現代語訳『修証義』

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『修証義』第三十一節(最終節)

『修証義:しゅしょうぎ』は道元禅師(1200-1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつあります。私のその時々の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】

ここにいう諸仏とは釈迦牟尼仏のことです。釈迦牟尼仏は即心是仏です。過去現在未来の諸々の仏たちはみな、その身口意に釈迦牟尼仏を顕現しながら行持するのです。これが即心是仏ということです。即心是仏とは何者なのかをよく考えなさい。それが仏恩に報いることです。

【法話】

日本仏教は大乗仏教です。大乗仏教は、阿弥陀如来や薬師如来、観音菩薩や地蔵菩薩といった多くの仏菩薩を創作しました。それらは、釈迦牟尼仏の説く教えの内容が時々に応じて擬人化したものです。すべては、2500年前に実在した釈迦牟尼仏という一人の人間に帰一します。ところが、人々は創作された諸仏や諸菩薩を崇敬するあまり、肝心の釈迦牟尼仏を遠い存在にしてしまいました。こうしたことに対する反省もあったのでしょう。道元禅師は、この三十一節で「釈迦牟尼仏に戻ろう」と言っているのです。しかもそれは、姿を拝んだり、名前を唱えたりすることではなく、私たち自身が生身の人間として生きながら釈迦牟尼仏になろうというのです。このように言いますと、釈迦牟尼仏になるためには大変に厳しい修行が必要で、私たちのような凡夫には夢のようなことだと思いがちです。しかしそうではないと道元禅師は説きます。『修証義』の修証の字は、修(日々の修行)と証(仏としての証し)とに分けることができます。普通は、長い年月の修行の果てについに仏としての証しが現れると考えますが、道元禅師は、日々の修行と仏としての証しは一つであり同時であると考えます。日々修行をする私たちの心と体そのものが、その瞬間毎に仏としての証しを現しているのです。これを即心是仏といいます。つまりそれは、仏になることを目指すのではなく、只今この瞬間を仏として生きるということです。このことについて、曹洞宗大本山永平寺第七十八世貫首宮崎奕保(みやざきえきほ)禅師は、仏をまねることだとおっしゃっています。「一日真似れば一日の真似。二日真似れば二日の真似にすぎないが、一生真似ればそれは本物だ」と。最後に道元禅師は「あなたは即心是仏として今を生き切っているか?」と問うています。あなたは何と答えますか。

【あとがき】

第一節の現代語訳は、2016年7月のことでした。本日の最終節までに8年を費やしたことになります。初期は、若気の至りと申しますか、本当は分かっていないのに、分かったような気になって勢いで書きました。中期になると、ことの重大さに気づき書けなくなりました。そして後期は、少しずつではありますが、見えなかったものが見えるようになる喜びを感じながら書きました。もちろん十分ではありませんし、誤解も多いことでしょう。それでも、私にとっては十分過ぎるほど充実した作業となりました。私は、編纂の趣旨こそ違えど、『修証義』は『正法眼蔵』への入口だと思っています。今後は、この作業と並行しながら『正法眼蔵』をじっくりと読ませていただこうと思います。長きにわたりお付き合いくださり、誠にありがとうございました。

住職代理 無聖(むしょう)

『修証義』第30節

『修証義:しゅしょうぎ』は道元禅師(1200-1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつあります。私のその時々の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】

月日は射られた矢よりも速く過ぎ去り、人の命は葉に落ちた露(つゆ)よりも脆(もろ)いのです。どんな手を使っても過ぎた日を取り戻すことはできません。欲望の赴くままに百年を生きるのは虚しいばかりです。ただ生きているというだけの憐れむべき骨肉でしかりません。しかし、たとえ百年を欲望の奴隷として生きたとしても、その中のたった一日でも行持したならば、その百年を行持したことと同じなのです。それどころか、来世の百年までも行持することになります。その一日の身命は、尊ぶべき命であり、尊ぶべき骨肉です。そのようなことができる私の身心なのですから、自分を大切にして、自分を敬うべきなのです。私たちが行持することによって、過去の諸仏の行持が実証され、諸仏の歩んだ道が私たちの目の前に開かれるのです。そうして、私たちの行持は未来の諸仏の種となり、未来の諸仏の行持となるのです。

