法話

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問い:生きていく上で大切なことは何ですか。

私がかつてそうであったように、若いあなたには理解できないかもしれません。しかし、私はあなたに自信をもって言うことができます。もしも心の根っこに「感謝」がなかったら、あなたの人生はとてもつまらないものになります。今はわからなくても、「感謝の心を土台にして充実した人生が築かれる」ということを知識として持っていてください。いずれ、それが本当だと気づく日が来ます。できれば、若いうちに気づけるといいのですが。

おそらくこの世の中で、感謝の心なしに成功している人はいないでしょう。先日、ある実業家にお会いしました。その方は、世界を相手にして、地位と名声と富を得た、いわゆる成功者です。私が「生きていく上で大切なことは何ですか」とお尋ねすると、その人は、即座に「どのような生き方をしようとも、感謝がベースにあることです」と答えました。

「ありがとう」とは、「有り難い」、「あり得ない」という意味です。損得勘定ばかりの世の中で、あなたには、見返りを求めず、ただ善意だけで、あなたを助けてくれる人がいますか。その人は、「有り難く、あり得ない」ほど貴重な人です。そのような人に接した時には、感謝せずにはいられないという気持ちが自然に湧き起こるようでなければなりません。そうならないなら、それはたんにあなたが人として未熟であり、愚かというだけです。誰でも、かつては未熟で愚かでしたが、人生の苦しみを経験し、もがきながら乗り越えていくことで成熟し、人と人との関係は、良くも悪くもあり得ないことだと実感し、学び、そして本当の「ありがとう」を会得するのです。言葉だけの薄っぺらい「ありがとう」とは違います。

あなたが正しく努力しているなら、人生の途中で人を恨むことになっても、また人から恨まれることになっても、やがては、その人に感謝する日が来ます。恥ずかしい話ですが、私は、若い頃、父親を恨んでおりました。二十年以上も父親とは絶交状態でした。そういうわけですから、私は若い頃から家族をあてにせずに、一人で生きていくことを考えていました。父親への反抗心が私の独立心を養ってくれたのです。もちろん、親の助言がありませんから、色々と間違いも犯しました。しかし今となっては、その間違いも良い人生経験です。決して良い親子関係とは言えませんが、その延長線上にしか今の私の仏道はなかったと思います。今私が感じている、仏門で生きることの幸福を思えば、恨みの対象であった父親は、実は大恩人であったということになります。また、私は人から恨まれることもありました。自分では、恨みを買うようなことはしていないと思っていても、相手の怒りはおさまりません。私から見れば理不尽だと思えることも、相手からして見れば確かな理由があるのです。人は、自分の思いたいように思いがちです。私は、人と人とが和合する素晴らしさを知りつつも、同時に人間関係を簡単に壊してしまう自我の悪質さを痛感しました。この学びは私の宝なのです。たとえ恨み恨まれることがあっても、それは正しい学びとなって自分を成熟させ、幸せを得るための種になり得ます。そうであれば、その人はもはや大恩人です。

楽しい思いをした時はもちろんのこと、苦しい思いをした時でさえも、感謝の心を持つことができます。結局は、幸せと不幸せ、楽しみと苦しみの間で生きる人間は誰でも、感謝の心一つに帰着するのです。その気づきに早い遅いはあっても、帰るところは一つです。逆説的ですが、心の根っこに「感謝」があるということは、正しく努力して、正しく生きている証しとも言えます。

あなたのおかげで、年の始まりに「感謝」について書くことができました。私にとって善いスタートになりました。ありがとう。

住職代理 無聖(むしょう)

怨(うら)みから離れる

先日、「母親を怨んでいる」と言う六十過ぎの人と話をしました。その人が負った数々の苦しみを聞いて、私は同情する気持ちになりましたが、他方では、「六十も過ぎているというのに、人を怨んだり怒ったりすることに何の意味があるのか」と考えていました。この人ばかりではありません。程度の差こそあれ、相談に来られる人の多くが、怨みの心を持っています。宗教は「怨みを捨てよ」と説きます。しかし、信仰をもってしても、この世から怨みの心は無くなりません。家族が怨み合うのなら、その先にある民族や国家が怨み合うのも当然です。悲しいことですが、これが人間の現実です。

