伝えなければ、今私たちがこうして仏法に出会うことはできませんでした。たった一句の法を聴けるだけでも感謝しなければなりません。ましてや私たちは今、最高の大法である正法眼蔵(仏法の真髄)を聴いているのです。これに感謝しないということがあるでしょうか。〔中国には命を助けられた雀と亀が、人間に恩返しをしたという故事があります〕動物でさえ感謝の心を忘れずに恩に報いるのです。人間が恩を知らずにいられるでしょうか。

【法話】
当たり前のように存在しているものでも、そこに至るまでには数え切れないほどの人々の努力や心遣いがあります。そうした先人たちの努力に思いを巡らすこともなく、ただの偶然や自分の力によるものなどと考えるなら、それは無知と傲慢が過ぎるというものです。受けた恩に感謝する心があるから人間は人間でいられます。ご先祖様から脈々と受け継がれて来た自分の命も、そしてついに出会うことができた仏法に対しても同じです。

愛犬マツの死に際して

昨夜、愛犬マツが亡くなりました。17歳3ヶ月でした。私ともう一人の僧侶で読経しながら静かに見送りました。死にゆくマツの体にとりすがって名前を呼びたかったですが、私はその時、旅立つマツを呼び戻してはいけないような気持ちになりました。私をはじめ、たくさんの人に喜びや幸せを与えてくれたマツは犬として立派に生き切ったからです。役目を終えて旅立つ者を呼び戻すのは失礼だと思ったのです。呼び戻したいと思うのはマツを失う寂しさから来る私のわがままです。もし可能なら、マツが生前に行った善行の功徳によって来世は人間に生まれ変わり、仏縁を得て、私と一緒に仏道修行をしてほしいと思っています。

マツに限らず、ペットたちは全身全霊で私たちを愛してくれます。これほど率直で純粋な愛は他に見当たりません。私たち人間にもこのような愛があれば、苦しみから解放されるのではないでしょうか。先代住職の無学老師は私たち修行僧に「この子たちから学びなさい」とよくおっしゃっていました。私も歳を重ねるにつれて、愛の塊のようなペットたちから教えてもらうことが多くなりました。私の考えの及ばない数々の因縁によって畜生界に生まれたマツですが、生前に為した善行の広大さは、人間界に生まれた私の善行をはるかに超えています。愛の力は人間と動物の種を超えて広大無辺なのですね。マツが息を引き取った後、私はマツを抱きながら「たくさんの幸せをありがとう」とだけ伝えました。

住職代理 無聖

私がおすすめしたい仏教入門書

私は、仏教で大切なことは、お釈迦様の教えを自分で実践して、その効果を体感することだと思っています。「なるほど、お釈迦様の言うとおりだった。お釈迦様の教えはこういうことだったのか」と自分で納得することです。この納得の積み重ねが私の信仰を深めているように思います。

頭の中の知識だけで幸せになれるならいいですが、現実はそうはなりません。「怒りを捨てよ」という教えも知っているだけでは意味がありません。怒りたい気持ちを抑えて耐え抜く実践が必要です。ただ私は学問としての仏教を否定するつもりはありません。自分で実践する前に正しい知識を身につけることは大切です。

この本は「仏教のめざすものは何か」というところから始まります。いったい仏教は何を目的にしている宗教なのかを知るところからです。私の知る限り、このような切り口の本は他にありません。その後、なぜそれを目的にしているのか、目的を達成するにはどのような方法があるのかと展開していきます。体系的に語られていますから、初学者が仏教の全体像を理解するのに最適ではないでしょうか。

私は20年ほど前にひと月ぐらいかけて、この本の内容をノートに書き写したことがあります。仏教用語の解説を中心に、自分の体験を投影したり、その時の考えを織り交ぜながらもう一冊の私だけの仏教入門書を作るのです。一度しっかりと腰を据えて学べば、蓄えられた知識がその後の実践の土台になります。少なくとも今日までの20年間は大いに役立ってくれています。

住職代理 無聖