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問い:人と動物、命の価値に違いはありますか。

答え:命の価値は皆同じです。

「六道輪廻(ろくどうりんね)」という仏教思想があります。全ての命は六つの世界(六道)を行き来し、その中で生死を繰り返す(輪廻する)というものです。この六つの世界とは、天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界です。命は死後に生前の善行と悪行の数を量られ、善行の数が多ければより善い世界に、また悪行の数が多ければより悪い世界に生まれかわります。私たち人間が住む世界は人間界です。ペットをはじめ人間以外の動物たちが住む世界が畜生界です。畜生界は人間界よりも下位にあるため「人間よりも動物の方が命の価値は低い」という差別的な考えが生まれました。本来、六つの世界の違いは苦しみの量だけです。ところがそこに住む命の価値にまで優劣や上下を論じるようになってしまったのです。

もとより仏教は差別を否定します。六道のような明確な区別はあっても命の差別はしません。「生まれによって賤(いや)しいものとなるのではない。行為によって賤しいものとなるのである」とお釈迦様は仰いました。命そのものではなく、行いによって尊卑が決まるということです。命の価値は平等です。もし生前の悪行が多ければ、人間は畜生界に生まれかわるかもしれません。反対に動物たちは生前の善行が多ければ、人間界に生まれかわるかもしれません。課せられた条件は人間も動物も同じです。全ての命は同じ条件のもとで生きているのです。

命の価値に違いはないとはいえ、生きている間に多くの人を傷つけたり悲しませたりする私たちと違い、ペットはたくさんの人に喜びや幸せを与えています。どちらが、お釈迦様の言う「賤(いや)しいもの」でしょうか。命の価値を考える時、こうしたことも一緒に考えてみてください。

住職代理 無聖(むしょう)

『修証義』第28節

「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200-1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】
私たちが今こうして仏法を聴くことができるのは、仏祖と呼ばれる過去の偉人たちが、行持(悟っても悟らなくても生涯修行を継続すること)を怠らず、まっすぐに法を伝えてくれたおかげです。もし彼らが正しく法を伝えなければ、今私たちがこうして仏法に出会うことはできませんでした。たった一句の法を聴けるだけでも感謝しなければなりません。ましてや私たちは今、最高の大法である正法眼蔵(仏法の真髄)を聴いているのです。これに感謝しないということがあるでしょうか。〔中国には命を助けられた雀と亀が、人間に恩返しをしたという故事があります〕動物でさえ感謝の心を忘れずに恩に報いるのです。人間が恩を知らずにいられるでしょうか。

【法話】
当たり前のように存在しているものでも、そこに至るまでには数え切れないほどの人々の努力や心遣いがあります。そうした先人たちの努力に思いを巡らすこともなく、ただの偶然や自分の力によるものなどと考えるなら、それは無知と傲慢が過ぎるというものです。受けた恩に感謝する心があるから人間は人間でいられます。ご先祖様から脈々と受け継がれて来た自分の命も、そしてついに出会うことができた仏法に対しても同じです。

愛犬マツの死に際して

昨夜、愛犬マツが亡くなりました。17歳3ヶ月でした。私ともう一人の僧侶で読経しながら静かに見送りました。死にゆくマツの体にとりすがって名前を呼びたかったですが、私はその時、旅立つマツを呼び戻してはいけないような気持ちになりました。私をはじめ、たくさんの人に喜びや幸せを与えてくれたマツは犬として立派に生き切ったからです。役目を終えて旅立つ者を呼び戻すのは失礼だと思ったのです。呼び戻したいと思うのはマツを失う寂しさから来る私のわがままです。もし可能なら、マツが生前に行った善行の功徳によって来世は人間に生まれ変わり、仏縁を得て、私と一緒に仏道修行をしてほしいと思っています。

