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護法山正雲寺 会津本山 > 最新情報 > 2021年

一番大切なこと

私たち僧侶にとって一番大切なことは、どんな時でも仏道に背かず、仏道から離れないことです。「そんなことはお坊さんなら当然でしょ」とお叱りを受けるかもしれませんね。ところが正直に申し上げると、この当然のことができない時があります。恥ずかしいことです。日本で曹洞宗をお開きになった道元禅師(どうげんぜんじ1200-1252)は、当時の僧侶を評してこのように仰っています。原文(古文)を現代語訳にしてご紹介します。

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もし世間の人が褒めたり喜んだりするなら、
たとえ仏道に背くと分かっていてもこれをしてしまう。
もし世間の人が褒めなかったり尊敬しなかったら、
たとえ正しい仏道だと分かっていてもこれをしない。
そのような僧侶は見るに忍びない。
恥を知るべきである。

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道元禅師が生きた時代(鎌倉時代)は、仏教が歪められ退廃した時代でもありました。檀信徒や権力者に媚びへつらい、人に良く思われたい、人気を集めたい、自分の地位を守りたいといったことを考える僧侶が多かった時代です。彼らに共通するのは、正しい仏道を探し求めることをやめて(修行を捨てて)自己流の仏道に満足している点です。常に人の顔色を伺って、相手が喜ぶことだけを言葉にします。中には人々の支持を得ていること、権力者に気に入られていることが即ち正しい仏道を歩んでいることだと考える輩もいたようです。こうした人々を道元禅師は厳しく諌めているのです。私は先の道元禅師のお言葉を自分なりに言い直して心に刻んでいます。

人々が称賛してくれるからといって
正しい仏道を歩んでいるとは限らない。
自分の快楽のために仏道を歪めてはならない。

生意気を言うようですが、これは私たち僧侶が肝に銘ずべきことだと思います。修行中の身ならば誰でもこの過ちを犯す可能性があるからです。私も例外ではありません。僧侶は時々過分な褒め言葉を頂くことがあります。若い頃の私はすっかり気を良くして天狗になってしまうことがありました。これだけ認めてもらっているのだから、自分は正しい仏道を歩んでいるのだと傲慢になることがありました。その挙句、自己流の仏道で満足し、気づきや学びのない生活に安住してしまうのです。今にして思えば恥ずかしいばかりです。ここまでひどくはないにしても、今でも小さな勘違いをすることがあります。耳に心地の良い言葉は、それを口にした人の心は清らかでも、聞いた人間の心を汚すことがあるのです。一番大切なことに用心しながら、お寺に来てくださる皆様と真実のお付き合いがしたいと願っております。

住職代理 無聖(むしょう)

仏門の安心感はどこから来るのでしょう

仏門には独特の居心地の良さがあります。何とも言えない安心感です。私は、この安心感はどこから来るのだろうと考えることがあります。正雲寺が静かな自然の中にあるからでしょうか。ご縁ある方々と善い関係を築けているからでしょうか。もちろんそれらもあるでしょうが、一番は、お釈迦様が私たちの心にある苦しみを決して否定しないからだと思います。

「そんなのは苦しみじゃない」「心が弱い」「現実から逃げている」。こういった言葉をよく耳にします。私も言われたことがあります。私はこのように否定されると、苦しんでいることが悪いことのように感じてしまいます。こうした言葉で傷つきたくないので、誰にも言わずにいようと思ってしまいます。皆さんはいかがでしょうか。苦しいのに苦しいと言えない。それがまた苦しみを深めます。しかし仏門では、苦しいことは苦しいと素直に言うことができます。お釈迦様は苦しみを否定する言葉は一言も言いません。ただ「よく来たね」と仰るのです。

このお言葉が示すように、仏門は昔から心に苦しみを抱く人や社会で生きづらさを感じている人を迎え入れて来ました。これは言い換えると、救いを必要としない人々には縁のない存在だということです。多少の苦しみはあるにせよ、自分の努力によって解決し、社会の一員として調和し幸福を感じられる人に仏門は必要のないものでした。仏門は、お釈迦様の時代から今日まで、自分で解決したくても解決できずに苦しんでいる人のためにあります。仏教を必要としていない人に仏教を強いることはないのです。

