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『仏遺教経』1

お釈迦さまの最後の説法をご紹介します。八十年の生涯を、今まさに閉じようとしている時に、弟子たちに残した最後の教え、いわば遺言です。『仏垂般涅槃略説教誡経(ぶっしはつねはんりゃくせっきょうかいきょう)』といいます。『仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)』ともいいます。現代語訳ですが、原意にそって忠実に訳すことはせず、全体の意味をとって意訳することにしました。あくまで日常生活での実践に役立てていただきたいからです。文言の研究や思弁で終わらせず、自ら実践し、それによって福楽を得るところまで体験していただきたいと思います。主に出家者に向けた教えですが、部分的には在家者にも十分に届く内容です。

【現代語訳】
お釈迦さまは、最初の説法の時にはアンニャーシ・コンダンニャを悟らせ、最後の説法ではスバッダを悟らせました。このように、そのご生涯において、ゆかりある者をことごとく悟らせ、すべてをなし終えた今、沙羅双樹の間に静かに横たわり、最後の時を迎えようとしておられました。その夜は、ひっそりとして寂しく、あたりは静まり返っておりました。お釈迦さまは、傍らの弟子たちに、教えの要を簡潔にお説きになりました。
「弟子たちよ、私の死後は、戒律を守り保ちなさい。戒律は、暗闇を行く人にとっては灯火であり、貧しい人にとっては財宝です。私の死後は、戒律こそが、あなた方の先生であることを忘れてはいけない。たとえ私がこのまま生きながらえたとしても、戒律があなた方の先生であることに変わりはありません。戒律を守り保つ出家者は、物品の販売や交易といった商いに携わってはいけません。また、田畑や家を所有したり、召使いを雇ったり、動物を飼ってもいけません。出家者は財産を持たず、人も動物も所有しないことです。人が燃え盛る炎を遠ざけるように、それらとは距離を置きなさい。草木を伐採し、土を耕して、生き物を傷つけてはいけません。薬を調合して人に売ったり、吉凶を占ったり、星占いをしたり、月の満ち欠けを測って日取りを決めるようなことをしてはいけません。それらすべては、悟りに資するものではないからです。欲を抑えてつつしみ、食事は午前中のみとし、適量を守って、清らかに生活しなさい。世間のことに関わったり、仲介をしたり、まじない事をしたり、長寿のための薬を調合したり、地位の高い人々と親しく交際してはいけません。これらもすべて、悟りの役には立ちません。心を奮い立たせて邪念から離れ、悟りを求めなさい。自分の罪過を隠して、私の教えではないことを語って、人々を惑わせてはいけません。私たちが受け取る四つの供養(飲食・衣服・寝具・医薬)については、必要量を心得て、多くを求めてはいけません。ましてや蓄えるようなことをしてはいけません。以上のことが、戒律を守り保つことの要点です。
戒律を守り保つことは、最も大切な生活目標であり、苦しみから脱け出すための根本の方法です。戒律を拠り所とすれば、心の安らぎと苦しみを滅ぼす智慧を得ることができます。それゆえに、弟子たちよ、清らかな戒律を守り保って、これらを破らないようにしなさい。戒律を守り保つ者には、先に述べた善い功徳があります。しかし、戒律を破る者からは、すべての功徳が離れていきます。ゆえに忘れずにいなさい。戒律を守り保つことは、大安心の境地を得るための第一の方法なのです」

無聖(むしょう)より
2月15日は、お釈迦様が亡くなられた日です。お寺では、涅槃会(ねはんえ)という法要を営みます。正雲寺では、この『仏遺教経』を誦むことにしております。私はこの経典を誦みながら、「しまった!」と思いました。恥ずかしいことですが、このお経について、しっかりと理解していないことに気づいたのです。そこで、今の私の理解力で、どこまでこの教えを読み解くことができるのかを試してみたいと思いました。このブログはそのためのものです。今後も数回にわたり連載いたします。誤訳も多々あるでしょうが、どうかお許しください。なお、訳中の「悟り」は、「すべての苦しみがなくなった大安心の境地」というほどの意味で使用しました。また、本来は「戒」のみですが、耳慣れないため、「戒律」としました。