【法話】

お釈迦さまの言葉にこうあります。「怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、堅固につとめ励んで一日生きる方がすぐれている」。「怠りなまけて、気力もなく生きる」とは、つまり、欲望の赴くままに自分の利益のためだけに生きるということです。これは道元禅師の言う「憐れむべき骨肉」です。真の人間ではなく、欲望が骨と肉をまとっているに過ぎないというわけです。しかしもし、自分が欲望の奴隷であることを自覚し、そこから抜け出そうと励むなら、過去の諸仏たちが歩んだ同じ道を歩んでいるのです。それは正しくかけがえのない精進です。そこに至って私たちの身命は「憐れむべき骨肉」から「尊ぶべき骨肉」となります。過去、現在、未来の三世の中心は、今日一日を行持する今の私です。これをお釈迦さまは【天上天下唯我独尊】と言い表しました。過去を悔やみ、未来に思い煩うことなく、欲望の奴隷とならずに今日の一日を報謝と利他に捧げましょう。

住職代理 無聖(むしょう)

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【天上天下唯我独尊】
「てんじょうてんげゆいがどくそん」。お釈迦さまは、生まれてすぐに立ち上がり、天と地を指差しこのように語ったといいます(伝説)。「天にも地にも私一人が尊いのだ」と宣言したとも解釈できますが、釈尊一人のことではなく「私たち一人ひとりが尊い存在となりうるのだ」とも解釈できます。道元禅師は後者であると確信されていたのでしょう。その思いがこの第30節に集約されています。

『修証義』第29節

『修証義:しゅしょうぎ』は道元禅師(1200-1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつあります。私のその時々の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】

仏祖の恩に報いるには、日々の修行をおいて他に正しい道ありません。つまりそれは、毎日をいいかげんな気持ちで過ごさず、私利私欲に走らず、途中で修行を投げ出さないということです。

【法話】

【仏祖(ぶっそ)】の恩に報いるというと、お供え物をしたり冥福を祈ったりすることだと思うかもしれませんがそうではありません。道元禅師は私たちが仏祖と同じように仏の教えを実践することだとおっしゃっているのです。「自慢話や人の悪口を言ってはならない」という教えがあるのですから、それを毎日実践することです。また「怒ってはならない」という教えもあるのですから決して怒らないことです。見返りを求めずに他人に奉仕したり、優しい言葉で他人を喜ばせることも教えの実践です。修行は苦しいかもしれません。怒りたい人にとっては怒れないのが苦しいでしょうし、損得で考える人にとっては無償の奉仕が苦しいでしょう。いずれも忍耐が必要だからです。その苦しみをあえて受け入れて途中で投げ出さないで続けるのです。私たち【修行者(しゅぎょうしゃ)】が目指しているのは【涅槃(ねはん)】の境地です。やすやすと手に入るものではありません。

住職代理 無聖(むしょう)

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【仏祖】
仏教の開祖であるお釈迦さまとその教えを2500年間忠実に継承してきた高徳の僧侶たち。
【修行者】
ここでいう修行者とは在家者と出家者の区別なく、仏の教えを生活の指針にしているすべての人をいいます。
【涅槃】
迷いや悩みを離れた安らぎの境地。心がどのようなことにも揺るがず常に静けさを保っている状態。

『修証義』第28節

「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200-1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】
私たちが今こうして仏法を聴くことができるのは、仏祖と呼ばれる過去の偉人たちが、行持(悟っても悟らなくても生涯修行を継続すること)を怠らず、まっすぐに法を伝えてくれたおかげです。もし彼らが正しく法を伝えなければ、今私たちがこうして仏法に出会うことはできませんでした。たった一句の法を聴けるだけでも感謝しなければなりません。ましてや私たちは今、最高の大法である正法眼蔵(仏法の真髄)を聴いているのです。これに感謝しないということがあるでしょうか。〔中国には命を助けられた雀と亀が、人間に恩返しをしたという故事があります〕動物でさえ感謝の心を忘れずに恩に報いるのです。人間が恩を知らずにいられるでしょうか。

【法話】
当たり前のように存在しているものでも、そこに至るまでには数え切れないほどの人々の努力や心遣いがあります。そうした先人たちの努力に思いを巡らすこともなく、ただの偶然や自分の力によるものなどと考えるなら、それは無知と傲慢が過ぎるというものです。受けた恩に感謝する心があるから人間は人間でいられます。ご先祖様から脈々と受け継がれて来た自分の命も、そしてついに出会うことができた仏法に対しても同じです。