仏門に入門すれば、苦しみが魔法のように消えるわけではありません。お釈迦様のような偉大な先生がいて、手を取って導いてくれるわけではありません。仏門では、先輩と後輩の違いはあるにせよ、誰もが同じように苦しみを抱いて生きています。「お坊さんは苦しみとは無縁では?」と思われるかもしれませんが、それは大きな誤解です。お悟りになったお坊さんは別ですが、修行中のお坊さんなら誰でも苦しみと向き合っています。そもそも仏教の目的は苦しみを消すことにあるからです。ですから仏門に入門するとは、同じ目的を持った仲間と一緒に支え合いながら修行をするということです。一人で修行するよりは心強いはずです。

本当はできるのに力を出し惜しみしたり、面倒くさいなどと言って怠けたりする人は、何をやっても苦しみが消えることはありません。もしあなたが懸命に生きていて、それでも生きづらいと思うなら、私は現実から逃げてもいいと思います。その現実が本当に正しいものなのかを見直す時間が必要です。英気を養って再び社会に出ていくのか、それとも仏門に残って心の平和を求め続けるのか、新しい選択が訪れるのを待てばいいのです。こうした寛容さも仏門の安心感につながっているように思います。

会津本山 住職代理 無聖(むしょう)

人生の穴と向き合う

 人生には、ある日突然、思いがけず穴が開くことがあります。重い病気を患ったり、事故に遭ったり、大切な人を失ったりします。他人の無理解やひどい仕打ちで開く穴もあります。毎日の生活の中で私たちが経験する悲しいことや苦しいことがそうです。できることなら穴は開けたくありませんが、残念ながらそうはなりません。私たちは必ず開いてしまうこの穴に対してどうように向き合えばいいのでしょうか。

 穴の前では、茫然とする人、嘆き悲しむ人、腹を立てる人、自暴自棄になる人がいます。ありがたくも嬉しくもない穴ですから、気持ちが荒(すさ)んでしまうのは無理もありません。しかし他方では、気持ちが荒んでいくのを止めて、穴を見つめながら考える人もいます。その人は、荒んだ気持ちを長く持ち続けても、結局は自分の心と体をボロボロにするだけだと知っています。そして驚くことに、この思いがけず開いてしまった穴に顔を近づけて「穴が開く前には見えなかったけれど、こうして穴が開いたからこそ見える風景、今まで見たこともないような風景がきっと広がっているはずだ」と期待感を持って言うのです。その人は人並外れた忍耐力を持っているわけでも、底抜けの楽観主義者というわけでもありません。ただ一つの真実「すべての物事の意味は自分の心が作り出している」ということを知っていたのです。自分の心がけ次第でマイナスの意味付けもできるし、プラスの意味付けもできるということをです。

 先日、友人から手紙が届きました。その手紙には、友人のお母様が痴呆症のために、自分の名前も生い立ちも、これまでの人生の出来事もすべて忘れ去ってしまったようだと書かれてありました。私は、友人がお母様をとても大切に思っていることを知っていましたので、さぞ心中はお辛いことだろうと思いました。ところが手紙の最後には「日に日に心が軽くなっていく母を羨ましいと思うことがあります。色々と忘れてしまうことは神様からの最後の贈り物かもしれません」と書かれていました。なってしまった病いを恨み続けるのではなく、開いてしまった穴から、穴が開くまでは見えなかったものを見ようとする意思、穴が開いたことのプラスの意味を知ろうとする謙虚さが記されていました。おそらく友人はこの心がけによって、平穏な心でお母様と濃密な時間を過ごすことでしょう。

 物事の意味を決めるのは自分の心です。どんなに防御をしても、必ず開いてしまう穴です。生きていく中ではきっとたくさんの穴が開くことでしょう。それならば上手に付き合っていく方が良いに決まっています。自分を暗い気持ちにさせる意味より明るい気持ちにさせる意味を選ぶ方が賢明というものです。私たちはどちらも自由に選べるのですから。

 私たちは、何か事があるごとに神様や仏様にお願い事をします。「健康でありますように」「合格しますように」「成功しますように」といった具合にです。私たちはいつも「欲しいもの」をお願いします。しかし神仏が私たちにお授けになるのは「必要なもの」です。もしかすると、健康を願う人には病いを、合格を願う人に不合格を、成功を願う人には失敗をお授けになるかもしれません。そうだとすると、神仏はそれらが私たちに必要だと判断されたからです。悲しみや苦しみの中でさえ、その人が開いた穴から新しい風景を見ることができる人だと信じておられるのです。私は悲しい時や苦しい時は、この状況が今の私に必要なのだと思うようにしています。そしてこの状況の中で嘆き悲しむこと以外にどんな風景が見えるのか、私を人として成熟させるようなプラスの意味を探すようにしています。

住職代理 無聖(むしょう)