問い:生きていく上で大切なことは何ですか。

私がかつてそうであったように、若いあなたには理解できないかもしれません。しかし、私はあなたに自信をもって言うことができます。もしも心の根っこに「感謝」がなかったら、あなたの人生はとてもつまらないものになります。今はわからなくても、「感謝の心を土台にして充実した人生が築かれる」ということを知識として持っていてください。いずれ、それが本当だと気づく日が来ます。できれば、若いうちに気づけるといいのですが。

おそらくこの世の中で、感謝の心なしに成功している人はいないでしょう。先日、ある実業家にお会いしました。その方は、世界を相手にして、地位と名声と富を得た、いわゆる成功者です。私が「生きていく上で大切なことは何ですか」とお尋ねすると、その人は、即座に「どのような生き方をしようとも、感謝がベースにあることです」と答えました。

「ありがとう」とは、「有り難い」、「あり得ない」という意味です。損得勘定ばかりの世の中で、あなたには、見返りを求めず、ただ善意だけで、あなたを助けてくれる人がいますか。その人は、「有り難く、あり得ない」ほど貴重な人です。そのような人に接した時には、感謝せずにはいられないという気持ちが自然に湧き起こるようでなければなりません。そうならないなら、それはたんにあなたが人として未熟であり、愚かというだけです。誰でも、かつては未熟で愚かでしたが、人生の苦しみを経験し、もがきながら乗り越えていくことで成熟し、人と人との関係は、良くも悪くもあり得ないことだと実感し、学び、そして本当の「ありがとう」を会得するのです。言葉だけの薄っぺらい「ありがとう」とは違います。

あなたが正しく努力しているなら、人生の途中で人を恨むことになっても、また人から恨まれることになっても、やがては、その人に感謝する日が来ます。恥ずかしい話ですが、私は、若い頃、父親を恨んでおりました。二十年以上も父親とは絶交状態でした。そういうわけですから、私は若い頃から家族をあてにせずに、一人で生きていくことを考えていました。父親への反抗心が私の独立心を養ってくれたのです。もちろん、親の助言がありませんから、色々と間違いも犯しました。しかし今となっては、その間違いも良い人生経験です。決して良い親子関係とは言えませんが、その延長線上にしか今の私の仏道はなかったと思います。今私が感じている、仏門で生きることの幸福を思えば、恨みの対象であった父親は、実は大恩人であったということになります。また、私は人から恨まれることもありました。自分では、恨みを買うようなことはしていないと思っていても、相手の怒りはおさまりません。私から見れば理不尽だと思えることも、相手からして見れば確かな理由があるのです。人は、自分の思いたいように思いがちです。私は、人と人とが和合する素晴らしさを知りつつも、同時に人間関係を簡単に壊してしまう自我の悪質さを痛感しました。この学びは私の宝なのです。たとえ恨み恨まれることがあっても、それは正しい学びとなって自分を成熟させ、幸せを得るための種になり得ます。そうであれば、その人はもはや大恩人です。

楽しい思いをした時はもちろんのこと、苦しい思いをした時でさえも、感謝の心を持つことができます。結局は、幸せと不幸せ、楽しみと苦しみの間で生きる人間は誰でも、感謝の心一つに帰着するのです。その気づきに早い遅いはあっても、帰るところは一つです。逆説的ですが、心の根っこに「感謝」があるということは、正しく努力して、正しく生きている証しとも言えます。

あなたのおかげで、年の始まりに「感謝」について書くことができました。私にとって善いスタートになりました。ありがとう。

住職代理 無聖(むしょう)

