出家

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私の悩み

私の三つの悩みをお話しします。出家を志している方の参考になればと思います。

一、私は仏法を正しく学んでいるか。
教え導いてくれた師はすでになく、私は自力で仏法を学ばなければなりません。正師を失った修行者は道を踏み外しやすく我流(仏法を自分の都合のいいように解釈すること)に陥りがちです。正しい修行は困難と苦しみを伴います。我流は楽で心地いいものです。私は心の弱さに負けて楽を選んでいないか。我流を正しい仏法と思い込んでいないか。心を清らかにするどころか逆に汚しているのではないか。これが一つ目の悩みです。

二、私が感じる孤独は正しいものか。
お釈迦さまは「ただ独り歩め」、「他に頼らず仏法を拠りどころとして己れを頼りとせよ」とおっしゃっています。修行僧が孤独になるのは必然かもしれません。ただその孤独は正しい考え(【正見(しょうけん)】)とともにあるはずです。間違った考え(邪見)は別の孤独を生みます。私が恐れるのは、私の邪見が人々を傷つけ遠ざけてしまった挙句に孤独になることです。しかし私のような未熟な修行僧が正見を十分に実践できているとは思えません。ならば私が感じる孤独は邪見から来るのか。これが二つ目の悩みです。

三、私は「仏弟子」と言えるか。
仏典や語録を読むと、私とは生き様が大きく違う仏弟子たちの姿が見えてきます。仏法を二千五百年間守り継いできた人々です。彼らの学び、彼らの真実さ、彼らの厳しさは桁違いに見えます。「私も肩を並べたい」という思いと「私にできるか」という弱気とが交錯します。彼らと比べた時に、今の私に仏弟子を名乗る資格はないように思えてなりません。私は仏弟子にもなれず俗人にもなれない半端な人間ではないか。これが三つ目の悩みです。

このような悩みを持っていると、学びも実践も思うように進みません。何事も慎重になってしまい導師をつとめることにも躊躇します。これが【脚下照顧(きゃっかしょうこ)】ならばいいのですが。今、私の目前にある自灯明と法灯明の道はとても長く険しく感じられます。その道の手前の迷いの世界で私は堂々めぐりをしているようです。私にとっては現実的な痛みです。

住職代理 無聖(むしょう)

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【正見】
正しい考え。すなわち苦、無常、無我の三相に載せた考えのことです。
【脚下照顧】
禅寺では「足下に注意せよ」という注意喚起に使いますが、この他に「人のことを論じる以前に自分のことをよく省察せよ」という意味でも用いられます。

正雲寺の修行 -善いこと悪いこと-

自分は善いことをしているのか、それとも悪いことをしているのか。修行僧はいつも悩んでいます。修行僧は仏法の理解が浅いため我流の判断に陥りがちです。自分では善いと思っていることでも、仏法に照らせば悪いという場合もあります。普通に考え話し行動しているだけなのに、それらがすでに悪いということがあるのです。学びのない、よく調教されていない心は、私は敢えて「ありのままの自分」「自然体の自分」と呼んでいますが、そのままでは悪い場合が多いのです。

師匠や善い先輩に恵まれれば、ことの善悪について助言をもらうことができますし、悪いことをしている時には修正してもらうこともできます。しかしそれらは人生の中ではごく一時的なことです。結局は人に頼らず自分で正しい判断をしなければなりません。そのためには、仏法を懸命に学ぶのと同時に日常の言葉や行動を慎しむことが大切になってきます。その昔、「お前は黙っていなさい」とよく叱られました。これは「沈黙せよ」という意味ですが、同時に「考え話し行動する前に、それらが仏法に適っているのかよく点検しなさい」という意味でもあります。

しっかり点検し、満を持して話し行動しても、必ず善い結果になるとは限りません。まだまだ点検が足りないということもありますし、そもそも拠り所となる仏法への理解が浅いということもあります。もし対人関係で痛い思いをしようものなら、「もう何もしない方がいい」となりがちです。しかしそれではいけないと思います。慎しむことと臆病になることとは違います。慎しみながらも踏み出す勇気は必要です。結果として痛くて苦しい思いをしたなら、自分で悪い原因を作ったということですし、反対に嬉しくて楽しい思いをしたなら、自分で善い原因を作ったということでしょう。こういう実体験を通して善悪のことを学ぶのには勇気が必要です。悪因苦果を懺悔(さんげ)するのも、善因楽果に自惚(うぬぼ)れないのも勇気です。苦果をもたらした悪因は何だったのか、楽果をもたらした善因は何だったのかを冷静に見定めることで善悪の判断が徐々にできるようになります。勇気を出して痛みや失敗を乗り越え、悪因苦果を確実に減らし、善因楽果を一つずつ増やしていくこと、それが現実的な仏道修行と言えるでしょう。目標とするのは、考えること、話すこと、行動することの全てが善因となり楽果となることです。

住職代理 無聖(むしょう)

