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護法山正雲寺 会津本山 > 最新情報 > 2024年

『修証義』第三十一節(最終節)

『修証義:しゅしょうぎ』は道元禅師(1200-1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつあります。私のその時々の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】

ここにいう諸仏とは釈迦牟尼仏のことです。釈迦牟尼仏は即心是仏です。過去現在未来の諸々の仏たちはみな、その身口意に釈迦牟尼仏を顕現しながら行持するのです。これが即心是仏ということです。即心是仏とは何者なのかをよく考えなさい。それが仏恩に報いることです。

【法話】

日本仏教は大乗仏教です。大乗仏教は、阿弥陀如来や薬師如来、観音菩薩や地蔵菩薩といった多くの仏菩薩を創作しました。それらは、釈迦牟尼仏の説く教えの内容が時々に応じて擬人化したものです。すべては、2500年前に実在した釈迦牟尼仏という一人の人間に帰一します。ところが、人々は創作された諸仏や諸菩薩を崇敬するあまり、肝心の釈迦牟尼仏を遠い存在にしてしまいました。こうしたことに対する反省もあったのでしょう。道元禅師は、この三十一節で「釈迦牟尼仏に戻ろう」と言っているのです。しかもそれは、姿を拝んだり、名前を唱えたりすることではなく、私たち自身が生身の人間として生きながら釈迦牟尼仏になろうというのです。このように言いますと、釈迦牟尼仏になるためには大変に厳しい修行が必要で、私たちのような凡夫には夢のようなことだと思いがちです。しかしそうではないと道元禅師は説きます。『修証義』の修証の字は、修(日々の修行)と証(仏としての証し)とに分けることができます。普通は、長い年月の修行の果てについに仏としての証しが現れると考えますが、道元禅師は、日々の修行と仏としての証しは一つであり同時であると考えます。日々修行をする私たちの心と体そのものが、その瞬間毎に仏としての証しを現しているのです。これを即心是仏といいます。つまりそれは、仏になることを目指すのではなく、只今この瞬間を仏として生きるということです。このことについて、曹洞宗大本山永平寺第七十八世貫首宮崎奕保(みやざきえきほ)禅師は、仏をまねることだとおっしゃっています。「一日真似れば一日の真似。二日真似れば二日の真似にすぎないが、一生真似ればそれは本物だ」と。最後に道元禅師は「あなたは即心是仏として今を生き切っているか?」と問うています。あなたは何と答えますか。

【あとがき】

第一節の現代語訳は、2016年7月のことでした。本日の最終節までに8年を費やしたことになります。初期は、若気の至りと申しますか、本当は分かっていないのに、分かったような気になって勢いで書きました。中期になると、ことの重大さに気づき書けなくなりました。そして後期は、少しずつではありますが、見えなかったものが見えるようになる喜びを感じながら書きました。もちろん十分ではありませんし、誤解も多いことでしょう。それでも、私にとっては十分過ぎるほど充実した作業となりました。私は、編纂の趣旨こそ違えど、『修証義』は『正法眼蔵』への入口だと思っています。今後は、この作業と並行しながら『正法眼蔵』をじっくりと読ませていただこうと思います。長きにわたりお付き合いくださり、誠にありがとうございました。

住職代理 無聖(むしょう)

もどき

「お前たちはもどきだ」

その昔、私たち若い修行僧は無学老師からこう言われて叱られたことがあります。「もどき」とは、にせもの、似て非なるものという意味です。「お前たちは僧侶を名乗りながら僧侶にあるまじきことをしている。にせもの僧侶だ」というわけです。その言葉に私はずいぶんショックを受けました。無学老師は修行僧の未熟を温かく見守ってくれる人でしたが、それは私たちが少しづつでも努力している時だけです。わずかでも修行を怠ければ、それを決して許さない厳しさがありました。昔のことですが、今でもその時の不動明王のような老師の顔が目に浮かびます。

そこまで老師を怒らせたのは、私たちの生活態度があまりにも仏道修行からかけ離れていたからです。見た目は僧侶でも実態はお粗末でした。つまらないことで言い争ったり、妄想で他人を誹謗したり、愚痴を言い合ったりしました。ある者は怒って暴言を吐き、ある者は慢心に走り、またある者は酒を飲みました。すぐにあきらめる者、自分の考えに固執し人の意見を受け入れない者、仏法をそしる者さえいました。今思えば、仏門にいてはならない者たちです。すべてが戒律に反しています。若い修行僧には仏道に対する漠然としたあこがれはあっても、実際にそれが何であるかを理解する力はありませんでした。それが分かるには時間がかかります。仏門では「若い」ということは「愚か」ということなのです。年を重ねて少しはましになったものの、ちょっと前まではひどいものだったのです。それ以来ずっと「もどき」という言葉は私の心に深く刻まれたままです。そこから抜け出すことは私の大きな課題になりました。