怨(うら)みから離れる

先日、「母親を怨んでいる」と言う六十過ぎの人と話をしました。その人が負った数々の苦しみを聞いて、私は同情する気持ちになりましたが、他方では、「六十も過ぎているというのに、人を怨んだり怒ったりすることに何の意味があるのか」と考えていました。この人ばかりではありません。程度の差こそあれ、相談に来られる人の多くが、怨みの心を持っています。宗教は「怨みを捨てよ」と説きます。しかし、信仰をもってしても、この世から怨みの心は無くなりません。家族が怨み合うのなら、その先にある民族や国家が怨み合うのも当然です。悲しいことですが、これが人間の現実です。

「人は、人を怨むためにこの世に生まれてきたわけではない」

無学老師が臨終で語った言葉です。私は老師の口から怨みの言葉を聞いたことがありません。老師は波乱の人生を送った人ですから、怨み怨まれることもあったでしょう。その老師がこの言葉を残したのには理由があったと思います。もしかすると、老師自身も心の奥底に捨てきれない怨みがあり、その心と闘い続けていたのかもしれません。私はまもなく還暦を迎えますが、最近になってやっと老師の言葉を理解するようになりました。人生の意義や残された余生を否応なく考える時、怨みや怒りで費やす時間がいかに無駄であったかと気づくのです。私はこんなことをするために生まれてきたのではないのだと。

私は、若いころ、父親を怨んでいました。父親の人生哲学に馴染めず、二十年間も反抗して関係を断っていました。その後、紆余曲折があって父と再会し、父子の関係を修復しようと努めましたが、その最中に父は亡くなりました。親不孝もそうですが、二十年間も怨みの心を持ち続けたことを、私は今後悔しています。怨みは心を汚します。自分でも気づかないうちにです。怨みの心を持つ人は、清らかな心、清らかな言葉、清らかな行動が作り出す清らかな世界を知らないまま汚れた世界を生きることになります。それも、自分が世界を汚しているという自覚のないままにです。お釈迦様は「心を清らかに保て」と説きます。心が清らかなら住む世界も清らかになると。そのような美しい世界があるとも知らず、私は、この有限の人生の中で、長い年月、時間を無駄にしたのだと思います。そんな私から怨みの心を持つ人にお伝えしたいのは、「怨みから離れる」ということです。

怨みを完全に捨てられるなら、それが最善です。しかし、私がそうであるように、愚かな人はそれができません。そこで、私が実践していることをお伝えします。捨てられないなら、離れる時間を多くするのです。そのためには、心の中にたくさんの引き出しを持つといいでしょう。昔、お医者様が使っていた「薬だんす」のようにです。

引き出しの一つに「怨み」とラベルしておきます。大切なのは、この引き出しを開けないことです。引き出しを二、三しか持っていなかったら、頻繁に開けて中身を見ることになりますが、引き出しを何十も持っていれば、開ける時間が少なくなります。時には開けることすら忘れてしまうでしょう。このようにして、怨みと共存しながら、怨みから離れる時間を多くし、やがて怨みを捨てられる日が来るのを信じて待つのです。その間に、「怨み」とは何かを明らかにしてくれる真実の教えを学ぶのです。未来の成熟した自分が怨みの根を断ってくれます。その時、武器になるのは「感謝」です。しかし、これを真の武器にするまでには長い時間がかかります。私たちが知る日常的な「感謝」とは違います。苦しみを他人のせいにせず、因果の道理をわきまえ、それらを保つ人だけが獲得できる本物の「感謝」です。この「感謝」を獲得するまでは、怨みは引き出しに閉まっておくことです。引き出しを開けたままにすると、怨みの心、怨みの言葉、怨みの行動に支配され、怨みの世界を生きることになります。それは修羅地獄というものです。怨みが持つ悪のエネルギーを軽く見ずに、厳重に管理しなければなりません。