「人は、人を怨むためにこの世に生まれてきたわけではない」

無学老師が臨終で語った言葉です。私は老師の口から怨みの言葉を聞いたことがありません。老師は波乱の人生を送った人ですから、怨み怨まれることもあったでしょう。その老師がこの言葉を残したのには理由があったと思います。もしかすると、老師自身も心の奥底に捨てきれない怨みがあり、その心と闘い続けていたのかもしれません。私はまもなく還暦を迎えますが、最近になってやっと老師の言葉を理解するようになりました。人生の意義や残された余生を否応なく考える時、怨みや怒りで費やす時間がいかに無駄であったかと気づくのです。私はこんなことをするために生まれてきたのではないのだと。

私は、若いころ、父親を怨んでいました。父親の人生哲学に馴染めず、二十年間も反抗して関係を断っていました。その後、紆余曲折があって父と再会し、父子の関係を修復しようと努めましたが、その最中に父は亡くなりました。親不孝もそうですが、二十年間も怨みの心を持ち続けたことを、私は今後悔しています。怨みは心を汚します。自分でも気づかないうちにです。怨みの心を持つ人は、清らかな心、清らかな言葉、清らかな行動が作り出す清らかな世界を知らないまま汚れた世界を生きることになります。それも、自分が世界を汚しているという自覚のないままにです。お釈迦様は「心を清らかに保て」と説きます。心が清らかなら住む世界も清らかになると。そのような美しい世界があるとも知らず、私は、この有限の人生の中で、長い年月、時間を無駄にしたのだと思います。そんな私から怨みの心を持つ人にお伝えしたいのは、「怨みから離れる」ということです。

怨みを完全に捨てられるなら、それが最善です。しかし、私がそうであるように、愚かな人はそれができません。そこで、私が実践していることをお伝えします。捨てられないなら、離れる時間を多くするのです。そのためには、心の中にたくさんの引き出しを持つといいでしょう。昔、お医者様が使っていた「薬だんす」のようにです。

引き出しの一つに「怨み」とラベルしておきます。大切なのは、この引き出しを開けないことです。引き出しを二、三しか持っていなかったら、頻繁に開けて中身を見ることになりますが、引き出しを何十も持っていれば、開ける時間が少なくなります。時には開けることすら忘れてしまうでしょう。このようにして、怨みと共存しながら、怨みから離れる時間を多くし、やがて怨みを捨てられる日が来るのを信じて待つのです。その間に、「怨み」とは何かを明らかにしてくれる真実の教えを学ぶのです。未来の成熟した自分が怨みの根を断ってくれます。その時、武器になるのは「感謝」です。しかし、これを真の武器にするまでには長い時間がかかります。私たちが知る日常的な「感謝」とは違います。苦しみを他人のせいにせず、因果の道理をわきまえ、それらを保つ人だけが獲得できる本物の「感謝」です。この「感謝」を獲得するまでは、怨みは引き出しに閉まっておくことです。引き出しを開けたままにすると、怨みの心、怨みの言葉、怨みの行動に支配され、怨みの世界を生きることになります。それは修羅地獄というものです。怨みが持つ悪のエネルギーを軽く見ずに、厳重に管理しなければなりません。

私たちは、人を怨むためにこの世に生まれてきたのではありません。因果の道理のもとで、自ら幸福になり、他人をも幸福にして、善の因果を未来の命に繋げるために生まれてきたのです。生きとし生けるものは、自を利して他を利しながら生きています。これが自然の営みです。人を怨むことは、自を害して他を害することです。わざわざ営みに反して不自然な生き方をする必要はありません。不自然な生き方はどこかで必ず破綻するものです。

住職代理 無聖(むしょう)