髪を落として袈裟をまとえば見た目は僧侶です。人は私を僧侶と呼ぶでしょう。しかし大切なのは私が私のことを僧侶と呼べるかどうかです。私のすることとしないことを知っているのは私だけです。誰も見ていないところで私が何を思い何をしているのかを知っているのは私だけなのです。善いことも悪いことも全てです。その私が自分で自分のことを僧侶と呼べるか。仏道はそれほど甘くはありません。仏の弟子を名乗るのは簡単なことではありません。ではいったい今の私は何者なのか? 実のところ、僧侶にもなれず、もどきにもなれない中途半端なハゲ頭といったところでしょう。真実はいつも私の思いの外にあります。

住職代理 無聖(むしょう)

在家得度について

在家得度をした者は、仏の教えを生きるための指針とし、仏教に則った生活態度で社会生活を営むことになります。剃髪(ていはつ:髪をすべてそり落とすこと)して袈裟(けさ)をまとい寺に住む出家得度者とは違い、在家得度者は有髪のまま家に留まり、家庭を持ち仕事に従事します。今回は在家得度についてご紹介します。

古来、仏教教団を構成する人々は、次の四つのグループに分けられます。第一は、男性の出家者(比丘:びく)で構成されたグループです。第二は、女性の出家者(比丘尼:びくに)、第三は、在家の男性信者(優婆塞:うばそく)、そして第四は、在家の女性信者(優婆夷:うばい)です。これら四つのグループを総称して「四衆:ししゅ」といいます。仏教教団はこの四衆によって構成され支えられています。釈尊の存命時は、四衆は一律に仏弟子として尊ばれていました。優婆塞と優婆夷は、主に比丘と比丘尼の衣食住を支える役割を担いましたが、中には非常に智慧の勝れた人々もおり、出家者に先んじて覚りを開く者もありました。一概に四衆を優劣で語ることはできません。さて、この四衆のうち、優婆塞と優婆夷になることが、いわゆる在家得度です。

大乗仏教を奉ずる正雲寺では、在家得度を望む者に対して、儀式(授戒会:じゅかいえ)を開き、その中で十六条の戒〔仏教信者が守るべき行動規範〕と法名を授けています。また、この授戒会に先立ち、過去に犯した罪について告白し懺悔(さんげ)をします。戒と法名を授かった後は、仏弟子ならびに正雲寺門弟の自覚をもって生涯にわたり仏道修行に努力精進することになります。十六条の戒は以下の通りです。

  1. 私は仏に帰依します。
  2. 私は法に帰依します。
  3. 私は僧(教団)に帰依します。
  4. 私は清らかな心を持ち、悪い行いをしません。
  5. 私は清らかな心を持ち、善い行いをします。
  6. 私は清らかな心を持ち、人のために尽くします。
  7. 私は命あるものをことさらに殺しません。
  8. 私は人のものを盗みません。
  9. 私は道に反する愛欲を持ちません。
  10. 私は嘘を言いません。
  11. 私は酒を飲みません。
  12. 私は人の過ちを責めません。
  13. 私は自慢したり人の悪口を言いません。
  14. 私は物でも心でも惜しまず人に施します。
  15. 私は怒りません。
  16. 私は三宝を謗りません。

 

授戒会では、この十六条戒を守ることを仏と師僧の前で誓います。1から3は、仏法僧(ぶっぽうそう〔仏:釈尊 法:釈尊の説く教え 僧:その教えを奉ずる教団〕)の三宝(さんぼう)に帰依することです。この三宝帰依を土台にして後の十三条戒があります。特に重要な戒は7です。これを不殺生戒(ふせっしょうかい)といいます。仏弟子は命あるものを殺してはいけません。しかし現実には、私たちは食事のために殺された肉を食べ、外を歩けば小さな虫を踏み殺し、蚊やハエを害虫として殺します。すでに戒を破っているのです。私たちにできることは、その罪深さを常に自覚することです。そして細心の注意を払いながら殺生を最小限にとどめ、それ以上の罪を犯さないことです。「ことさら」とあるのはそのためです。意味もなく、また楽しみのために殺してはいけません。授戒した後、日々の生活においては、以下の三つを修行の要とします。