マツに限らず、ペットたちは全身全霊で私たちを愛してくれます。これほど率直で純粋な愛は他に見当たりません。私たち人間にもこのような愛があれば、苦しみから解放されるのではないでしょうか。先代住職の無学老師は私たち修行僧に「この子たちから学びなさい」とよくおっしゃっていました。私も歳を重ねるにつれて、愛の塊のようなペットたちから教えてもらうことが多くなりました。私の考えの及ばない数々の因縁によって畜生界に生まれたマツですが、生前に為した善行の広大さは、人間界に生まれた私の善行をはるかに超えています。愛の力は人間と動物の種を超えて広大無辺なのですね。マツが息を引き取った後、私はマツを抱きながら「たくさんの幸せをありがとう」とだけ伝えました。

住職代理 無聖

私がおすすめしたい仏教入門書

私は、仏教で大切なことは、お釈迦様の教えを自分で実践して、その効果を体感することだと思っています。「なるほど、お釈迦様の言うとおりだった。お釈迦様の教えはこういうことだったのか」と自分で納得することです。この納得の積み重ねが私の信仰を深めているように思います。

頭の中の知識だけで幸せになれるならいいですが、現実はそうはなりません。「怒りを捨てよ」という教えも知っているだけでは意味がありません。怒りたい気持ちを抑えて耐え抜く実践が必要です。ただ私は学問としての仏教を否定するつもりはありません。自分で実践する前に正しい知識を身につけることは大切です。

この本は「仏教のめざすものは何か」というところから始まります。いったい仏教は何を目的にしている宗教なのかを知るところからです。私の知る限り、このような切り口の本は他にありません。その後、なぜそれを目的にしているのか、目的を達成するにはどのような方法があるのかと展開していきます。体系的に語られていますから、初学者が仏教の全体像を理解するのに最適ではないでしょうか。

私は20年ほど前にひと月ぐらいかけて、この本の内容をノートに書き写したことがあります。仏教用語の解説を中心に、自分の体験を投影したり、その時の考えを織り交ぜながらもう一冊の私だけの仏教入門書を作るのです。一度しっかりと腰を据えて学べば、蓄えられた知識がその後の実践の土台になります。少なくとも今日までの20年間は大いに役立ってくれています。

住職代理 無聖

怒りや苦しみに耐える。『仏遺教経』より

数ある修行の中で、私が自分にとって特に重要だと考えている修行は「忍耐」です。忍耐とは、怒りを鎮めて苦しみに耐えることです。『仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)』というお経があります。お釈迦様がそのご臨終で説いた最後の説法と言われています。まさしく遺言ですね。このお経の中に忍耐についての記述がありますのでご紹介します。拙い意訳ですがお許しください。

修行僧たちよ、
たとえ刃物で体を切り刻まれても、
怒ってはならない。
固く口を閉ざしなさい。
怒りの言葉を吐いてはならない。
もし怒りの心をそのまま放置すれば、
今までの修行の成果は台無しになり、
これから先の修行の妨げともなる。
どれだけ戒律を守り、
どれだけ苦行を重ねたとしても、
忍耐の功徳には及ばない。
忍耐をよく実践する人は、
大人物となるであろう。
たとえ人から罵(ののし)られても、
むしろ喜んで受け入れるなら、
その人は智慧の完成した人である。
怒りは様々な善行を無価値にし、
築き上げてきたものを破壊する。
今の人も未来の人も
怒る人に対しては
誰も相手にしない。
怒りは燃え盛る炎よりも激しい。
常に防護して、
心に入れないようにしなさい。
怒りは、大切にしているものを
すべて焼き尽くすからである。

この教えを説いたお釈迦様もご自分の一族が他国によって滅ぼされるという経験をなさいました。愛する者たちが殺されるのを黙って見ているより他なかったのです。その怒りと苦しみはいかばかりでしょう。しかしその中にあってもお釈迦様は「怨みに対して怨みで報いても怨みが消えることはない。怨みを捨ててこそ怨みは消える」と仰いました。怒りや怨みを捨てて耐えることはとても難しいことです。前を走っている車が遅いというだけで怒ってしまう私たちです。そんな私たちにできるでしょうか。お釈迦様もその難しさはよく分かっておられます。ですから別のお経では「耐えることは最上の苦行」と仰っています。耐えることは確かに苦行ですが、本物の心の安らぎを獲得する(涅槃に入る)ための一番上等な修行だと仰っているのです。