入門をお考えの方へ、その前に

入門した後は、過去の古い自分を捨てて、仏弟子として戒律を守りながら新しい自分を育てることになります。これは口で言うほど簡単ではありません。どんな分野も同じでしょうが、本当の意味で人間が変わり始めるのは、修行を始めて三年が過ぎた頃からです。この間は、ただ先輩僧侶の言うことに従い、その真似事をして黙々と修行する日々が続きます。もし入門する前からあなた様に仏道を求める強い心(道心)があるなら修行も受け入れやすいでしょう。しかし、多くの方はそうではありません。実際には入門した後で徐々に道心を育てることになります。そこで求められるのは忍耐力です。自分の思い通りにならなくても、やけになったり、短気を起こしたりしないでやり通す力です。入門に際しては、特別な能力や資格は必要ありませんが、三年間は耐え抜く覚悟は必要です。三年を耐え抜いた力が、それ以降の修行を確かなものにしてくれます。

入門の可否は、履歴書を拝見し、お会いしてお話を伺った上で決めさせていただきます。しかし多くの方にとって仏門は未知の世界であり、不安に思うこともおありでしょう。履歴書を送付する前に一度ご自分の目でご覧になってはいかがでしょうか。住職代理の無聖(むしょう)がご不明の点などをご説明いたします。ご見学はいつでも承っております。ご来寺の日時をお知らせください。

正雲寺での修行生活

正雲寺での修行生活は、日々のお勤めと作務の二つで成り立っています。入門したばかりの新参者にとっては、日々のお勤めといっても、まだその内容を理解していませんから、まわりの僧侶の形を真似るだけです。お経を読むにもただ声を合わせるだけで言葉の意味は分かりません。多くの者は切実に仏道を求める志を初めから持っているわけではないので、確かな自分を持たないまま、右へ行ったり左へ行ったりしながら修行生活を送ることになります。しかし、それでいいのです。先輩の僧侶たちも皆そうやって来ました。そんな彼らにとって、わかりやすい形で修行を実感できるのは作務です。暑くても寒くても、たとえ非効率な内容であっても、目の前の作業に黙々と集中します。「こんなこと嫌だなあ、早くやめたいなあ」、「このまま作務を続けていれば、いつか悟りが得られるのかなあ」、「もっと効率のいいやり方があるのになあ」などと頭の中では忙しくしていてもそれを口には出さず、ただ黙って作業をします。

考えてみると、私たちはいつも目標を設定したり、目標を達成するための楽で速い方法は何かと考えたりします。またある作業をしながら頭の中では別のことを考えたりもします。本当は、余計なことは考えず目の前の作業にだけ集中すればいいのにそれができません。仏教は、過去や未来に思い煩わず、今のこの瞬間を生き切ることを説いています。過去のことはすべて過ぎ去ったことで変えようがありません。未来のことはどんなに考えてもその通りになる保証はありません。ただ一つだけ確かで私たちが思い通りにできるのは、今のこの瞬間だけです。だからこそ今のこの瞬間を善く生きなさいと仏教は説くのです。未来は今の積み重ねの結果というほどの意味しかありません。

この道理を教えられた修行僧たちは、黙々と作務をすることとこの瞬間を善く生きることとがどう繋がるのかを考えることになります。それは新参者にも古参者にも平等に与えられた課題です。

住職代理 無聖(むしょう)

私の修行生活

無学老師は修行僧たちに「善いことだけしなさい」と言います。しかし理解の遅い私には「ことさら善いことをしなくてもいい。欠点を一つずつ消していきなさい。そうすれば放っておいても善くなる」と諭します。老師の一言がきっかけで一足飛びに高い境地に達する僧もいますが、私は違います。その時々でいちいち欠点を改めながら地道に進むしかないと思っています。私の数多い欠点の中で三つだけをここに記します。

① 出し惜しみする時がある。
② 自慢話をしたり人を非難する時がある。
③ 我慢できずに怒る時がある。

私の心の中にはけちん坊がいます。物に限らず心も出し惜しみする自分です。だからこそ、惜しまず与えることを第一の修行と捉えています。調子に乗って口数が増えると、自分のことを誇らしげに話したり人を非難することがあります。そんな時は「私はエゴが強く心根が卑しいのだ」と言い聞かせて言葉を慎重に選びます。これが第二の修行です。相手の暴言に対して同じように言い返すことがあります。売り言葉に買い言葉です。怒りや暴言は、私が大切に築き上げてきたものを一瞬で破壊します。これまでの修行が台無しです。そうならないように相手の怒りには反応せず、徹底して耐えることを第三の修行としています。

もしもあなたが私に対して「出し惜しみしない人」「悪口を言わない人」「怒らない人」という印象を持ったとしたら、それは私が心の中で必死に努力をしている結果だと思ってください。本来の私はその逆なのですから。私のような愚鈍な者でも正しい方法で努力をすれば必ず善くなるとお釈迦様は説かれました。老師は「人は心に願ったとおりの人間になる。善い人になるためには、善い人になりたいと願うことだ」と言います。私はお二人の言葉を信じて修行生活を続けています。

