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怒りや苦しみに耐える。『仏遺教経』より

数ある修行の中で、私が自分にとって特に重要だと考えている修行は「忍耐」です。忍耐とは、怒りを鎮めて苦しみに耐えることです。『仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)』というお経があります。お釈迦様がそのご臨終で説いた最後の説法と言われています。まさしく遺言ですね。このお経の中に忍耐についての記述がありますのでご紹介します。拙い意訳ですがお許しください。

修行僧たちよ、
たとえ刃物で体を切り刻まれても、
怒ってはならない。
固く口を閉ざしなさい。
怒りの言葉を吐いてはならない。
もし怒りの心をそのまま放置すれば、
今までの修行の成果は台無しになり、
これから先の修行の妨げともなる。
どれだけ戒律を守り、
どれだけ苦行を重ねたとしても、
忍耐の功徳には及ばない。
忍耐をよく実践する人は、
大人物となるであろう。
たとえ人から罵(ののし)られても、
むしろ喜んで受け入れるなら、
その人は智慧の完成した人である。
怒りは様々な善行を無価値にし、
築き上げてきたものを破壊する。
今の人も未来の人も
怒る人に対しては
誰も相手にしない。
怒りは燃え盛る炎よりも激しい。
常に防護して、
心に入れないようにしなさい。
怒りは、大切にしているものを
すべて焼き尽くすからである。

この教えを説いたお釈迦様もご自分の一族が他国によって滅ぼされるという経験をなさいました。愛する者たちが殺されるのを黙って見ているより他なかったのです。その怒りと苦しみはいかばかりでしょう。しかしその中にあってもお釈迦様は「怨みに対して怨みで報いても怨みが消えることはない。怨みを捨ててこそ怨みは消える」と仰いました。怒りや怨みを捨てて耐えることはとても難しいことです。前を走っている車が遅いというだけで怒ってしまう私たちです。そんな私たちにできるでしょうか。お釈迦様もその難しさはよく分かっておられます。ですから別のお経では「耐えることは最上の苦行」と仰っています。耐えることは確かに苦行ですが、本物の心の安らぎを獲得する(涅槃に入る)ための一番上等な修行だと仰っているのです。

正直に言えば、私はこの修行を途中で投げ出すことがあります。修行を台無しにしてしまうことがあります。その度にスタート地点に戻る気持ちです。ですから私の修行は遅々として進まないのでしょうね。皆様はいかがですか。そんな情けない私だからこそ、あえて忍耐を一番重要な修行にしているのです。もしもあなたが私について「怒らない人」という印象を持ったとしたら、それは私が心の中で必死に努力をしている証拠です。微笑みの下には激しく揺れ動く未熟な私がいます。

住職代理 無聖(むしょう)

私の修行生活

無学老師は修行僧たちに「善いことだけしなさい」と言います。しかし理解の遅い私には「ことさら善いことをしなくてもいい。欠点を一つずつ消していきなさい。そうすれば放っておいても善くなる」と諭します。老師の一言がきっかけで一足飛びに高い境地に達する僧もいますが、私は違います。その時々でいちいち欠点を改めながら地道に進むしかないと思っています。私の数多い欠点の中で三つだけをここに記します。

① 出し惜しみする時がある。
② 自慢話をしたり人を非難する時がある。
③ 我慢できずに怒る時がある。

私の心の中にはけちん坊がいます。物に限らず心も出し惜しみする自分です。だからこそ、惜しまず与えることを第一の修行と捉えています。調子に乗って口数が増えると、自分のことを誇らしげに話したり人を非難することがあります。そんな時は「私はエゴが強く心根が卑しいのだ」と言い聞かせて言葉を慎重に選びます。これが第二の修行です。相手の暴言に対して同じように言い返すことがあります。売り言葉に買い言葉です。怒りや暴言は、私が大切に築き上げてきたものを一瞬で破壊します。これまでの修行が台無しです。そうならないように相手の怒りには反応せず、徹底して耐えることを第三の修行としています。