私たちは、人を怨むためにこの世に生まれてきたのではありません。因果の道理のもとで、自ら幸福になり、他人をも幸福にして、善の因果を未来の命に繋げるために生まれてきたのです。生きとし生けるものは、自を利して他を利しながら生きています。これが自然の営みです。人を怨むことは、自を害して他を害することです。わざわざ営みに反して不自然な生き方をする必要はありません。不自然な生き方はどこかで必ず破綻するものです。

住職代理 無聖(むしょう)

ペットを供養するということ

正雲寺では、ペットの供養をしています。お葬式をして、火葬をして、お骨を拾います。深い悲しみの中で、大切な家族を送る様子はとても厳粛です。人のお葬式と違いはありません。ペットを抱きしめる人、横たわるペットを優しく撫でる人、どの人の目にも涙があふれています。室内は感謝と優しさで満たされます。一部には「動物に対してそこまで必要か?」という意見があります。しかし、その様子を傍らで見ていると、そのような疑問は意味がないことがわかります。その場には、ただ「ありがとう」の心だけがあります。ペットの供養は、その心が形になったに過ぎません。この時、私たちが抱く「ありがとう」の心は純粋です。誰も損得を計算しません。ペットがくれた幸せ、見返りを求めない無垢な姿に、私たちは素直に喜びそして感動し、自然に感謝の心を抱くのです。

自分の中に、純粋な「ありがとう」の心があることを誇りに思いましょう。たとえペットにしか言えない「ありがとう」でも大丈夫です。相手が何であれ、純粋な感謝は私たちの大切な財産です。その心がどの場面でも最悪を回避してくれます。恨みや怒りに心を占領された時でも、自分の心のどこかに感謝があることを思い出してください。自分が恨みや怒りだけの人間ではないことを証明してください。もしその努力を怠ると、人は悪魔にも鬼にもなるのです。ペットとともに生きることは、心の浄化そのものです。悪に立ち向かう善を醸成することができます。そのことを、私たちはぼんやりと気づいていますが、確かな学びにはしていません。ペットの供養は、そのことに気づく良い機会です。

住職代理 無聖(むしょう)

私の知足(ちそく)

正雲寺には、私が宝物だと思っているものが三つあります。一つ目は、寺を囲む自然です。自然は容赦がなく、生活するには厳しいこともあります。それでも、四季の彩りは美しく、山や谷をわたる風は清らかで、心が洗われる思いがします。ここには昆虫や鳥獣たちのありのままの生活があり、山々に重なって響く彼らの鳴き声が、静寂の意味を教えてくれます。二つ目は、志しを同じくする同胞と一匹の犬と四匹の猫たちです。仏道は、自分の心と向き合うことです。大きな安心につながる修行ですが、同時に忍耐といった困難をともないます。そんな時、心の支えになってくれるのがかれらです。三つ目は、仏の冥助(みょうじょ)です。正雲寺が困った時には、いつも何かが助けてくれます。それは仏の智慧であったり、時には人やお金であったりもします。私は、本当に困った時に現れる目には見えない仏の助力だと思っています。

世間でいう富や快楽はありませんが、私なりの幸せを実感することができます。午前中は自分のできる範囲の利他行に努め、午後には体を使って労働し、夕刻になると健康に配慮された食事をとり、晩には愛猫トモと一緒に仏教の勉強をします。布団に入れば、眠りにつくのに3分とかかりません。単純ですが、充実した毎日です。三つの宝物のおかげです、しかし、その宝物も、仏の智慧を除けば、はかなくもろいのです。それをよく心に留めながら、眼前の宝物に執着することなく、ありがたく受け取ろうと思います。

住職代理 無聖(むしょう)