『修証義』 第27節

「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200-1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】
考えてもみなさい。もしお釈迦様が真理をお説きにならなかったら、私たちが正しい教えを求めて、それに忠実に生きようと願っても、それは叶わなかったのです。〔しかし、嬉しいことにそれは叶います。ですから〕正しい教えに出逢えるようにいつも願うのです。お釈迦様は仰っています。「もし正しい教えを説く師に出逢ったら、その人の氏素性を探ってはならない。容貌を見てはならない。行いに非があっても〔それには深い意味があるのであるから〕批判してはならない。修行の方法を疑ってはならない。ただ教えのみを尊重すれば良いのである。師を礼拝して敬い、信じて従うことである」と。

【法話】
私たちは、語られた言葉を聴かず、誰が言ったのかを気にします。それが批判めいた言葉であった時「あなたに言われる筋合いはない」などと腹を立て耳を傾けません。それが正しい批判であってもです。カチンと来る心やプライドが正しい教えをはばんでいます。正しいこと、真実なことを語る人に出逢えたら、それはとても幸運なことです。もしそんな人に出逢えたなら、素直になって、黙って付き従うことです。そして余計なことは詮索せず、語られる言葉だけをしっかり理解するように努めましょう。あなたの人生で、そのような人はもう二度と現れないかもしれないからです。

『修証義』 第26節

「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200-1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】
私たちは、この世界に人間として生まれてきたからこそ、菩提心(自分よりも人の幸せを願う心)を発することができるのです。過去からの数々の因縁がつながっただけでなく、強く願う心があったからこそ、この人間世界に生まれ、お釈迦様の教えに出会えたのです。なんと嬉しいことではありませんか。

【法話】
この一節は、我が身の尊さを説いています。しかし「私は偉い」と慢心することではありません。私という人間が今こうして存在するためには、いったいどれだけの命がつながり、どれだけの条件が揃えばいいのでしょうか。どれ一つ欠けても成立しないこの命です。まさに奇跡の連鎖と言えるでしょう。その命の貴重さを説いているのです。しかし私たちは、こうして授かった貴重な命を雑に扱ってはいないでしょうか。自分の命を軽んじるのは、それが自分の所有物だと勘違いをしているからです。「私の命は私のもの。それをどう扱おうが私の勝手」と言う人がいます。しかし体の中で私のものと呼べる部分があるでしょうか。もし本当に私のものなら、何事も思い通りになりそうですが、実際にはそうはなりません。顔のシワが増えることや髪や爪がのびることを、私たちは一秒も止めることができません。病気になることも歳をとることも、何一つ自分の思い通りにコントロールできないのです。これで本当に自分のものと言えるでしょうか。体の中の細胞の一つ一つは、すべてご先祖様が作り上げてきたもので、私が新たに作り出したものではありません。私という命は、すべて他人が築き上げたものであって、「私」という意識が、ただその管理を託されているにすぎません。私たちは管理者として、この命を有難く受け継ぎ、そしてこの命の価値を全うしなければなりません。それは、子供を産み次の世代に命をつなぐことだけではなく、誰かの生きる力となって、その命を支えることでもあります。菩提心がそれを可能にします。菩提心こそ、すべての命の中で人間だけが持つことを許された奇跡の心なのです。

『修証義』 第25節

「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200-1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】
以上の布施・愛語・利行・同事を「四摂法(ししょうぼう)」といいます。菩提心を達成するためには、この四摂法の実践をおいて他にありません。お釈迦さまの四つの智慧で、苦しむ人々をこちらに引き寄せて、決して見捨てることなく助けるのです。すべての人々が四摂法によって、苦しみから解放されます。まことにありがたい功徳です。お釈迦さまとそのお智慧に深く感謝いたしましょう。

【法話】
これら四つの智慧は、人を導く立場にある者の心得、トップの資質のように見えるかもしれません。導く者と導かれる者との間にはもとから能力の差があって、導かれる者にとって四摂法は関係のない話だと思うかもしれません。しかしそうではないのです。道元禅師は「誰でも仏になれる」と言います。仏になれるかどうかは、資質や能力の差で決まるのではなく、今この瞬間に仏らしい振る舞いをしているかどうかで決まるのです。仏らしい振る舞いをしている間だけは、すでに仏です。仏のような心(考え方)を持ち、仏のような言葉を話し、仏のような行動をする。四摂法にはこれらすべてが集約されています。『修証義』の「修証」には、修行している間は、仏であることを証明して見せている、という意味が込められています。四摂法を実践している間は、あなたは仏さまです。そして「一生、仏であり続けて欲しい」という願いが込められているのです。