もしもあなたが私に対して「出し惜しみしない人」「悪口を言わない人」「怒らない人」という印象を持ったとしたら、それは私が心の中で必死に努力をしている結果だと思ってください。本来の私はその逆なのですから。私のような愚鈍な者でも正しい方法で努力をすれば必ず善くなるとお釈迦様は説かれました。老師は「人は心に願ったとおりの人間になる。善い人になるためには、善い人になりたいと願うことだ」と言います。私はお二人の言葉を信じて修行生活を続けています。

住職代理 無聖

私が思う仏門の魅力

心の中の苦しみを消すにために私たちにできることは、自分で乗り越える力を持つか、または支え導いてくれる善良な人を持つかです。

どちらか一つでも手に入れられたら幸せなことだと思います。実際に多くの人がそうやって苦しみを乗り越えています。とても有り難いことですね。問題はどちらも手に入れられない人です。苦しみの中でさらに苦しみを深めていくような人です。孤独を感じ、生きづらさばかりが増していきます。時々「正雲寺に入門したい」と仰る方がいます。具体的なことは分からなくても、仏門に対して何らかの魅力を感じておられるのでしょう。

仏門では、苦しみを乗り越える力を養うことができます。そして支え導いてくれる善良な人もいます。正確には「善良であろうと努力する人」ですね。お釈迦様の教えという明確な指針がありますから、私たちはそれを学んで実践します。そうやって自力を養うことができます。また、皆が「心の中の苦しみを消す」という同じ目的に向かって修行していますから、同志としてお互いに支え合うことができます。

仏門に入れば、すぐに苦しみが消えるわけではありません。仏門では僧侶も寺人も誰もが同じ目的に向かって修行をしています。見方を変えれば、誰もが修行途中の未熟な人間だということです。未熟ですから愚かなこともします。人を困らせたり、傷つけたりもします。その度に私たちは懺悔(さんげ)をして再出発を誓います。この点では、俗世間とあまり変わらないかもしれません。

私が感じている仏門にしかない魅力とは、苦しみを作り出す愚かな自分を素直に認めて修行に専念できることです。お釈迦様の教えを学び、それを実践します。心の中の悪が邪魔をして実践できなかったり、実践しても失敗したりします。その度に反省してやり直します。実践できた時には、自分が一つ成長したことを喜び、支えてくれた人々に感謝します。毎日がこの繰り返しです。そして嬉しいことに、私たちはこの繰り返しに飽きることはなく、それどころか幸せさえ感じています。その上、時々ですが、自分の修行の成果が人の役に立つことがあるのです。その時の嬉しさはまた格別です。愚かな自分から目を背けず、修行によって自分を改善し、結果としてそれが人の役に立つ。俗世ではなかなか得られないことではないでしょうか。

正雲寺は山の中にあって、携帯電話はつながりません。テレビも映りません。自然も厳しくて楽に過ごさせてはくれません。それでも心静かに自分を見つめるには最適な環境だと思っています。もし支え合える同志がいるなら喜んでお迎えします。

住職代理 無聖

正雲寺は主人を追って…

正雲寺は460年続く禅宗のお寺です。先日お寺の歴史を調べておりましたら面白い事が分かりました。

正雲寺は永禄5年(1562年)、現在の新潟県柏崎市南条(みなみじょう)の地に建立されました。建立主は上杉景勝(上杉謙信の養子として家督を継ぐ)の家臣南条氏です。南条は元は毛利という名でしたが、この地を領地とする際に毛利から地名と同じ名に改めました。正雲寺は上杉家の戦勝祈願所として建てられました。元の名は今とは山号が違い、神宮山正雲寺といいました。