心の平和

かつて、無学老師は「心が平和でない者は、人の心を平和にすることはできない」と言いました。たとえば、海の中で溺れている人がいるとします。その人は助かりたい一心で必死にもがいています。そしてまた、そのすぐ隣りに、同じように溺れて必死にもがいている人がいるとします。この場合、片方の人はもう片方の人を助けることができるでしょうか。おそらくそれはできないでしょう。それぞれが、自分のことで精一杯だからです。ではいったい誰が溺れる人を助けることができるでしょうか。それは、頑丈な船、つまり十分に安定した船に乗っている人だけが助けることができるのです。これと同じことが、私たちの心にも言えます。老師のいう心の平和とは、人を助けるために、心が十分に安定しているということです。当たり前のことなのに、この当たり前のことが、度々おろそかになりがちです。老師は「まずは自分をととのえなさい。人助けはそれからだ」とも言いました。利他を重視するあまり自利をおろそかにしてはならないのです。「人の役に立ちたい。人を幸せにしたい」という意気込みを聞くことがあります。そのような志しを実現しようと思うなら、それにふさわしい心を持たなければなりません。もしも、簡単に心を乱したり、悪い心を起こすようなら、それは程遠いといえるでしょう。

心の平和、心の安定、自分をととのえる、それぞれ表現は違いますが、私たちがなすべきことは一つです。それは自分を知ることです。もしあなたの心が平和ではないのなら、その原因を他人にでなはく、自分の中に探ることです。その作業は、主観を除いた客観的分析でなければなりません。人は誰でも自分をひいき目に見るからです。最初期の仏典には、この客観的分析が多く記されています。独善や感情を除いた極めて冷静な分析です。難しいですが、ひと通りご紹介します。探究心のある方はご自分で紐解いてみてください。人間一人の存在は、肉体の要素1と精神作用の要素4の合計五つの要素に分解されます。すなわち、色・受・想・行・識です。色(しき)は人間の肉体を指し、受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)は人間の精神作用を指します。肉体の要素はただ一つなのに、精神作用の要素が四つも存在する理由は、人間の精神がそれだけ複雑だからです。そしてここからがたいへん重要な分析です。釈尊は、これらの五つの要素はそれぞれ無常であると説きました。そして無常であるから苦であり、苦であるから無我でり、無我であるから、これはわが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない、と説きました。そして最後に、この正しい智慧によってありのままに観察し、五つの要素に執着することを止めよと言ったのです。そうすれば心の平和が得られると。自分を知るとは、私たち人間も他の万物と同じように移ろい変わる存在であり、執着しても意味がないと知ることです。執着とは、移ろい変わるものに対して変わらぬことを望むことです。望んでもそれが叶うことはありません。そこに苦が生じるのです。歳をとりたくない、死にたくないと願っても、私たちは必ず歳をとり、死に至ります。その移ろい変わりを止めることは誰にもできません。

私は、この教えを聞いた時「釈尊は、肉体の活動、精神の働きによって成される人としての向上をあきらめよと言っているのだろうか。それは虚しいことではないか」と思いました。しかしそれは浅はかでした。釈尊は、執着するのを止めよと言ったのです。肉体の活動と精神の働きを否定しているのではありません。それらは、私たちの執著する心によって営まれるのではなく、正しい智慧のみによって営まれるべきであると、そのように説いているのだと思います。対象に執著する心を捨てて、対象をありのままに受け入れることなのです。たとえば、死に至る病気になった人がいるとします。もしその人が「なぜ自分がこんな目にあうのか」と悲嘆し、悩み、怒り、恐れ、不安に苛まれるならば、それらは執着となるのです。しかしもし「私は死に至る病気になったのだ」という事実だけをありのままに受け入れたのなら、それは心の平和となるのです。江戸時代の僧侶に良寛(りょうかん)というお方がいます。良寛様の言葉は、まさにこの境地を表しているのです。最後にご紹介します。

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候

住職代理 無聖(むしょう)

あきらめてはダメ

若い頃から自分の好きなように生きてきた人の中には、事にあたって辛抱が足りず、すぐにあきらめてしまう人がいます。好きなように生きるということは、何かを始めるのも自由ですし、終わらせるのも自由ということです。それは、志しや目標をもっている人にとっては良いことですが、ただ何となくその時々で好きなことをし、飽きたらやめるということを繰り返す人にとっては良いとは言えません。そういう人は、簡単なことばかりに手を出し、難しいことは避けがちです。いつの間にか、問題に立ち向かう勇気は退化し、安心を確保できる狭い範囲の中だけで閉じこもって生きることになります。心は弱くなり、妄想や不安を抱きながら生きることになるのです。