心の平和

かつて、無学老師は「心が平和でない者は、人の心を平和にすることはできない」と言いました。たとえば、海の中で溺れている人がいるとします。その人は助かりたい一心で必死にもがいています。そしてまた、そのすぐ隣りに、同じように溺れて必死にもがいている人がいるとします。この場合、片方の人はもう片方の人を助けることができるでしょうか。おそらくそれはできないでしょう。それぞれが、自分のことで精一杯だからです。ではいったい誰が溺れる人を助けることができるでしょうか。それは、頑丈な船、つまり十分に安定した船に乗っている人だけが助けることができるのです。これと同じことが、私たちの心にも言えます。老師のいう心の平和とは、人を助けるために、心が十分に安定しているということです。当たり前のことなのに、この当たり前のことが、度々おろそかになりがちです。老師は「まずは自分をととのえなさい。人助けはそれからだ」とも言いました。利他を重視するあまり自利をおろそかにしてはならないのです。「人の役に立ちたい。人を幸せにしたい」という意気込みを聞くことがあります。そのような志しを実現しようと思うなら、それにふさわしい心を持たなければなりません。もしも、簡単に心を乱したり、悪い心を起こすようなら、それは程遠いといえるでしょう。

心の平和、心の安定、自分をととのえる、それぞれ表現は違いますが、私たちがなすべきことは一つです。それは自分を知ることです。もしあなたの心が平和ではないのなら、その原因を他人にでなはく、自分の中に探ることです。その作業は、主観を除いた客観的分析でなければなりません。人は誰でも自分をひいき目に見るからです。最初期の仏典には、この客観的分析が多く記されています。独善や感情を除いた極めて冷静な分析です。難しいですが、ひと通りご紹介します。探究心のある方はご自分で紐解いてみてください。人間一人の存在は、肉体の要素1と精神作用の要素4の合計五つの要素に分解されます。すなわち、色・受・想・行・識です。色(しき)は人間の肉体を指し、受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)は人間の精神作用を指します。肉体の要素はただ一つなのに、精神作用の要素が四つも存在する理由は、人間の精神がそれだけ複雑だからです。そしてここからがたいへん重要な分析です。釈尊は、これらの五つの要素はそれぞれ無常であると説きました。そして無常であるから苦であり、苦であるから無我でり、無我であるから、これはわが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない、と説きました。そして最後に、この正しい智慧によってありのままに観察し、五つの要素に執着することを止めよと言ったのです。そうすれば心の平和が得られると。自分を知るとは、私たち人間も他の万物と同じように移ろい変わる存在であり、執着しても意味がないと知ることです。執着とは、移ろい変わるものに対して変わらぬことを望むことです。望んでもそれが叶うことはありません。そこに苦が生じるのです。歳をとりたくない、死にたくないと願っても、私たちは必ず歳をとり、死に至ります。その移ろい変わりを止めることは誰にもできません。

私は、この教えを聞いた時「釈尊は、肉体の活動、精神の働きによって成される人としての向上をあきらめよと言っているのだろうか。それは虚しいことではないか」と思いました。しかしそれは浅はかでした。釈尊は、執着するのを止めよと言ったのです。肉体の活動と精神の働きを否定しているのではありません。それらは、私たちの執著する心によって営まれるのではなく、正しい智慧のみによって営まれるべきであると、そのように説いているのだと思います。対象に執著する心を捨てて、対象をありのままに受け入れることなのです。たとえば、死に至る病気になった人がいるとします。もしその人が「なぜ自分がこんな目にあうのか」と悲嘆し、悩み、怒り、恐れ、不安に苛まれるならば、それらは執着となるのです。しかしもし「私は死に至る病気になったのだ」という事実だけをありのままに受け入れたのなら、それは心の平和となるのです。江戸時代の僧侶に良寛(りょうかん)というお方がいます。良寛様の言葉は、まさにこの境地を表しているのです。最後にご紹介します。

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候

住職代理 無聖(むしょう)

あきらめてはダメ

若い頃から自分の好きなように生きてきた人の中には、事にあたって辛抱が足りず、すぐにあきらめてしまう人がいます。好きなように生きるということは、何かを始めるのも自由ですし、終わらせるのも自由ということです。それは、志しや目標をもっている人にとっては良いことですが、ただ何となくその時々で好きなことをし、飽きたらやめるということを繰り返す人にとっては良いとは言えません。そういう人は、簡単なことばかりに手を出し、難しいことは避けがちです。いつの間にか、問題に立ち向かう勇気は退化し、安心を確保できる狭い範囲の中だけで閉じこもって生きることになります。心は弱くなり、妄想や不安を抱きながら生きることになるのです。