ご存知の方も多いと思いますが、上杉家は豊臣秀吉の命令により長く治めていた越後(新潟県)から会津若松に領地替えをさせられました。慶長3年(1598年)のことです。後には、関ヶ原の戦いで石田三成勢に味方したことから徳川家康の怒りを買い米沢(山形県)に移封されますが、それはともかく、上杉景勝の会津への領地替えの際は、家臣である南条氏も領地南条を捨ててこれに従いました。正雲寺は建立主を失ったことになります。その後、正雲寺は衰退と中興を繰り返しながら命脈を保ち、ついに昭和59年(1984年)に会津若松に移築され今に至っております。

私が面白いと感じたのは、歴史の偶然とは言え、正雲寺の伽藍は386年の時を経て会津若松まで建立主を追って来たということです。もし伽藍に人格のようなものがあるとしたら、よほど主人を慕っていたということになります。何か歴史のロマンを感じるお話です。主人の恩を決して忘れないこの律儀な正雲寺を私はしっかりと守らなければならないと思いました。もしかすると、また数百年後には、主人の眠る米沢の地まで再び移動するかもしれませんね。

住職代理 無聖(むしょう)

一番大切なこと

私たち僧侶にとって一番大切なことは、どんな時でも仏道に背かず、仏道から離れないことです。「そんなことはお坊さんなら当然でしょ」とお叱りを受けるかもしれませんね。ところが正直に申し上げると、この当然のことができない時があります。恥ずかしいことです。日本で曹洞宗をお開きになった道元禅師(どうげんぜんじ1200-1252)は、当時の僧侶を評してこのように仰っています。原文(古文)を現代語訳にしてご紹介します。

***

もし世間の人が褒めたり喜んだりするなら、
たとえ仏道に背くと分かっていてもこれをしてしまう。
もし世間の人が褒めなかったり尊敬しなかったら、
たとえ正しい仏道だと分かっていてもこれをしない。
そのような僧侶は見るに忍びない。
恥を知るべきである。

***

道元禅師が生きた時代(鎌倉時代)は、仏教が歪められ退廃した時代でもありました。檀信徒や権力者に媚びへつらい、人に良く思われたい、人気を集めたい、自分の地位を守りたいといったことを考える僧侶が多かった時代です。彼らに共通するのは、正しい仏道を探し求めることをやめて(修行を捨てて)自己流の仏道に満足している点です。常に人の顔色を伺って、相手が喜ぶことだけを言葉にします。中には人々の支持を得ていること、権力者に気に入られていることが即ち正しい仏道を歩んでいることだと考える輩もいたようです。こうした人々を道元禅師は厳しく諌めているのです。私は先の道元禅師のお言葉を自分なりに言い直して心に刻んでいます。

人々が称賛してくれるからといって
正しい仏道を歩んでいるとは限らない。
自分の快楽のために仏道を歪めてはならない。

生意気を言うようですが、これは私たち僧侶が肝に銘ずべきことだと思います。修行中の身ならば誰でもこの過ちを犯す可能性があるからです。私も例外ではありません。僧侶は時々過分な褒め言葉を頂くことがあります。若い頃の私はすっかり気を良くして天狗になってしまうことがありました。これだけ認めてもらっているのだから、自分は正しい仏道を歩んでいるのだと傲慢になることがありました。その挙句、自己流の仏道で満足し、気づきや学びのない生活に安住してしまうのです。今にして思えば恥ずかしいばかりです。ここまでひどくはないにしても、今でも小さな勘違いをすることがあります。耳に心地の良い言葉は、それを口にした人の心は清らかでも、聞いた人間の心を汚すことがあるのです。一番大切なことに用心しながら、お寺に来てくださる皆様と真実のお付き合いがしたいと願っております。

住職代理 無聖(むしょう)

仏門の安心感はどこから来るのでしょう

仏門には独特の居心地の良さがあります。何とも言えない安心感です。私は、この安心感はどこから来るのだろうと考えることがあります。正雲寺が静かな自然の中にあるからでしょうか。ご縁ある方々と善い関係を築けているからでしょうか。もちろんそれらもあるでしょうが、一番は、お釈迦様が私たちの心にある苦しみを決して否定しないからだと思います。