世間には、難しいことをしなくても何とか生きていけるという人もあるでしょう。しかしそれは、誰かがあなたに代わって難しいことを引き受けてくれているだけかもしれません。そうだとすれば、あなたは、この苦しみの多い、次から次へと問題が起こる人生において、その人抜きでは生きられないということです。それは、自分の力で困難を乗り越え、その先にある福楽を手にれるという醍醐味(=人生の本当の面白さ)を放棄することでもあります。私は、実際に、丈夫な心身を持ちながら、そのようになってしまった自分を後悔し、途方に暮れるばかりの人を知っています。その人は、「このままではいけない」と頭では理解していますが、口から出るのは、「できない」「したくない」といった言葉ばかりです。あきらめること、人頼みにすることが習慣になっているのです。

私は、特に若い人に言いたいのです。あきらめることを習慣にしないでください。「できない、したくない」といった言葉を口にしないでください。それらの言葉は、耳から入って心に至り、あなたの勇気を退化させます。一つのことに取り組めば、できないと思うことや、したくないと思うことも、たくさん出てきます。おそらくは学校の勉強もそうでしょう。しかしもしそこであきらめてしまったら、「できない、したくない」という言葉を死ぬまで言い続けることになるかもしれません。そのように、自分の世界を狭めて、小さく偏って生きるようなことを、若いあなたにはしてほしくありません。勇気さえあれば何でもできます。勇気はあきらめない心から生まれます。あきらめない習慣が、あなたに自信を与えます。そして、勇気を育ててくれます。勇気が大きくなるほど、目の前の問題はどんどんしぼんで小さくなっていきます。生きる苦しみも、勇気によって、ことごとく福楽に変えることができるのです。「ああ、面倒くさい。こんなことできない。こんなことしたくない」と言いたくなる時は誰にでもあります。「よし、それでもやろう」と踏ん張る人と「やーめた」と簡単にあきらめる人とでは、結局は、手にいれる幸福に大きな違いがあるのです。

住職代理 無聖(むしょう)

「もうしんどい、死のう」と思ったら来てください

もしあなたが本気で死のうと思っているなら正雲寺に来てください。あたたかい食べ物とゆっくり眠れる場所を用意しています。ここはお寺ですが、仏教への信仰は必要ありません。心の中の魔が消え去るまで安心して養生してください。私たちは、あなたの苦しみを消し去ることはできません。それができるのは、あなただけです。魔が弱まって、再び精進の心が芽生えるまで、ここでゆっくり過ごすと良いでしょう。あなたの心はそれほど弱くはありません。苦しい時は誰にもあります。お互い様です。助けて欲しい時は「助けて」と言ってください。とにかく電話をしてください。

苦しみを無くす

 

新年明けましておめでとうございます。
皆様のお支えにより正雲寺は464年目の新年を迎えることができました。
僧侶一同、心より御礼申し上げます。
この一年が皆様にとりまして幸多いものとなりますようお祈りいたします。