世間には、難しいことをしなくても何とか生きていけるという人もあるでしょう。しかしそれは、誰かがあなたに代わって難しいことを引き受けてくれているだけかもしれません。そうだとすれば、あなたは、この苦しみの多い、次から次へと問題が起こる人生において、その人抜きでは生きられないということです。それは、自分の力で困難を乗り越え、その先にある福楽を手にれるという醍醐味(=人生の本当の面白さ)を放棄することでもあります。私は、実際に、丈夫な心身を持ちながら、そのようになってしまった自分を後悔し、途方に暮れるばかりの人を知っています。その人は、「このままではいけない」と頭では理解していますが、口から出るのは、「できない」「したくない」といった言葉ばかりです。あきらめること、人頼みにすることが習慣になっているのです。

私は、特に若い人に言いたいのです。あきらめることを習慣にしないでください。「できない、したくない」といった言葉を口にしないでください。それらの言葉は、耳から入って心に至り、あなたの勇気を退化させます。一つのことに取り組めば、できないと思うことや、したくないと思うことも、たくさん出てきます。おそらくは学校の勉強もそうでしょう。しかしもしそこであきらめてしまったら、「できない、したくない」という言葉を死ぬまで言い続けることになるかもしれません。そのように、自分の世界を狭めて、小さく偏って生きるようなことを、若いあなたにはしてほしくありません。勇気さえあれば何でもできます。勇気はあきらめない心から生まれます。あきらめない習慣が、あなたに自信を与えます。そして、勇気を育ててくれます。勇気が大きくなるほど、目の前の問題はどんどんしぼんで小さくなっていきます。生きる苦しみも、勇気によって、ことごとく福楽に変えることができるのです。「ああ、面倒くさい。こんなことできない。こんなことしたくない」と言いたくなる時は誰にでもあります。「よし、それでもやろう」と踏ん張る人と「やーめた」と簡単にあきらめる人とでは、結局は、手にいれる幸福に大きな違いがあるのです。

住職代理 無聖(むしょう)

苦しみを無くす

 

新年明けましておめでとうございます。
皆様のお支えにより正雲寺は464年目の新年を迎えることができました。
僧侶一同、心より御礼申し上げます。
この一年が皆様にとりまして幸多いものとなりますようお祈りいたします。

 
自分とは関係なく外からもたらされる苦しみがあります。事故、災害、戦争などがそうです。しかし他方では、自分が作り出す苦しみというのもあります。

私たちは、痛み、悲しみ、憂い、怒りを抱き、「なぜこれほど苦しまねばならないのか」と自分に問うことがあります。もし今のあなたがそうなら、仏教を学んでください。信仰としてではなく、学問としてです。お釈迦さまの教えは実に合理的です。神秘や情緒を語らず、常に論理的で明解です。信仰に頼らずとも、それを学ぶ者すべてが智慧を得ることができます。お釈迦さまは「人生は苦しみの連続である。その苦しみを作っているのは執着する心である。執着する心は智慧によって滅ぼすことができる。智慧を獲得するには具体的な方法がある」と言いました。受容・自覚・学び・実践の順で苦しみを減らし無くすことができるというのです。執着する心とは、言い換えれば「自分の思い通りにしたい」という欲求です。苦しみの大半は「自分の思い通りにしたいが、思い通りにならない」という現実から生じます。素直な気持ちで自分の心を見つめましょう。今の苦しみが自分の執着心に起因するなら、原因を外(他人や環境)に探すのはやめましょう。自分の苦しみを正しい智慧によって理解する人は、正しいスタートラインに立つことができます。その人は、正しい道を歩み、正しいゴールに到達します。

在家得度について

在家得度をした者は、仏の教えを生きるための指針とし、仏教に則った生活態度で社会生活を営むことになります。剃髪(ていはつ:髪をすべてそり落とすこと)して袈裟(けさ)をまとい寺に住む出家得度者とは違い、在家得度者は有髪のまま家に留まり、家庭を持ち仕事に従事します。今回は在家得度についてご紹介します。