『修証義』 第24節

「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200-1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】
同事(どうじ)とは、自分に背かず、人にも背かないということです。それは、お釈迦様が自ら進んで人々の暮らしに入って行ったようにです。またある時は、人々をこちらに引き寄せてから、法によって正しい生き方へと導くこともあったでしょう。自分からか、または人からか、同事の前に区別はありません。海が川の水を拒まないのは同事です。〔海は川の水をすべて飲み込みます。そして川の水をことごとく海水に変えてしまうのです。海は海の心を保ったまま、海としての徳をあらゆる生命に与えます〕。だからこそ海にすべての水が集まるのです。

【法話】
水は容れ物の形にあわせて四角にも丸に形を変えます。これが相手に背かないということです。しかし水はどのように形を変えたとしても、その水面は必ず水平を保っています。自分の核となる部分は決して変わらない、これが自分に背かないということです。この水のあり方が同事です。では私たち人間の核とは何でしょうか。それは「何にも偏(かたよ)らない心」です。別の言い方をすれば、「執着しない心」「平等」と言ってもいいでしょう。ところが世間では、偏ることが堂々とまかり通っています。そして、その偏りがすべての苦しみの原因だと誰も気が付きません。もし宗教や思想に偏れば、反対の立場をとる人々が必ず現れて敵対関係を生みます。もし愛に偏れば、それを失う不安や苦しみと同時に他者への差別の心を生みます。同事とは、私も彼も、これもあれも差別しない心です。私たちは皆個性の違う一滴の水です。そんな私たちを海は平等の徳で漏らさず受け入れています。これが同事の姿なのです。

『修証義』 第23節

「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200-1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】
利行(りぎょう)とは、人を選ばず、見返りを求めずに助けることです。愚かな人ほど、人の利益を優先すると自分の利益が減ってしまうなどと考えます。そうではありません。利行というのは、自分とか他人とかの区別を超えた真理なのです。どちらか一方だけということはありません。どちらにも平等に利益があるのです。

【ミニ法話】
これは本当に、胆に銘じておきたい道元禅師のお言葉です。私たちは何か善いことをする時、心のどこかで、見返りを求めたり、損得計算をします。人のために何かをすると、自分が犠牲になったり、損をすると思ってしまいます。しかしそれは間違いです。例え表面的には自分が犠牲になっているように見えても、損をしているように見えても、本当はそうではなく、結局は自分が幸せになるための努力なのです。ボランティア活動が良い例です。ボランティア経験者は誰もが口を揃えて言います。「困っている人に喜んでもらいたいと思ってボランティアに参加したけれど、私はそれ以上の喜びを彼らからいただきました」と。お金も時間も犠牲にした人々ですが、それらを補って余りある喜びを得たのです。利行は、どちらか一方ではなく、どちらにも幸せをもたらします。この理屈が分かっていれば、善いことをするのに、ためらいはなくなります。

『修証義』 第22節

「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200-1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】
愛語(あいご)とは、穏やかで優しい言葉のことです。幼い子に接するように、「守ってあげたい」という気持ちを込めて語るのが愛語です。善いことをしたら褒めてこれを伸ばし、悪いことをしたら憐れみの心で教えます。自分と敵対する人の荒ぶる心を鎮め、争う人々を仲直りさせるのも愛語です。面と向かって愛語を聞けば、心躍るような嬉しい気持ちになります。また人づてに愛語を聞けば、その優しさに感動します。愛語には、不可能を可能にする力があることを学ばなければなりません。

【ミニ法話】
言葉は凶器でもあります。争いの原因を作り、人を死に追いやります。平等の世界に差別を生み、相対の世界に絶対を生み、存在しないものを存在するかのように語ります。私たちは、意識せずに言葉を凶器にしています。この「意識していない」というのが恐ろしいのです。知らない内に、人を傷つけ、恨みを買っています。意識していないということは、素の自分がすでに間違っているということです。そうであるなら、「素の自分」といった危ういものは一日も早く捨てて「新しい自分」を育てなければなりません。それが、愛語を学ぶということです。経典には「愛語には天を動かす力がある」と書かれています。天を動かすのですから、心一つを動かして、新しい自分を育てるぐらいのことは簡単です。素の自分に任せないで、愛語を常に意識して、新しい自分を育ててください。