正直に言えば、私はこの修行を途中で投げ出すことがあります。修行を台無しにしてしまうことがあります。その度にスタート地点に戻る気持ちです。ですから私の修行は遅々として進まないのでしょうね。皆様はいかがですか。そんな情けない私だからこそ、あえて忍耐を一番重要な修行にしているのです。もしもあなたが私について「怒らない人」という印象を持ったとしたら、それは私が心の中で必死に努力をしている証拠です。微笑みの下には激しく揺れ動く未熟な私がいます。

住職代理 無聖(むしょう)

私の修行生活

無学老師は修行僧たちに「善いことだけしなさい」と言います。しかし理解の遅い私には「ことさら善いことをしなくてもいい。欠点を一つずつ消していきなさい。そうすれば放っておいても善くなる」と諭します。老師の一言がきっかけで一足飛びに高い境地に達する僧もいますが、私は違います。その時々でいちいち欠点を改めながら地道に進むしかないと思っています。私の数多い欠点の中で三つだけをここに記します。

① 出し惜しみする時がある。
② 自慢話をしたり人を非難する時がある。
③ 我慢できずに怒る時がある。

私の心の中にはけちん坊がいます。物に限らず心も出し惜しみする自分です。だからこそ、惜しまず与えることを第一の修行と捉えています。調子に乗って口数が増えると、自分のことを誇らしげに話したり人を非難することがあります。そんな時は「私はエゴが強く心根が卑しいのだ」と言い聞かせて言葉を慎重に選びます。これが第二の修行です。相手の暴言に対して同じように言い返すことがあります。売り言葉に買い言葉です。怒りや暴言は、私が大切に築き上げてきたものを一瞬で破壊します。これまでの修行が台無しです。そうならないように相手の怒りには反応せず、徹底して耐えることを第三の修行としています。

もしもあなたが私に対して「出し惜しみしない人」「悪口を言わない人」「怒らない人」という印象を持ったとしたら、それは私が心の中で必死に努力をしている結果だと思ってください。本来の私はその逆なのですから。私のような愚鈍な者でも正しい方法で努力をすれば必ず善くなるとお釈迦様は説かれました。老師は「人は心に願ったとおりの人間になる。善い人になるためには、善い人になりたいと願うことだ」と言います。私はお二人の言葉を信じて修行生活を続けています。

住職代理 無聖

私が思う仏門の魅力

心の中の苦しみを消すにために私たちにできることは、自分で乗り越える力を持つか、または支え導いてくれる善良な人を持つかです。

どちらか一つでも手に入れられたら幸せなことだと思います。実際に多くの人がそうやって苦しみを乗り越えています。とても有り難いことですね。問題はどちらも手に入れられない人です。苦しみの中でさらに苦しみを深めていくような人です。孤独を感じ、生きづらさばかりが増していきます。時々「正雲寺に入門したい」と仰る方がいます。具体的なことは分からなくても、仏門に対して何らかの魅力を感じておられるのでしょう。

仏門では、苦しみを乗り越える力を養うことができます。そして支え導いてくれる善良な人もいます。正確には「善良であろうと努力する人」ですね。お釈迦様の教えという明確な指針がありますから、私たちはそれを学んで実践します。そうやって自力を養うことができます。また、皆が「心の中の苦しみを消す」という同じ目的に向かって修行していますから、同志としてお互いに支え合うことができます。

仏門に入れば、すぐに苦しみが消えるわけではありません。仏門では僧侶も寺人も誰もが同じ目的に向かって修行をしています。見方を変えれば、誰もが修行途中の未熟な人間だということです。未熟ですから愚かなこともします。人を困らせたり、傷つけたりもします。その度に私たちは懺悔(さんげ)をして再出発を誓います。この点では、俗世間とあまり変わらないかもしれません。