  1. 心と言葉と行いの三つにおいて十六条戒を破らないように注意する。
  2. 仏の智慧を学ぶ。
  3. 坐禅によって仏の智慧を黙想する。

 

正雲寺では、在家得度を望む方に授戒会を執り行っております。随時ご相談ください。

住職代理 無聖(むしょう)

 

私がおすすめしたい仏教聖典

仏教に関する入門書や解説書はたくさん出版されています。以前、このブログでも、私が愛読していた入門書をご紹介しました。しかし最近になって私は、一番大切な本をご紹介していないことに気づきました。私にとっては、その存在は当たり前すぎて、ことさらに注目する気持ちが起きなかったのです。思えば、人からおすすめの本を尋ねられた時には必ず筆頭にあげる本です。その本とは『ダンマパダ』です。

キリスト教には『新約聖書』、イスラム教には『コーラン』があるように、仏教には『ダンマパダ』があります。これはブッダの言行録です。この本に収録されている言葉は、生前のブッダの言葉に近いと言われています。残念ながら、ブッダの死後に後代の人々によって加筆された痕跡もあり、純粋にブッダの生の声だけが収録されているわけではありません。その選別作業は仏教学者によって現在も進行中ですが、ともかく、ブッダ在世の時代に近いというだけで聖典としての価値を十分に保っています。他にも有名な仏教聖典に『スッタニパータ』があります。こちらの方が『ダンマパダ』よりもさらに時代が古いと言われていますが、その内容には難解な部分も多く含まれています。初学者にも読みやすいという点を考慮して、今回は『ダンマパダ』をご紹介しました。さらに意欲のある方はぜひ『スッタニパータ』もご覧になってください。

『ダンマパダ』の冒頭部分をご紹介します。一番最初の教えが「心」であることに注目してください。神様のような、手の届かない絶対的な存在ではなく、その気になればいくらでも手が届く私たち一人ひとりの心がこの本の主役なのです。

第一章第一節
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。車を引く牛の足跡に車輪がついて行くように。
第一章第二節
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。影がそのからだから離れないように。

住職代理 無聖(むしょう)

『修証義』第30節

『修証義:しゅしょうぎ』は道元禅師(1200-1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつあります。私のその時々の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】

月日は射られた矢よりも速く過ぎ去り、人の命は葉に落ちた露(つゆ)よりも脆(もろ)いのです。どんな手を使っても過ぎた日を取り戻すことはできません。欲望の赴くままに百年を生きるのは虚しいばかりです。ただ生きているというだけの憐れむべき骨肉でしかりません。しかし、たとえ百年を欲望の奴隷として生きたとしても、その中のたった一日でも行持したならば、その百年を行持したことと同じなのです。それどころか、来世の百年までも行持することになります。その一日の身命は、尊ぶべき命であり、尊ぶべき骨肉です。そのようなことができる私の身心なのですから、自分を大切にして、自分を敬うべきなのです。私たちが行持することによって、過去の諸仏の行持が実証され、諸仏の歩んだ道が私たちの目の前に開かれるのです。そうして、私たちの行持は未来の諸仏の種となり、未来の諸仏の行持となるのです。

【法話】

お釈迦さまの言葉にこうあります。「怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、堅固につとめ励んで一日生きる方がすぐれている」。「怠りなまけて、気力もなく生きる」とは、つまり、欲望の赴くままに自分の利益のためだけに生きるということです。これは道元禅師の言う「憐れむべき骨肉」です。真の人間ではなく、欲望が骨と肉をまとっているに過ぎないというわけです。しかしもし、自分が欲望の奴隷であることを自覚し、そこから抜け出そうと励むなら、過去の諸仏たちが歩んだ同じ道を歩んでいるのです。それは正しくかけがえのない精進です。そこに至って私たちの身命は「憐れむべき骨肉」から「尊ぶべき骨肉」となります。過去、現在、未来の三世の中心は、今日一日を行持する今の私です。これをお釈迦さまは【天上天下唯我独尊】と言い表しました。過去を悔やみ、未来に思い煩うことなく、欲望の奴隷とならずに今日の一日を報謝と利他に捧げましょう。

住職代理 無聖(むしょう)

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【天上天下唯我独尊】
「てんじょうてんげゆいがどくそん」。お釈迦さまは、生まれてすぐに立ち上がり、天と地を指差しこのように語ったといいます(伝説)。「天にも地にも私一人が尊いのだ」と宣言したとも解釈できますが、釈尊一人のことではなく「私たち一人ひとりが尊い存在となりうるのだ」とも解釈できます。道元禅師は後者であると確信されていたのでしょう。その思いがこの第30節に集約されています。

アミ子は反抗期?