古来、仏教教団を構成する人々は、次の四つのグループに分けられます。第一は、男性の出家者(比丘:びく)で構成されたグループです。第二は、女性の出家者(比丘尼:びくに)、第三は、在家の男性信者(優婆塞:うばそく)、そして第四は、在家の女性信者(優婆夷:うばい)です。これら四つのグループを総称して「四衆:ししゅ」といいます。仏教教団はこの四衆によって構成され支えられています。釈尊の存命時は、四衆は一律に仏弟子として尊ばれていました。優婆塞と優婆夷は、主に比丘と比丘尼の衣食住を支える役割を担いましたが、中には非常に智慧の勝れた人々もおり、出家者に先んじて覚りを開く者もありました。一概に四衆を優劣で語ることはできません。さて、この四衆のうち、優婆塞と優婆夷になることが、いわゆる在家得度です。

大乗仏教を奉ずる正雲寺では、在家得度を望む者に対して、儀式(授戒会:じゅかいえ)を開き、その中で十六条の戒〔仏教信者が守るべき行動規範〕と法名を授けています。また、この授戒会に先立ち、過去に犯した罪について告白し懺悔(さんげ)をします。戒と法名を授かった後は、仏弟子ならびに正雲寺門弟の自覚をもって生涯にわたり仏道修行に努力精進することになります。十六条の戒は以下の通りです。

  1. 私は仏に帰依します。
  2. 私は法に帰依します。
  3. 私は僧(教団)に帰依します。
  4. 私は清らかな心を持ち、悪い行いをしません。
  5. 私は清らかな心を持ち、善い行いをします。
  6. 私は清らかな心を持ち、人のために尽くします。
  7. 私は命あるものをことさらに殺しません。
  8. 私は人のものを盗みません。
  9. 私は道に反する愛欲を持ちません。
  10. 私は嘘を言いません。
  11. 私は酒を飲みません。
  12. 私は人の過ちを責めません。
  13. 私は自慢したり人の悪口を言いません。
  14. 私は物でも心でも惜しまず人に施します。
  15. 私は怒りません。
  16. 私は三宝を謗りません。

 

授戒会では、この十六条戒を守ることを仏と師僧の前で誓います。1から3は、仏法僧(ぶっぽうそう〔仏:釈尊 法:釈尊の説く教え 僧:その教えを奉ずる教団〕)の三宝(さんぼう)に帰依することです。この三宝帰依を土台にして後の十三条戒があります。特に重要な戒は7です。これを不殺生戒(ふせっしょうかい)といいます。仏弟子は命あるものを殺してはいけません。しかし現実には、私たちは食事のために殺された肉を食べ、外を歩けば小さな虫を踏み殺し、蚊やハエを害虫として殺します。すでに戒を破っているのです。私たちにできることは、その罪深さを常に自覚することです。そして細心の注意を払いながら殺生を最小限にとどめ、それ以上の罪を犯さないことです。「ことさら」とあるのはそのためです。意味もなく、また楽しみのために殺してはいけません。授戒した後、日々の生活においては、以下の三つを修行の要とします。

  1. 心と言葉と行いの三つにおいて十六条戒を破らないように注意する。
  2. 仏の智慧を学ぶ。
  3. 坐禅によって仏の智慧を黙想する。

 

正雲寺では、在家得度を望む方に授戒会を執り行っております。随時ご相談ください。

住職代理 無聖(むしょう)

 

問い:人助けをするには?

答え:まずは身近な人を助けることです。

ある男性が「私は人助けがしたいです。宮沢賢治の『雨ニモマケズ』のような生き方がしたいです」と言いました。ところが話を聞いているうちに、彼が問題を抱えていることを知りました。それは老いた母親と口論になることが多く、時には母親に対して暴力を振るうことがあるというのです。自尊心が強く利他の心を持たない母親を恥ずかしく思っているとのことでした。彼の志は彼にとっては災いとなっていました。自分が理想を求める一方で、その理想に反する他人を許せなくなっていたのです。話の最後に私はこう尋ねました。「身近な人さえ助けられない者が他人を助けることができますか」と。そもそもどんな理由であれ相手が誰であれ人に暴力を振るうような者は人助けを語る資格はないでしょう。このような話はこの男性に限りません。一方で理想を語りながら、他方では理想と矛盾することを自ら行っている人は多いのです。この男性も人を助けたいと言いながら人に暴力を振るい、人を蔑(さげす)んでいます。人助けは相手を選ぶことではありません。身近な人には辛く当たり、遠くの他人には優しくするというのは矛盾しています。『雨ニモマケズ』を愛読するなら、主人公「サウイフモノ」も相手を選んでいないこと、自分が蔑まれても人を蔑まないということを読み取らなければなりません。かつて無学老師は「親孝行ができない者は利他を語るな」と厳しく言われたことがあります。人助けと言うなら、母親に対しても他人に対しても同等にすべきです。自尊心が強く利他の心を持たない老母を正しい道に導くことも人助けです。その努力ができて初めて他人にも目を向けることができます。