「そんなのは苦しみじゃない」「心が弱い」「現実から逃げている」。こういった言葉をよく耳にします。私も言われたことがあります。私はこのように否定されると、苦しんでいることが悪いことのように感じてしまいます。こうした言葉で傷つきたくないので、誰にも言わずにいようと思ってしまいます。皆さんはいかがでしょうか。苦しいのに苦しいと言えない。それがまた苦しみを深めます。しかし仏門では、苦しいことは苦しいと素直に言うことができます。お釈迦様は苦しみを否定する言葉は一言も言いません。ただ「よく来たね」と仰るのです。

このお言葉が示すように、仏門は昔から心に苦しみを抱く人や社会で生きづらさを感じている人を迎え入れて来ました。これは言い換えると、救いを必要としない人々には縁のない存在だということです。多少の苦しみはあるにせよ、自分の努力によって解決し、社会の一員として調和し幸福を感じられる人に仏門は必要のないものでした。仏門は、お釈迦様の時代から今日まで、自分で解決したくても解決できずに苦しんでいる人のためにあります。仏教を必要としていない人に仏教を強いることはないのです。

仏門に入門すれば、苦しみが魔法のように消えるわけではありません。お釈迦様のような偉大な先生がいて、手を取って導いてくれるわけではありません。仏門では、先輩と後輩の違いはあるにせよ、誰もが同じように苦しみを抱いて生きています。「お坊さんは苦しみとは無縁では?」と思われるかもしれませんが、それは大きな誤解です。お悟りになったお坊さんは別ですが、修行中のお坊さんなら誰でも苦しみと向き合っています。そもそも仏教の目的は苦しみを消すことにあるからです。ですから仏門に入門するとは、同じ目的を持った仲間と一緒に支え合いながら修行をするということです。一人で修行するよりは心強いはずです。

本当はできるのに力を出し惜しみしたり、面倒くさいなどと言って怠けたりする人は、何をやっても苦しみが消えることはありません。もしあなたが懸命に生きていて、それでも生きづらいと思うなら、私は現実から逃げてもいいと思います。その現実が本当に正しいものなのかを見直す時間が必要です。英気を養って再び社会に出ていくのか、それとも仏門に残って心の平和を求め続けるのか、新しい選択が訪れるのを待てばいいのです。こうした寛容さも仏門の安心感につながっているように思います。

会津本山 住職代理 無聖(むしょう)

人生の穴と向き合う

 人生には、ある日突然、思いがけず穴が開くことがあります。重い病気を患ったり、事故に遭ったり、大切な人を失ったりします。他人の無理解やひどい仕打ちで開く穴もあります。毎日の生活の中で私たちが経験する悲しいことや苦しいことがそうです。できることなら穴は開けたくありませんが、残念ながらそうはなりません。私たちは必ず開いてしまうこの穴に対してどうように向き合えばいいのでしょうか。

 穴の前では、茫然とする人、嘆き悲しむ人、腹を立てる人、自暴自棄になる人がいます。ありがたくも嬉しくもない穴ですから、気持ちが荒(すさ)んでしまうのは無理もありません。しかし他方では、気持ちが荒んでいくのを止めて、穴を見つめながら考える人もいます。その人は、荒んだ気持ちを長く持ち続けても、結局は自分の心と体をボロボロにするだけだと知っています。そして驚くことに、この思いがけず開いてしまった穴に顔を近づけて「穴が開く前には見えなかったけれど、こうして穴が開いたからこそ見える風景、今まで見たこともないような風景がきっと広がっているはずだ」と期待感を持って言うのです。その人は人並外れた忍耐力を持っているわけでも、底抜けの楽観主義者というわけでもありません。ただ一つの真実「すべての物事の意味は自分の心が作り出している」ということを知っていたのです。自分の心がけ次第でマイナスの意味付けもできるし、プラスの意味付けもできるということをです。