飼い主によると寺猫アミ子は「マックス反抗期」だそうです。ところが私の部屋に来るとただの甘えん坊になります。子猫の時、私がよく一緒に遊んだからだと思います。飼い主はその温度差といいますか、態度の豹変ぶりにやきもきしているようです。でも実は飼い主も知らないアミ子の別の姿があるのです。アミ子は、飼い主が家に戻ってくる時は、飼い主が家に入る前から足音を聞き分けて玄関でお迎えします。私と楽しく遊んでいる時でも飼い主の声や足音を遠くに聞くと耳を立ててソワソワし始めます。そして見えない飼い主の動きを耳でずっと追っています。そんな時は目の前の私などまったく眼中にないのです。飼い主が外泊をする時は、帰ってこない飼い主を夜遅くまで玄関で待っています。「今日は帰って来ないよ」と私が教えても待つのをやまめません。朝も早くから玄関で待っています。私にべったり甘えているようでもアミ子が本当に大好きなのは飼い主なのです。あちこちにおしっこをしたり、すぐに怒ったり、なんでも自分の思い通りにしたがるわがままアミ子ですが、飼い主を思う情の深さはワンコにも負けません。こんな子の飼い主でいられて幸せだと思います。

住職代理 無聖(むしょう)

問い:人助けをするには?

答え:まずは身近な人を助けることです。

ある男性が「私は人助けがしたいです。宮沢賢治の『雨ニモマケズ』のような生き方がしたいです」と言いました。ところが話を聞いているうちに、彼が問題を抱えていることを知りました。それは老いた母親と口論になることが多く、時には母親に対して暴力を振るうことがあるというのです。自尊心が強く利他の心を持たない母親を恥ずかしく思っているとのことでした。彼の志は彼にとっては災いとなっていました。自分が理想を求める一方で、その理想に反する他人を許せなくなっていたのです。話の最後に私はこう尋ねました。「身近な人さえ助けられない者が他人を助けることができますか」と。そもそもどんな理由であれ相手が誰であれ人に暴力を振るうような者は人助けを語る資格はないでしょう。このような話はこの男性に限りません。一方で理想を語りながら、他方では理想と矛盾することを自ら行っている人は多いのです。この男性も人を助けたいと言いながら人に暴力を振るい、人を蔑(さげす)んでいます。人助けは相手を選ぶことではありません。身近な人には辛く当たり、遠くの他人には優しくするというのは矛盾しています。『雨ニモマケズ』を愛読するなら、主人公「サウイフモノ」も相手を選んでいないこと、自分が蔑まれても人を蔑まないということを読み取らなければなりません。かつて無学老師は「親孝行ができない者は利他を語るな」と厳しく言われたことがあります。人助けと言うなら、母親に対しても他人に対しても同等にすべきです。自尊心が強く利他の心を持たない老母を正しい道に導くことも人助けです。その努力ができて初めて他人にも目を向けることができます。

住職代理 無聖(むしょう)

ペット納骨壇をご利用の皆様へ

お供え物(食べ物)についてのお願いです。

正雲寺周辺にはたくさんの野生動物が暮らしております。時々、ネズミ、猫、ハクビシン、たぬき、カラス等がやって来てお供物に手をつけて食べ散らかすことがあります。お寺は殺生禁止の聖域ですし、彼らも一所懸命に生きていることを考えますと無慈悲に駆除することはできません。そこで皆様には缶、ビン、ペットボトル以外の入れ物に入ったフードをお供えしないようにご協力をお願いいたします。ドライフードなどはビンに詰め替えてお供えください。紙パックの飲み物やアルミパックのウェットフードは簡単に食い破られてしまいますのでお供えをご遠慮ください。ご不便をおかけいたしますがご理解とご協力をお願い申しあげます。

● お供えできるもの
缶、ガラス瓶、ペットボトルに入ったもの

● お供えできないもの
紙袋、ビニール袋、プラスチック容器、アルミパック、紙パックに入ったもの

『修証義』第29節

『修証義:しゅしょうぎ』は道元禅師(1200-1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつあります。私のその時々の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】

仏祖の恩に報いるには、日々の修行をおいて他に正しい道ありません。つまりそれは、毎日をいいかげんな気持ちで過ごさず、私利私欲に走らず、途中で修行を投げ出さないということです。