住職代理 無聖(むしょう)

学ぶ人と学ばない人

ある友人から「亡き無学老師の言葉をもっと聞かせてほしい」とお話がありました。ありがたいことです。老師の言葉を紹介するのは私の学びでもあります。このブログでいくつか紹介してまいりましたが、今後はもっと積極的に書き残したいと思っております。4月は多くの人にとって新生活が始まる時でもありますので、それに相応しいお話をしたいと思います。

「学んでいる人は心が自由で柔らかい」
「学ばない人は心が狭くて頑(かたく)なだ」

修行僧にとっての学びとは、単に仏教を知識として習得するだけではありません。仏教の実践こそが学びの本質です。では実践とは何でしょうか。私は、日々汚れていく自分の心をきれいにすることだと理解しています。その方法は経典にいくつも明記されておりますが、今お話ししたいのはその一つ一つではなく、学びの態度についてです。その態度とは、今に立ち止まらないということです。常に流れていると言いましょうか、何かに固執してしがみつかないことです。他人のすることやしないことなどには目もくれず、自分のすることやしないことにのみ集中します。いつも自分の汚れた心を観察します。お釈迦さまや偉大な仏弟子たちの教えを学んでいますから、自分が彼らと比べてどれだけ愚かなのかがよく見えるはずです。このような人は何事に対しても謙虚であり慎重です。そうならざるを得ないのです。このような態度の人は「向上に努める人」であると経典に書かれております。自分を卑下したり自分の命を軽んじるようなことはありません。成長は遅いかもしれませんが、確実に向上の道を進んでいることを知っているからです。むしろ安心と喜びと共にあるといっていいでしょう。老師はそのような態度を「自由で柔らかい」と表現しました。一方で学んでいない人は停滞しています。自分の愚かさを顧みないので改善と成長の道が閉ざされています。これでは可能性を秘めた未来の自分を信じることはできません。今の自分を守ることに精一杯なのです。「狭くて頑な」と思われてもしかたがありません。

今が愚かでも構いません。それを自覚できるのは素晴らしいことです。決して恥ずかしいことではありません。自分の愚かさを自覚した人だけが向上に努めることができます。未来の自分へと道が開けるのです。今の自分に安住せず、はるかに成長した未来の自分を信じて前進してください。年老いて心が狭く頑なになっていく人は大勢います。ある時自分でそのことに気づき悩み苦しみます。私はこれまでそのような人にたくさん出会ってきました。その度に「遅くはありません。今からでも本気で自分を変える努力をしてください」と申し上げています。自分の過ちに気づき、変わる努力をするのに年齢は関係ありません。しかし若いうちに気づくことができれば、もっと早くに幸せに近づくことができたろうと思います。

「今学んでも役に立つのはせいぜい10年後だぞ」
「焦らんでもいい。着実にやりなさい」

無学老師の口癖です。知識だけでは人生の役に立ちません。知識は自分の血や肉となって初めて役に立つのです。しかしそれには時間がかかります。「焦らずにやりなさい」という老師の言葉の裏に私はいつも「一刻も早く」という老婆心を感じていました。皆様におかれましては、焦らずに、しかし一刻も早く「学ぶ人」になっていただきたいと思います。

住職代理 無聖(むしょう)

私たちはどうして苦しむのか(改訂版)

私たちはどうして苦しむのでしょうか。人生には楽しいこともありますが、苦しいこともあります。中には苦しみが多すぎて楽しみを忘れてしまった人もあるでしょう。たった一つの苦しみが他のすべての楽しみを帳消しにしてしまうことがあります。そんな時は誰でも「生きるのは辛い」と思いがちです。