私が感じている仏門にしかない魅力とは、苦しみを作り出す愚かな自分を素直に認めて修行に専念できることです。お釈迦様の教えを学び、それを実践します。心の中の悪が邪魔をして実践できなかったり、実践しても失敗したりします。その度に反省してやり直します。実践できた時には、自分が一つ成長したことを喜び、支えてくれた人々に感謝します。毎日がこの繰り返しです。そして嬉しいことに、私たちはこの繰り返しに飽きることはなく、それどころか幸せさえ感じています。その上、時々ですが、自分の修行の成果が人の役に立つことがあるのです。その時の嬉しさはまた格別です。愚かな自分から目を背けず、修行によって自分を改善し、結果としてそれが人の役に立つ。俗世ではなかなか得られないことではないでしょうか。

正雲寺は山の中にあって、携帯電話はつながりません。テレビも映りません。自然も厳しくて楽に過ごさせてはくれません。それでも心静かに自分を見つめるには最適な環境だと思っています。もし支え合える同志がいるなら喜んでお迎えします。

住職代理 無聖

正雲寺は主人を追って…

正雲寺は460年続く禅宗のお寺です。先日お寺の歴史を調べておりましたら面白い事が分かりました。

正雲寺は永禄5年(1562年)、現在の新潟県柏崎市南条(みなみじょう)の地に建立されました。建立主は上杉景勝(上杉謙信の養子として家督を継ぐ)の家臣南条氏です。南条は元は毛利という名でしたが、この地を領地とする際に毛利から地名と同じ名に改めました。正雲寺は上杉家の戦勝祈願所として建てられました。元の名は今とは山号が違い、神宮山正雲寺といいました。

ご存知の方も多いと思いますが、上杉家は豊臣秀吉の命令により長く治めていた越後(新潟県)から会津若松に領地替えをさせられました。慶長3年(1598年)のことです。後には、関ヶ原の戦いで石田三成勢に味方したことから徳川家康の怒りを買い米沢(山形県)に移封されますが、それはともかく、上杉景勝の会津への領地替えの際は、家臣である南条氏も領地南条を捨ててこれに従いました。正雲寺は建立主を失ったことになります。その後、正雲寺は衰退と中興を繰り返しながら命脈を保ち、ついに昭和59年(1984年)に会津若松に移築され今に至っております。

私が面白いと感じたのは、歴史の偶然とは言え、正雲寺の伽藍は386年の時を経て会津若松まで建立主を追って来たということです。もし伽藍に人格のようなものがあるとしたら、よほど主人を慕っていたということになります。何か歴史のロマンを感じるお話です。主人の恩を決して忘れないこの律儀な正雲寺を私はしっかりと守らなければならないと思いました。もしかすると、また数百年後には、主人の眠る米沢の地まで再び移動するかもしれませんね。

住職代理 無聖(むしょう)

一番大切なこと

私たち僧侶にとって一番大切なことは、どんな時でも仏道に背かず、仏道から離れないことです。「そんなことはお坊さんなら当然でしょ」とお叱りを受けるかもしれませんね。ところが正直に申し上げると、この当然のことができない時があります。恥ずかしいことです。日本で曹洞宗をお開きになった道元禅師(どうげんぜんじ1200-1252)は、当時の僧侶を評してこのように仰っています。原文(古文)を現代語訳にしてご紹介します。

***

もし世間の人が褒めたり喜んだりするなら、
たとえ仏道に背くと分かっていてもこれをしてしまう。
もし世間の人が褒めなかったり尊敬しなかったら、
たとえ正しい仏道だと分かっていてもこれをしない。
そのような僧侶は見るに忍びない。
恥を知るべきである。

***

道元禅師が生きた時代(鎌倉時代)は、仏教が歪められ退廃した時代でもありました。檀信徒や権力者に媚びへつらい、人に良く思われたい、人気を集めたい、自分の地位を守りたいといったことを考える僧侶が多かった時代です。彼らに共通するのは、正しい仏道を探し求めることをやめて(修行を捨てて)自己流の仏道に満足している点です。常に人の顔色を伺って、相手が喜ぶことだけを言葉にします。中には人々の支持を得ていること、権力者に気に入られていることが即ち正しい仏道を歩んでいることだと考える輩もいたようです。こうした人々を道元禅師は厳しく諌めているのです。私は先の道元禅師のお言葉を自分なりに言い直して心に刻んでいます。