 先日、友人から手紙が届きました。その手紙には、友人のお母様が痴呆症のために、自分の名前も生い立ちも、これまでの人生の出来事もすべて忘れ去ってしまったようだと書かれてありました。私は、友人がお母様をとても大切に思っていることを知っていましたので、さぞ心中はお辛いことだろうと思いました。ところが手紙の最後には「日に日に心が軽くなっていく母を羨ましいと思うことがあります。色々と忘れてしまうことは神様からの最後の贈り物かもしれません」と書かれていました。なってしまった病いを恨み続けるのではなく、開いてしまった穴から、穴が開くまでは見えなかったものを見ようとする意思、穴が開いたことのプラスの意味を知ろうとする謙虚さが記されていました。おそらく友人はこの心がけによって、平穏な心でお母様と濃密な時間を過ごすことでしょう。

 物事の意味を決めるのは自分の心です。どんなに防御をしても、必ず開いてしまう穴です。生きていく中ではきっとたくさんの穴が開くことでしょう。それならば上手に付き合っていく方が良いに決まっています。自分を暗い気持ちにさせる意味より明るい気持ちにさせる意味を選ぶ方が賢明というものです。私たちはどちらも自由に選べるのですから。

 私たちは、何か事があるごとに神様や仏様にお願い事をします。「健康でありますように」「合格しますように」「成功しますように」といった具合にです。私たちはいつも「欲しいもの」をお願いします。しかし神仏が私たちにお授けになるのは「必要なもの」です。もしかすると、健康を願う人には病いを、合格を願う人に不合格を、成功を願う人には失敗をお授けになるかもしれません。そうだとすると、神仏はそれらが私たちに必要だと判断されたからです。悲しみや苦しみの中でさえ、その人が開いた穴から新しい風景を見ることができる人だと信じておられるのです。私は悲しい時や苦しい時は、この状況が今の私に必要なのだと思うようにしています。そしてこの状況の中で嘆き悲しむこと以外にどんな風景が見えるのか、私を人として成熟させるようなプラスの意味を探すようにしています。

住職代理 無聖(むしょう)

ご奉仕のすすめ

お寺には、建物内外の掃除をしてくれたり、土木作業を手伝ってくれたり、定期的にお花を持参して飾ってくださる方々がいます。アルバイトやパートのお仕事ではありません。お寺からは一度もお金を出したことがないのです。それどころか、皆さん手弁当で、ご自分のお金と時間を使って来て下さいます。このような献身的な行為は、今は「災害ボランティア」の中によく見られますね。しかしお寺では日常の光景です。

お寺ではこれを「ご奉仕(ほうし)」と呼んでいます。私心を捨てて、他のために力を尽くすことです。相手は神仏や故人です。よく耳にするのは「私が今こうしていられるのは仏様のおかげです。これぐらいはさせてください」という声や「故人がきっと喜んでくれると思います」といった声です。

私心を捨てるとは、損得や効率を考えるのをやめるということです。この労働がいくらのお金になるのか、どうやれば少ない労力で効率が上がるかとは考えません。ただ相手の喜びや幸福だけを願うのです。1円にもならなくても、効率が悪くても構わない、相手が喜んでくれればそれで良い。そういう風に、普通の賃金労働とは異なる価値観で成り立っているのがご奉仕です。

しかしご奉仕は、思わぬ利益をもたらします。それは心が清らかになることです。すがすがしい気持ちと充実感をもたらします。仏教は心を清らかにすることを第一義にします。心が清らかなら、すべての幸福が手に入るからです。この多大な利益を考えると、「他のため」と言いながら、実は自分のためでもあるのです。

ご奉仕をしてくださった方に、私たち僧侶は「ありがとう」とは言わない約束です。ご奉仕は、自分の心を清めるための正精進(しょうしょうじん:正しい修行)だからです。もし言うとすれば、「ご精進、ご苦労さまです」でしょうか。ただ実際には「ありがとう」と言ってしまいますね。言わずにはいられないのです。ご奉仕をしている姿は、どなたも光り輝いています。その様子を見れば「尊い姿を見せてくれてありがとう」となります。