【法話】

【仏祖(ぶっそ)】の恩に報いるというと、お供え物をしたり冥福を祈ったりすることだと思うかもしれませんがそうではありません。道元禅師は私たちが仏祖と同じように仏の教えを実践することだとおっしゃっているのです。「自慢話や人の悪口を言ってはならない」という教えがあるのですから、それを毎日実践することです。また「怒ってはならない」という教えもあるのですから決して怒らないことです。見返りを求めずに他人に奉仕したり、優しい言葉で他人を喜ばせることも教えの実践です。修行は苦しいかもしれません。怒りたい人にとっては怒れないのが苦しいでしょうし、損得で考える人にとっては無償の奉仕が苦しいでしょう。いずれも忍耐が必要だからです。その苦しみをあえて受け入れて途中で投げ出さないで続けるのです。私たち【修行者(しゅぎょうしゃ)】が目指しているのは【涅槃(ねはん)】の境地です。やすやすと手に入るものではありません。

住職代理 無聖(むしょう)

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【仏祖】
仏教の開祖であるお釈迦さまとその教えを2500年間忠実に継承してきた高徳の僧侶たち。
【修行者】
ここでいう修行者とは在家者と出家者の区別なく、仏の教えを生活の指針にしているすべての人をいいます。
【涅槃】
迷いや悩みを離れた安らぎの境地。心がどのようなことにも揺るがず常に静けさを保っている状態。

学ぶ人と学ばない人

ある友人から「亡き無学老師の言葉をもっと聞かせてほしい」とお話がありました。ありがたいことです。老師の言葉を紹介するのは私の学びでもあります。このブログでいくつか紹介してまいりましたが、今後はもっと積極的に書き残したいと思っております。4月は多くの人にとって新生活が始まる時でもありますので、それに相応しいお話をしたいと思います。

「学んでいる人は心が自由で柔らかい」
「学ばない人は心が狭くて頑(かたく)なだ」

修行僧にとっての学びとは、単に仏教を知識として習得するだけではありません。仏教の実践こそが学びの本質です。では実践とは何でしょうか。私は、日々汚れていく自分の心をきれいにすることだと理解しています。その方法は経典にいくつも明記されておりますが、今お話ししたいのはその一つ一つではなく、学びの態度についてです。その態度とは、今に立ち止まらないということです。常に流れていると言いましょうか、何かに固執してしがみつかないことです。他人のすることやしないことなどには目もくれず、自分のすることやしないことにのみ集中します。いつも自分の汚れた心を観察します。お釈迦さまや偉大な仏弟子たちの教えを学んでいますから、自分が彼らと比べてどれだけ愚かなのかがよく見えるはずです。このような人は何事に対しても謙虚であり慎重です。そうならざるを得ないのです。このような態度の人は「向上に努める人」であると経典に書かれております。自分を卑下したり自分の命を軽んじるようなことはありません。成長は遅いかもしれませんが、確実に向上の道を進んでいることを知っているからです。むしろ安心と喜びと共にあるといっていいでしょう。老師はそのような態度を「自由で柔らかい」と表現しました。一方で学んでいない人は停滞しています。自分の愚かさを顧みないので改善と成長の道が閉ざされています。これでは可能性を秘めた未来の自分を信じることはできません。今の自分を守ることに精一杯なのです。「狭くて頑な」と思われてもしかたがありません。

今が愚かでも構いません。それを自覚できるのは素晴らしいことです。決して恥ずかしいことではありません。自分の愚かさを自覚した人だけが向上に努めることができます。未来の自分へと道が開けるのです。今の自分に安住せず、はるかに成長した未来の自分を信じて前進してください。年老いて心が狭く頑なになっていく人は大勢います。ある時自分でそのことに気づき悩み苦しみます。私はこれまでそのような人にたくさん出会ってきました。その度に「遅くはありません。今からでも本気で自分を変える努力をしてください」と申し上げています。自分の過ちに気づき、変わる努力をするのに年齢は関係ありません。しかし若いうちに気づくことができれば、もっと早くに幸せに近づくことができたろうと思います。

「今学んでも役に立つのはせいぜい10年後だぞ」
「焦らんでもいい。着実にやりなさい」

無学老師の口癖です。知識だけでは人生の役に立ちません。知識は自分の血や肉となって初めて役に立つのです。しかしそれには時間がかかります。「焦らずにやりなさい」という老師の言葉の裏に私はいつも「一刻も早く」という老婆心を感じていました。皆様におかれましては、焦らずに、しかし一刻も早く「学ぶ人」になっていただきたいと思います。

住職代理 無聖(むしょう)