お釈迦様は、苦しみの原因は「渇愛(かつあい)」にあると言いました。渇愛とは、のどが渇いた人が激しく水を求めるような激しい執着(しゅうちゃく)のことです。執着には二つの顔があります。自分の好きなものに対する「愛着」と自分の嫌いなものに対する「嫌悪」です。どちらも対象にとらわれて心が拘束されている状態です。愛着が深ければ、失った時の悲しみが深くなります。嫌悪が強ければ、一緒にいることの苦痛が強くなります。愛着も嫌悪も自分の思い通りにしたいという心の現れです。そして思い通りにはならないときに苦しみが生まれます。

愛着と嫌悪が無くなれば苦しみも無くなります。それはつまり「好きなものを作るな」「嫌いなものを作るな」ということです。これは対象に対して「無関心でいなさい」という意味ではありません。むしろその逆です。対象を突き詰めて観察し、「その実相(本当の姿)を見なさい」という意味です。実相とは、私たちが好き嫌いのフィルターを外した時に初めて見える対象の本当の姿、ありのままの姿のことです。しかし実相を見るのはなかなか大変です。なぜなら私たちの心の中には愛着と嫌悪が根付いていて、それらのフィルターを通して対象を見ることに慣れきっているからです。当たり前のように対象を愛着と嫌悪で選別してしまいます。そのはびこり様はとても厄介です。この厄介者を取り除くためには強力な武器が必要です。お釈迦様はその武器として二つの知恵を用意してくれました。それが「無常」と「無我」です。

 

 

この世に存在するあらゆる事物は因縁(初めに原因があり後に条件が揃うこと)によって生まれ、変化し、やがて消滅します。初めに種があり、土や雨や太陽といった諸条件が揃って花が咲くようなものです。条件は刻一刻と変化し、それに応じて花の姿も変化し、やがて消滅します。この一連の動きは一時も止まることがありません。この連続した有り様を無常といいます。私たち人間もこの無常の中で生きています。生まれた時から肉体は老化します。目には止まっているように見えても確実に変化しています。細胞も皮膚も髪の毛も生じ変化し消滅することを繰り返しています。ところが私たち人間はその事実を認めようとしません。それどころか老化を止めようとして変化に抵抗します。移り行くこと(無常)は誰にも止められない事実なのに、時を止めて状態を固定し同じ状態のまま存続させようとします。移り行くものたちの中で自分の執着したものだけは固定した存在であるかのような妄想を抱きます。あらゆる事物は因縁によってその時その時に姿を現しているだけであり、それははかなく生成された現象に過ぎません。固定された確たる存在はどこにもないのです。この事実を無我といいます。無我は対象の存在自体以外にも対象に向き合った時の人の感情にも当てはまります。分かりやすくするために無我の「我」を「自分が感じたこと」と解釈してみましょう。人が感じる器官は六種類あります。眼(眼に見えること)、耳(耳に聞こえること)、鼻(鼻に香ること)、舌(舌に味わうこと)、身(身体に触れること)、意(心に感じること)です。ここでは六つの代表として「舌」について考えてみます。

私は子供の頃、ほうれん草が大の苦手でした。ところが大人になった今では大好物になりました。変わったのは私の感じ方であり、ほうれん草自体は昔も今も変わりません。ですから「ほうれん草はまずいもの」と決めつける私の感覚は正しくほうれん草の実相を言い当ててはいないのです。また「ほうれん草は美味しいもの」という感覚も同様です。では、私の舌の感覚を除外した時に見えるほうれん草の実相とは何でしょうか。「緑色をした野菜」ですか。果たして可視光線の異なる人間以外の昆虫や動物の目にも緑色に映るでしょうか。また彼らにとっは野菜なのでしょうか。こう考えると、「緑色」も「野菜」も人間世界だけで通用する感じ方と言えるかもしれません。このように主体によって感じ方が変わるという世界で対象の実相を見るのはとても難しいのです。もし無常と無我の視点からほうれん草を見るなら、それは因縁によってその時その時に姿を現し、はかなく生成された現象であり、固定された存在ではないとしか言いようがありません。そしてここに至っては「ほうれん草」と名前をつけて他と区別することすら無意味になるのです。