住職代理 無聖

私が思う仏門の魅力

心の中の苦しみを消すにために私たちにできることは、自分で乗り越える力を持つか、または支え導いてくれる善良な人を持つかです。

どちらか一つでも手に入れられたら幸せなことだと思います。実際に多くの人がそうやって苦しみを乗り越えています。とても有り難いことですね。問題はどちらも手に入れられない人です。苦しみの中でさらに苦しみを深めていくような人です。孤独を感じ、生きづらさばかりが増していきます。時々「正雲寺に入門したい」と仰る方がいます。具体的なことは分からなくても、仏門に対して何らかの魅力を感じておられるのでしょう。

仏門では、苦しみを乗り越える力を養うことができます。そして支え導いてくれる善良な人もいます。正確には「善良であろうと努力する人」ですね。お釈迦様の教えという明確な指針がありますから、私たちはそれを学んで実践します。そうやって自力を養うことができます。また、皆が「心の中の苦しみを消す」という同じ目的に向かって修行していますから、同志としてお互いに支え合うことができます。

仏門に入れば、すぐに苦しみが消えるわけではありません。仏門では僧侶も寺人も誰もが同じ目的に向かって修行をしています。見方を変えれば、誰もが修行途中の未熟な人間だということです。未熟ですから愚かなこともします。人を困らせたり、傷つけたりもします。その度に私たちは懺悔(さんげ)をして再出発を誓います。この点では、俗世間とあまり変わらないかもしれません。

私が感じている仏門にしかない魅力とは、苦しみを作り出す愚かな自分を素直に認めて修行に専念できることです。お釈迦様の教えを学び、それを実践します。心の中の悪が邪魔をして実践できなかったり、実践しても失敗したりします。その度に反省してやり直します。実践できた時には、自分が一つ成長したことを喜び、支えてくれた人々に感謝します。毎日がこの繰り返しです。そして嬉しいことに、私たちはこの繰り返しに飽きることはなく、それどころか幸せさえ感じています。その上、時々ですが、自分の修行の成果が人の役に立つことがあるのです。その時の嬉しさはまた格別です。愚かな自分から目を背けず、修行によって自分を改善し、結果としてそれが人の役に立つ。俗世ではなかなか得られないことではないでしょうか。

正雲寺は山の中にあって、携帯電話はつながりません。テレビも映りません。自然も厳しくて楽に過ごさせてはくれません。それでも心静かに自分を見つめるには最適な環境だと思っています。もし支え合える同志がいるなら喜んでお迎えします。

住職代理 無聖

仏門の安心感はどこから来るのでしょう

仏門には独特の居心地の良さがあります。何とも言えない安心感です。私は、この安心感はどこから来るのだろうと考えることがあります。正雲寺が静かな自然の中にあるからでしょうか。ご縁ある方々と善い関係を築けているからでしょうか。もちろんそれらもあるでしょうが、一番は、お釈迦様が私たちの心にある苦しみを決して否定しないからだと思います。

「そんなのは苦しみじゃない」「心が弱い」「現実から逃げている」。こういった言葉をよく耳にします。私も言われたことがあります。私はこのように否定されると、苦しんでいることが悪いことのように感じてしまいます。こうした言葉で傷つきたくないので、誰にも言わずにいようと思ってしまいます。皆さんはいかがでしょうか。苦しいのに苦しいと言えない。それがまた苦しみを深めます。しかし仏門では、苦しいことは苦しいと素直に言うことができます。お釈迦様は苦しみを否定する言葉は一言も言いません。ただ「よく来たね」と仰るのです。

このお言葉が示すように、仏門は昔から心に苦しみを抱く人や社会で生きづらさを感じている人を迎え入れて来ました。これは言い換えると、救いを必要としない人々には縁のない存在だということです。多少の苦しみはあるにせよ、自分の努力によって解決し、社会の一員として調和し幸福を感じられる人に仏門は必要のないものでした。仏門は、お釈迦様の時代から今日まで、自分で解決したくても解決できずに苦しんでいる人のためにあります。仏教を必要としていない人に仏教を強いることはないのです。

仏門に入門すれば、苦しみが魔法のように消えるわけではありません。お釈迦様のような偉大な先生がいて、手を取って導いてくれるわけではありません。仏門では、先輩と後輩の違いはあるにせよ、誰もが同じように苦しみを抱いて生きています。「お坊さんは苦しみとは無縁では?」と思われるかもしれませんが、それは大きな誤解です。お悟りになったお坊さんは別ですが、修行中のお坊さんなら誰でも苦しみと向き合っています。そもそも仏教の目的は苦しみを消すことにあるからです。ですから仏門に入門するとは、同じ目的を持った仲間と一緒に支え合いながら修行をするということです。一人で修行するよりは心強いはずです。

本当はできるのに力を出し惜しみしたり、面倒くさいなどと言って怠けたりする人は、何をやっても苦しみが消えることはありません。もしあなたが懸命に生きていて、それでも生きづらいと思うなら、私は現実から逃げてもいいと思います。その現実が本当に正しいものなのかを見直す時間が必要です。英気を養って再び社会に出ていくのか、それとも仏門に残って心の平和を求め続けるのか、新しい選択が訪れるのを待てばいいのです。こうした寛容さも仏門の安心感につながっているように思います。

会津本山 住職代理 無聖(むしょう)