皆様にもご奉仕をおすすめします。家庭でも会社でもできることです。「そんな1円にもならないことを…」というお考えの方もいらっしゃることでしょう。1円を稼ぐことはとても大切です。しかし、人生にはそれ以上に大切なことがあります。それは汚れている心を清めることです。人間が成熟するとは、お金持ちになることではありません。自分の心がどれほど汚れているかをよく知って、少しでも清らかになるよう努力し、その清らかなら心で周りの人たちの幸福に貢献することです。

【これもチェック!】
仏教の第一義は「自浄其意:じじょうごい」です。「自分で自分の心を清めること」です。もしこの努力を段階分けするなら次のようになるでしょう。「ご奉仕」は②と④に相当します。

① 汚れている心を認識する。
② 汚れを取り除く努力をする。
③ 汚れが取れて清らかになる。
④ 清らな状態を保つ努力をする。

皆様のご精進を応援します!

死にたいと思っているあなたへ

こんにちは。無聖(むしょう)です。あなたは「死にたい」と思っているのですね。私にも覚えがあります。きっと多くの人が同じ経験を持っていると思いますよ。あなたは「死にたい」という思いと一緒に「どうして生きなければならないのか?」と思っているかもしれませんね。実は、これはとても難しい質問なんです。ちゃんと答えられる人は少ないと思います。

今から2500年ほど前、今のインドとネパールの国境あたりにシャカ族という部族が暮らしていました。このシャカ族の中にゴータマ・シッダールタという名前の王子がいました。私たち僧侶は、尊敬の念を込めて、この王子のことを「おシャカさま」とか「ブッダ」と呼んでいます。そう、仏教を作った人です。このおシャカさまが「どうして生きなければならないのか?」という質問に対して、すぐに答えることはしないで、私たちが自分で答えを見つけられるようにヒントを与えてくれました。人から聞いて答えを知るより、自分で考えて答えを見つけた方がずっと役に立つからです。おシャカさまはこう言いました。

「この世界では、すべてが互いに依存しあっている。
これは誰にも変えられない真実である」

この言葉をヒントに考えてみましょう。まず最初に「縁起世界(えんぎせかい)」という言葉を覚えてください。これは、おシャカさまの言葉のとおり「すべてが互いに依存しあっている世界」のことです。ここで言う「すべて」には、生き物だけではなく物や現象も含まれているのですが、今は生き物に限ってお話しします。言い換えると、縁起世界とは「すべての生き物はお互いに頼り合って生きている。相手がいるから自分が存在し、また自分がいるから相手も存在する。反対に、相手がいなければ自分は存在せず、また自分がいなければ相手も存在しない。このような関係だけがある世界」ということになります。縁起世界は、どこか遠い夢の世界のことではありません。私たちが今生きているこの世界の本当の姿のことを指しています。縁起世界では、生き物は皆お互いに頼り合っているので、「一人ぼっち」ということがありません。しかし、そうは言っても、現実には一人ぼっちを感じることが多いですよね。あなたもきっとそうでしょう。それは、縁起世界はなかなか目立たなくて、想像力や観察力をフル回転して「よし、見るぞ!」と真剣に見なければ見えないからです。ちょっと見たぐらいでは縁起世界は見えません。さあ、それではゆったりした気持ちで、でも真剣に、頭の中でイメージを膨らませながら、この世界の本当の姿を見てみましょう。

