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学ぶ人と学ばない人

ある友人から「亡き無学老師の言葉をもっと聞かせてほしい」とお話がありました。ありがたいことです。老師の言葉を紹介するのは私の学びでもあります。このブログでいくつか紹介してまいりましたが、今後はもっと積極的に書き残したいと思っております。4月は多くの人にとって新生活が始まる時でもありますので、それに相応しいお話をしたいと思います。

「学んでいる人は心が自由で柔らかい」
「学ばない人は心が狭くて頑(かたく)なだ」

修行僧にとっての学びとは、単に仏教を知識として習得するだけではありません。仏教の実践こそが学びの本質です。では実践とは何でしょうか。私は、日々汚れていく自分の心をきれいにすることだと理解しています。その方法は経典にいくつも明記されておりますが、今お話ししたいのはその一つ一つではなく、学びの態度についてです。その態度とは、今に立ち止まらないということです。常に流れていると言いましょうか、何かに固執してしがみつかないことです。他人のすることやしないことなどには目もくれず、自分のすることやしないことにのみ集中します。いつも自分の汚れた心を観察します。お釈迦さまや偉大な仏弟子たちの教えを学んでいますから、自分が彼らと比べてどれだけ愚かなのかがよく見えるはずです。このような人は何事に対しても謙虚であり慎重です。そうならざるを得ないのです。このような態度の人は「向上に努める人」であると経典に書かれております。自分を卑下したり自分の命を軽んじるようなことはありません。成長は遅いかもしれませんが、確実に向上の道を進んでいることを知っているからです。むしろ安心と喜びと共にあるといっていいでしょう。老師はそのような態度を「自由で柔らかい」と表現しました。一方で学んでいない人は停滞しています。自分の愚かさを顧みないので改善と成長の道が閉ざされています。これでは可能性を秘めた未来の自分を信じることはできません。今の自分を守ることに精一杯なのです。「狭くて頑な」と思われてもしかたがありません。

今が愚かでも構いません。それを自覚できるのは素晴らしいことです。決して恥ずかしいことではありません。自分の愚かさを自覚した人だけが向上に努めることができます。未来の自分へと道が開けるのです。今の自分に安住せず、はるかに成長した未来の自分を信じて前進してください。年老いて心が狭く頑なになっていく人は大勢います。ある時自分でそのことに気づき悩み苦しみます。私はこれまでそのような人にたくさん出会ってきました。その度に「遅くはありません。今からでも本気で自分を変える努力をしてください」と申し上げています。自分の過ちに気づき、変わる努力をするのに年齢は関係ありません。しかし若いうちに気づくことができれば、もっと早くに幸せに近づくことができたろうと思います。

「今学んでも役に立つのはせいぜい10年後だぞ」
「焦らんでもいい。着実にやりなさい」

無学老師の口癖です。知識だけでは人生の役に立ちません。知識は自分の血や肉となって初めて役に立つのです。しかしそれには時間がかかります。「焦らずにやりなさい」という老師の言葉の裏に私はいつも「一刻も早く」という老婆心を感じていました。皆様におかれましては、焦らずに、しかし一刻も早く「学ぶ人」になっていただきたいと思います。

住職代理 無聖(むしょう)

私の悩み

私の三つの悩みをお話しします。出家を志している方の参考になればと思います。

一、私は仏法を正しく学んでいるか。
教え導いてくれた師はすでになく、私は自力で仏法を学ばなければなりません。正師を失った修行者は道を踏み外しやすく我流(仏法を自分の都合のいいように解釈すること)に陥りがちです。正しい修行は困難と苦しみを伴います。我流は楽で心地いいものです。私は心の弱さに負けて楽を選んでいないか。我流を正しい仏法と思い込んでいないか。心を清らかにするどころか逆に汚しているのではないか。これが一つ目の悩みです。

二、私が感じる孤独は正しいものか。
お釈迦さまは「ただ独り歩め」、「他に頼らず仏法を拠りどころとして己れを頼りとせよ」とおっしゃっています。修行僧が孤独になるのは必然かもしれません。ただその孤独は正しい考え(【正見(しょうけん)】)とともにあるはずです。間違った考え(邪見)は別の孤独を生みます。私が恐れるのは、私の邪見が人々を傷つけ遠ざけてしまった挙句に孤独になることです。しかし私のような未熟な修行僧が正見を十分に実践できているとは思えません。ならば私が感じる孤独は邪見から来るのか。これが二つ目の悩みです。

三、私は「仏弟子」と言えるか。
仏典や語録を読むと、私とは生き様が大きく違う仏弟子たちの姿が見えてきます。仏法を二千五百年間守り継いできた人々です。彼らの学び、彼らの真実さ、彼らの厳しさは桁違いに見えます。「私も肩を並べたい」という思いと「私にできるか」という弱気とが交錯します。彼らと比べた時に、今の私に仏弟子を名乗る資格はないように思えてなりません。私は仏弟子にもなれず俗人にもなれない半端な人間ではないか。これが三つ目の悩みです。

このような悩みを持っていると、学びも実践も思うように進みません。何事も慎重になってしまい導師をつとめることにも躊躇します。これが【脚下照顧(きゃっかしょうこ)】ならばいいのですが。今、私の目前にある自灯明と法灯明の道はとても長く険しく感じられます。その道の手前の迷いの世界で私は堂々めぐりをしているようです。私にとっては現実的な痛みです。

住職代理 無聖(むしょう)

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【正見】
正しい考え。すなわち苦、無常、無我の三相に載せた考えのことです。
【脚下照顧】
禅寺では「足下に注意せよ」という注意喚起に使いますが、この他に「人のことを論じる以前に自分のことをよく省察せよ」という意味でも用いられます。