 
自分とは関係なく外からもたらされる苦しみがあります。事故、災害、戦争などがそうです。しかし他方では、自分が作り出す苦しみというのもあります。

私たちは、痛み、悲しみ、憂い、怒りを抱き、「なぜこれほど苦しまねばならないのか」と自分に問うことがあります。もし今のあなたがそうなら、仏教を学んでください。信仰としてではなく、学問としてです。お釈迦さまの教えは実に合理的です。神秘や情緒を語らず、常に論理的で明解です。信仰に頼らずとも、それを学ぶ者すべてが智慧を得ることができます。お釈迦さまは「人生は苦しみの連続である。その苦しみを作っているのは執着する心である。執着する心は智慧によって滅ぼすことができる。智慧を獲得するには具体的な方法がある」と言いました。受容・自覚・学び・実践の順で苦しみを減らし無くすことができるというのです。執着する心とは、言い換えれば「自分の思い通りにしたい」という欲求です。苦しみの大半は「自分の思い通りにしたいが、思い通りにならない」という現実から生じます。素直な気持ちで自分の心を見つめましょう。今の苦しみが自分の執着心に起因するなら、原因を外(他人や環境)に探すのはやめましょう。自分の苦しみを正しい智慧によって理解する人は、正しいスタートラインに立つことができます。その人は、正しい道を歩み、正しいゴールに到達します。

『修証義』第三十一節(最終節)

『修証義:しゅしょうぎ』は道元禅師(1200-1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつあります。私のその時々の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】

ここにいう諸仏とは釈迦牟尼仏のことです。釈迦牟尼仏は即心是仏です。過去現在未来の諸々の仏たちはみな、その身口意に釈迦牟尼仏を顕現しながら行持するのです。これが即心是仏ということです。即心是仏とは何者なのかをよく考えなさい。それが仏恩に報いることです。

【法話】

日本仏教は大乗仏教です。大乗仏教は、阿弥陀如来や薬師如来、観音菩薩や地蔵菩薩といった多くの仏菩薩を創作しました。それらは、釈迦牟尼仏の説く教えの内容が時々に応じて擬人化したものです。すべては、2500年前に実在した釈迦牟尼仏という一人の人間に帰一します。ところが、人々は創作された諸仏や諸菩薩を崇敬するあまり、肝心の釈迦牟尼仏を遠い存在にしてしまいました。こうしたことに対する反省もあったのでしょう。道元禅師は、この三十一節で「釈迦牟尼仏に戻ろう」と言っているのです。しかもそれは、姿を拝んだり、名前を唱えたりすることではなく、私たち自身が生身の人間として生きながら釈迦牟尼仏になろうというのです。このように言いますと、釈迦牟尼仏になるためには大変に厳しい修行が必要で、私たちのような凡夫には夢のようなことだと思いがちです。しかしそうではないと道元禅師は説きます。『修証義』の修証の字は、修(日々の修行)と証(仏としての証し)とに分けることができます。普通は、長い年月の修行の果てについに仏としての証しが現れると考えますが、道元禅師は、日々の修行と仏としての証しは一つであり同時であると考えます。日々修行をする私たちの心と体そのものが、その瞬間毎に仏としての証しを現しているのです。これを即心是仏といいます。つまりそれは、仏になることを目指すのではなく、只今この瞬間を仏として生きるということです。このことについて、曹洞宗大本山永平寺第七十八世貫首宮崎奕保(みやざきえきほ)禅師は、仏をまねることだとおっしゃっています。「一日真似れば一日の真似。二日真似れば二日の真似にすぎないが、一生真似ればそれは本物だ」と。最後に道元禅師は「あなたは即心是仏として今を生き切っているか?」と問うています。あなたは何と答えますか。

【あとがき】

第一節の現代語訳は、2016年7月のことでした。本日の最終節までに8年を費やしたことになります。初期は、若気の至りと申しますか、本当は分かっていないのに、分かったような気になって勢いで書きました。中期になると、ことの重大さに気づき書けなくなりました。そして後期は、少しずつではありますが、見えなかったものが見えるようになる喜びを感じながら書きました。もちろん十分ではありませんし、誤解も多いことでしょう。それでも、私にとっては十分過ぎるほど充実した作業となりました。私は、編纂の趣旨こそ違えど、『修証義』は『正法眼蔵』への入口だと思っています。今後は、この作業と並行しながら『正法眼蔵』をじっくりと読ませていただこうと思います。長きにわたりお付き合いくださり、誠にありがとうございました。

住職代理 無聖(むしょう)