人々が称賛してくれるからといって
正しい仏道を歩んでいるとは限らない。
自分の快楽のために仏道を歪めてはならない。

生意気を言うようですが、これは私たち僧侶が肝に銘ずべきことだと思います。修行中の身ならば誰でもこの過ちを犯す可能性があるからです。私も例外ではありません。僧侶は時々過分な褒め言葉を頂くことがあります。若い頃の私はすっかり気を良くして天狗になってしまうことがありました。これだけ認めてもらっているのだから、自分は正しい仏道を歩んでいるのだと傲慢になることがありました。その挙句、自己流の仏道で満足し、気づきや学びのない生活に安住してしまうのです。今にして思えば恥ずかしいばかりです。ここまでひどくはないにしても、今でも小さな勘違いをすることがあります。耳に心地の良い言葉は、それを口にした人の心は清らかでも、聞いた人間の心を汚すことがあるのです。一番大切なことに用心しながら、お寺に来てくださる皆様と真実のお付き合いがしたいと願っております。

住職代理 無聖(むしょう)

仏門の安心感はどこから来るのでしょう

仏門には独特の居心地の良さがあります。何とも言えない安心感です。私は、この安心感はどこから来るのだろうと考えることがあります。正雲寺が静かな自然の中にあるからでしょうか。ご縁ある方々と善い関係を築けているからでしょうか。もちろんそれらもあるでしょうが、一番は、お釈迦様が私たちの心にある苦しみを決して否定しないからだと思います。

「そんなのは苦しみじゃない」「心が弱い」「現実から逃げている」。こういった言葉をよく耳にします。私も言われたことがあります。私はこのように否定されると、苦しんでいることが悪いことのように感じてしまいます。こうした言葉で傷つきたくないので、誰にも言わずにいようと思ってしまいます。皆さんはいかがでしょうか。苦しいのに苦しいと言えない。それがまた苦しみを深めます。しかし仏門では、苦しいことは苦しいと素直に言うことができます。お釈迦様は苦しみを否定する言葉は一言も言いません。ただ「よく来たね」と仰るのです。

このお言葉が示すように、仏門は昔から心に苦しみを抱く人や社会で生きづらさを感じている人を迎え入れて来ました。これは言い換えると、救いを必要としない人々には縁のない存在だということです。多少の苦しみはあるにせよ、自分の努力によって解決し、社会の一員として調和し幸福を感じられる人に仏門は必要のないものでした。仏門は、お釈迦様の時代から今日まで、自分で解決したくても解決できずに苦しんでいる人のためにあります。仏教を必要としていない人に仏教を強いることはないのです。

仏門に入門すれば、苦しみが魔法のように消えるわけではありません。お釈迦様のような偉大な先生がいて、手を取って導いてくれるわけではありません。仏門では、先輩と後輩の違いはあるにせよ、誰もが同じように苦しみを抱いて生きています。「お坊さんは苦しみとは無縁では?」と思われるかもしれませんが、それは大きな誤解です。お悟りになったお坊さんは別ですが、修行中のお坊さんなら誰でも苦しみと向き合っています。そもそも仏教の目的は苦しみを消すことにあるからです。ですから仏門に入門するとは、同じ目的を持った仲間と一緒に支え合いながら修行をするということです。一人で修行するよりは心強いはずです。

本当はできるのに力を出し惜しみしたり、面倒くさいなどと言って怠けたりする人は、何をやっても苦しみが消えることはありません。もしあなたが懸命に生きていて、それでも生きづらいと思うなら、私は現実から逃げてもいいと思います。その現実が本当に正しいものなのかを見直す時間が必要です。英気を養って再び社会に出ていくのか、それとも仏門に残って心の平和を求め続けるのか、新しい選択が訪れるのを待てばいいのです。こうした寛容さも仏門の安心感につながっているように思います。

会津本山 住職代理 無聖(むしょう)