正雲寺(しょううんじ)は、山の中にあります。山には大きな木がたくさん立っています。その内の一本を見てみましょう。太い幹からは数えきれないぐらいのたくさんの枝が伸びています。そしてその一本一本の枝には、これまたたくさんの葉っぱが付いています。その内の一枚を見てみましょう。春になると枝から小さな芽が出て、やわらかくみずみずしい黄緑色の葉っぱが広がります。夏になると濃い緑色になって、今度は固く強そうな葉っぱに変身します。秋になると緑色は薄い黄色に変化し、オレンジ色になったかと思うとすぐに真っ赤に変わります。冬が訪れると赤色はうす茶色に変化し、水気を失って小さく縮みます。やがて自然に枝から離れて地面に落ちて行きます。地面に落ちた葉っぱは、昆虫や微生物の格好の食物です。彼らはそこでたくさんのフンをします。それらがまた栄養いっぱいの土を作るのです。この土は太い幹をさらに太くします。土からたくさんの養分を吸い上げた幹は、春になると再び枝を伸ばし、たくさんの葉っぱを茂らせるのです。葉っぱも昆虫も微生物も木の幹もみんなお互いに頼り合っています。もっと言えば、葉っぱが季節ごとに色や姿を変えるのも太陽や雨や風や雪に頼っているからです。こうして見ると、今まで見過ごしてきた生き物たちや自然の営みは、縁起世界そのものだということが分かります。これが、この世界の本当の姿です。人間だけがそこから外れて生きていると考えるのは、とても不自然なことなのです。

あなたも昆虫や微生物と同じように、この縁起世界を構成している一つの大切な要素です。あなたが生きているから、別の命も生きていられるのです。土の中の微生物には木の枝が見えないように、あなたの目には見えないかもしれません。しかし、あなたによって生かされている命がどこかに必ずあるのです。もし目の前に「私はあなたのおかげで生きていられます」と言う人が現れたとしたら、それはとても幸運なことです。しかしそんなことを言ってくれる人がいなくても、あなたが生きているから別の命も生きていられるという事実は変わりません。なぜなら、自然の営みが示すように、またおシャカさまのヒントにもあるように、これは「誰にも変えられない真実」だからです。この「誰にも変えられない真実」のことを「真理」と呼んでいます。この言葉も覚えてくださいね。真理は決して変わらないし、無くなることもありません。ですから、真理に抵抗したり、また真理にケンカを売ったりするのは無駄なことです。決して勝ち目はないのですから。私たちの生老病死も大切な真理です。生まれること・老いること・病気になること・死ぬことの四つは、誰にも変えられないし、無くなることもありません。抵抗してもケンカを売っても勝負にならないことは、皆さんもよくご存知ですよね。

真理は、人の意思とは関係なく存在し働いています。縁起世界の中で生かされている命も、意思に関係なく存在し働いています。命は「すべてが互いに依存し合っている」という真理に従って存在し働いているだけで、人の意思とは関係ありません。ところが私たちは、自分の意思と自分の力で生きていると思っています。それは勘違いなのです。私たちはこの縁起世界の中で、数えきれない量の「私以外のもの達」から支えられて生かされているのです。

生きる価値とは何でしょう。人生の意義とは何でしょう。あなたはどうして生きなければならないのでしょう。その答えはもう明らかです。それは「あなたが別の命にとって必要だから」です。あなたがあなた以外のもの達から支えられているのと同じように、人もその人以外のもの達から支えられています。この中にはあなたも含まれているのです。あなたは「他に大勢いるんだから、私一人いなくても・・・」と考えるかもしれませんね。縁起世界では、無視してもいい命というのはありません。一つ一つがちゃんと役目を担っていて、それぞれが欠かすことができない大切な存在なのです。

命は人の意思で終わらせるものではありません。真理に従って、終わるべき理由がある時に終わるのです。その時とは、一つの命の終わりが別の命を支える時です。あなたは、青々とした夏の葉っぱが自分の意思で枝から離れるのを見たことがありますか。それはとても不自然な姿です。人がその時を待たずに自分の意思で命を終わらせるのも、やはり不自然な姿です。葉っぱは終わるべき理由がある時、その時を待ってから自然な形で枝から離れるのです。人も同じです。