あなたが対象にしているもの、それ自体が無常の中にあって無我なる存在です。あなたが対象から受ける愛着や嫌悪といった感じ方も無常であり無我です。形のあるものも形のないものもすべては移り行くのであり、固定された存在ではありません。空に浮かぶ雲、川を流れる水、谷を渡る風、それぞれが無常の有様と無我の事実を如実に語っています。自然の営みだけではなく、私たち生き物の一生とその心に抱く感情もまた同じなのです。あなたがとらわれているものは移り行くものであり、現象のようなもので実体がありません。そのような捉えどころのないものに対して「こうあって欲しい」「こうでなければならない」という感情を持っても思い通りにはなりません。それはまるで流れる川に一本の釘を打つようなものです。私たちは流れを止めて水を固定しようとしますが実現はしません。そして実現しないことに腹を立てたり悲しんだりしています。もしあなたが流れる川に釘を打つことが無駄なことだと思うなら、対人関係においてもその思いを持てるように努力してください。すべての対象の中で対人関係を挙げたのは多くに人にとってそれが一番切実な問題だからです。嫌いな人、愛する人とどうやって向き合えばいいのか。彼らに心を乱されることなくいつも平和でいるにはどうすればいいのか。それらがとても切実なのです。相手の存在も自分の感じ方もすべては流れる水のようなものであり、釘を打ち込んで停止できるようなものではない(執着するべきものではない)ということを積極的に意識することです。それは本物の心の平和を獲得するための第一歩となります。

どこで聞いたのか覚えていませんが、「世界は執着心でできている」と言った人がいました。お釈迦さまの教えもこのとおりです。そうであるなら、その世界で執着心を捨てよというのはゴジラに対して素手で戦いを挑むようなものかもしれません。しかし驚くことに勝算は十分にあります。それほど私たちの知恵と知恵に支えられた心は強力で偉大なのです。

住職代理 無聖(むしょう)

どうして生きなければならないのか(補足説明)

昨年2月、私は「どうして生きなければならないのか(長文)」というタイトルのブログを掲載しました。その中で私は次のように述べました。

ここで改めて最初の疑問「なぜ生きなければならないのか」を考えたいと思います。これまでお話ししてきた経緯から私が導き出した答えです。

私という命があるから他の命はあり、
私という命がなければ他の命はない。

だから生きなければならないのです。生きる意味も同じです。そして、このことは私の意思や感情や能力とは無関係です。すべては縁起によるつながりなのです。そうであるなら、命は生きているだけですでに役目を果たしていると言えるかもしれません。生きる意味は探すことではなく、すでにそこにあるのです。

もし私たちが、ただ生きているだけですでに役目を果たしているというなら(私はこれを信じておりますが)、私たちの主体性はどこにあるのでしょうか。そして私たちの意思や感情や能力が無関係というなら、それらはいったい何のためにあるのでしょうか。

私はこう思います。命と命のつながりの生滅変化は縁起に任せするとしても、そのつながりを善いものにするか、それとも悪いものにするかは私たちに任されているのではないでしょうか。私とあなたのつながりは縁起によって定められたことかもしれませんが、その関係を善くするか悪くすかは私たちの努力精進次第ということです。そのために私たちは意思や感情や能力を使うことができます。繰り返しになりますが、私たちは生きているというだけで他の命を生かしています。そこに私たちの主体性はありません。それでもなお私たちに努力精進の余地が残っている理由は、その関係をより善いものにすることができるからです。そして善い関係を築くことによって他の命を善く生かすことができるからです。そしてそのことによって結局は双方の命の価値を高めることができるのだと思います。

私は「どうして生きなければならないのか」と問うのは傲慢な態度だと思います。私たちは因果の全容を見通すことはできませんし、縁起の働きを完全に理解することもできません。私が生きているだけで他の命を生かしているというなら、私は黙ってこれに従いたいと思います。できればもっと謙虚になって、「どうして生きなければならないのか」と問うのはやめて、「縁起によって与えられたこの命、その命の価値を私の努力精進によってどこまで善くすることができるのか」と問いたいと思います。

 

住職代理 無聖(むしょう)