自殺をしてはいけません。あなたは大切な人です。本当は、あなたがいなければ困ると言う人が周りにはたくさんいるのです。しかし困ったことに、周りの人はそれに気付きません。みんな自分のことばかり考えているから、あなたに目が向かないのです。だから今あなたが「誰にも必要とされていない」と感じたとしても少しも変ではありません。でも忘れないでください。たとえ皆が気付かなくても、あなたは大切な人です。それは誰にも変えられない真実です。今あなたが生活している環境では、たまたま真実が見えづらくなっているだけです。今の環境から少し離れてみてください。今、自分が生きている世界から距離を置いて見ましょう。狭い井戸の中で、あても無く、ただもがいているだけだということが分かります。井戸の外には大きくて広い海があります。そこには、縁起世界の中で生きる意味を知り、無理なく自然に人生を楽しむ本当のあなたがいます。

重たい腰を上げて、本物の海を見に行ったり、旅行に出かけるのもいいですね。会津若松の正雲寺に来てくれてもいいですよ。私と一緒に井戸の外の話をしましょう。

トモちゃん

正雲寺に新しい仲間が増えました。2018年7月20日、炎天下の境内でのこと。愛犬センが突然興奮気味に吠えはじめました。びっくりして吠えている方向を見ると、50メートルほど先の車の下でコソコソと動く影があります。私は何だろうと思いそっと近づきました。すると、そこには全身の毛を立てて「シャー」と威嚇しながらこちらをにらむ子猫がいました。私の手のひらに乗るほどの小さな命です。とてもおびえていました。

私たちは、長年一緒だった猫のゆふちゃんを亡くしたばかりで、お寺に猫がいないのを寂しく思っていました。動物愛護センターの保護猫を譲り受けようか、それとも猫好きの知人に声をかけようか、などと話し合っていたのですが、「やっぱりご縁に任せて、お寺に(野良)猫がやって来るのを待とう」ということになりました。しかし、それがいつになるのか分かりません。

そんな時にこの子猫が現れました。推定年齢2ヶ月。私はとっさに素手で捕まえようしましたが、子猫の素早さに追いつきません。どうしようかと悩んでいたところ、近くにいた子供達が「どうしたの?」と声をかけてくれました。そこで子供達と作戦を立て、全員で子猫を取り囲もうということになりました。幸い子猫は体力がないらしく、10メートルほど逃げるとすぐにうずくまってしまいます。その時がチャンスです。私は虫取り網を持ち、子供達が逃げ道を塞ぐのを待ってから静かにゆっくりと近づきます。「大丈夫、怖がらなくていいよ。友達だからね。友達、友達」と何度も言いながら近づきます。一度素手で捕まえたのですが、すり抜けてしまいました。今度は絶対に逃がすまいとゆっくりゆっくりです。私は無意識に「トモちゃん」と呼んでいました。友達だからトモというわけです。あと20センチ、10センチ。子猫は先ほどとは違って逃げようとしません。それどころか「トモちゃん」と呼ぶたびに小さく「ミー」と答えます。こうして子猫は無事に保護され、名前も「トモ」になったのです。

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こんなことがあるのでしょうか。ゆふちゃんが亡くなって、次に「ご縁に任せよう」と決めて、それからセンちゃんが知らせてくれて、私が子猫の存在に気づいて、人手が必要な時に子供達がいて…。そうやっていくつものご縁に支えられてトモはやって来ました。偶然ではない大きな力が働いているように思えてなりません。トモの命を、ゆふちゃんが、センちゃんが、そして子供達が支えたのです。命は互いにつながっているのですね。

やんちゃな子猫のこと、それからが大変です。現在トモは6ヶ月。私の部屋で怪獣のように暴れています。静かだった私の生活は一変。トモに振り回される毎日です。もちろん、楽しくて幸せな日々です。寺猫トモちゃんの様子はツイッターでも時々お知らせしています。よろしければご覧ください。

むしょうのツイッター
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