法話

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クリスマスおめでとうございます

今日はイエス様の誕生日です。私は信徒ではありませんが、「本当のこと・大切なこと」を教えてくれるイエス様を敬愛しています。そのご降誕を素直に喜びたいと思います。イエス様は、豪華な宮殿ではなく質素な馬小屋でお生まれになりました。このことは私に「静けさの中で、慎ましくあれ」と教えてくれます。私も心静かに、身近な人々への愛を思いながら聖夜を過ごしたいと思います。様々なご縁が一つに実って、今夜は教会のミサに参列させていただくことができました。とても幸せな一夜となりました。

しかし世の中には、今この瞬間も苦しく悲しい思いをされている方もいらっしゃることでしょう。クリスマスどころではないかもしれません。そんな誰にも相談できずに一人でじっと耐えている方にこの話を贈ります。

ある男が夢を見ました。夢の中で男は主イエスと二人で並んで歩いていました。男が後ろを振り返ると、これまでの道のりには、主イエスと自分の二組の足跡が記されていました。ところが、所々、足跡が一組しかない場所があります。男は思いました。

「そういえば、その場所は私が苦しんでいた時だ。
私が苦しんでいた時に限って一組しかない」。
そこで男は傍らのイエスに尋ねます。
「どうして私があなたを一番必要とした時に、
私からお離れになったのですか」。
イエスがお答えになりました。
「いとしい我が子よ。
私は片時もお前の側を離れたことはない。
お前が見た一組の足跡は、私のもの。
私はその時、お前を背負っていたのだ」  

聖書と経典

このブログには、度々聖書の言葉が出てきます。私は、いわゆる“お坊さん”ですが、仏教経典と同じように、聖書を好んで読みます。経典や聖書に書かれている真理には、言葉や民族、国家や宗教の壁がありません。お釈迦さまがお説きになっても、イエス様がお説きになっても真理は真理だからです。私の心の中では両者に違いはないのです。 

聖書は「愛」を語ります。同じように、経典は「大悲」を語ります。いずれも「他者を大切に思う心」のことです。そして「この心によって、他の誰でもなく、あなた自身が幸せになるのだ」と説きます。キリスト教は2000年間、仏教は2500年間、この真理をまっすぐに説き続けてきました。これが歴史的な事実です。ところが私たちはこの事実を軽んじて、他者よりも自分を大切に思う心を優先しがちです。真理とは反対の心です。だから悲しみや苦しみが繰り返されるのです。

利己的な振る舞いは、ある意味で人間の防衛本能です。自分の命を存続させるためには仕方のないこともあります。しかしこれは程度問題です。本能は必要最小限にとどめておかなければ、他者との協調は難しくなります。人は、好むと好まざるとにかかわらず、集団で行動する動物、一人では生きられない動物だからです。私たちは本能の外側で高い理性を身につけることができます。自分にも他人にも悪さをしない程度に本能と付き合い、人生の大半を理性によってコントロールする力があるのです。そしてこの理性は、聖書や経典に書かれている真理に基づいています。実際に手にとって読んでみましょう。その価値は十分にありそうです。

誰も見ていないところで

善いことをしましょう。とかく人の目は気になるものです。善いことをするなら、人に分かるようにしたいのが本音でしょう。しかしそれでは「人によく思われたい」という欲が一番で、「善いことをする」という良心が二番になります。せっかくの良心が欲で曇ってしまいます。ですから、わざわざ人が見ていないことを確認してから善いことをするのがいいのです。これは、あなたが非常な勇気を出して欲を断ち切っている努力の証しでもあります。でも、本当に誰も見ていないと思いますか。神さまはしっかり見ています。そして必ずそれにふさわしい果報(喜びや楽しみ)を与えてくださいます。

「〔善いことをする時は〕右手がすることを左手に知らせてはならない。〔善いことをするのを〕人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに酬いてくださる」(マタイ6.3)

力としての愛を育てよう

前回の記事で私は「素直さは力であり、修練して蓄えるもの」とお話ししました。実は「愛すること」も同じです。「愛すること」も私たちが生まれつき持っているものではなく、後天的な努力によって勝ち取る「力」なのです。なぜなら「愛すること」は智慧に裏付けられた行為であり、とても理性的なものだからです。この智慧とは無関係に誰でも本能的に持っているのが「好き嫌い」という感情です。例えば、あなたに嫌いな人がいるとします。「ひどい仕打ちをされた。裏切られた。傷つけられた」など理由は様々です。とにかく話しもしたくないし、会いたくもないという人です。感情的にはその人を避けて通りたいと思っています。ところが、ある智慧を持てば、そんな相手でも自分の恩人のように思えたり、その人の幸せを祈ったりすることができるのです。その智慧とは「ご縁に感謝する」ということです。

考えてもみてください。あなたは相手のひどい仕打ちのおかげで、ちょっとやそっとのことではへこたれない強い心を獲得したのではありませんか。傷つけられた時の心の痛みが分かるから「自分は人にそんなことはしない」という優しさを持てるようになったのではないですか。ひどい仕打ちをした相手に対してではなく、そのような人を自分の目の前に置いた神仏のお計らい(これを「ご縁」と言います)に感謝するのです。神仏から見れば、私たちは将棋の駒のようなものです。駒の配置には必ず意味があります。そこには神仏の親心やエールが隠れています。その意味を読み解き、自分のプラスにできれば、感謝することができるのです。

私にも嫌いな人がいます。今でも感情的には近づきたいとは思いません。その人からはひどい仕打ちを受けましたが、しかし結果として、その人が直接的間接的な原因となり、私はこうして仏道を歩くことができるのです。最初は「ご縁」に対してだけ感謝をしていたのですが、今では相手にも感謝の心を持てるようになりました。不思議なことですが、この気持ちは徐々にやって来るようです。少し時間がかかります。でもそれが修練というものなのでしょう。嫌いな人でも愛することはできます。その人の幸せを祈ることもできます。本能や感情に振り回されず、智慧によってマイナスをプラスに転換し、人として成熟すること。それが人間として生まれた私たちの特権というものです。「力としての愛」を育てていきましょう。

問い:素直になれません。

答え:素直の正体を知っていますか。

素直とは、偏(かたよ)らないことです。自分を特定のタイプに当てはめないということです。世間には「地味な人」もいれば、反対に「華やかな人」もいます。しかしどちらも素直とは言いません。地味な人は「地味」ということに、華やかな人は「華やか」ということに偏っているからです。同じことが「暗い」「明るい」「気が弱い」「気が強い」などにも言えます。ブッダは、どれも結局は同じエゴだと断じています。一見して好印象のものも、どこかで人を不安にさせることがあります。エゴが見え隠れするからです。

自分を特定のタイプに当てはめれば楽に生きられます。いつも同じタイプを演じればすみますし、自分と異なるタイプを堂々と拒絶することもできます。「色々考えなくてすむ」というのが本当のところかもしれませんね。しかし、この「タイプ」が、私たちの成長(心の成熟)を妨げているのです。

一台の車があります。VIPと呼ばれる人は後部座席に座り、お抱え運転手はハンドルを握ります。もしVIPが「運転は私の仕事ではない。運転手が来るまで待っている」と言い、そして運転手が来なかったとしたら、VIPは永遠に目的地にはたどり着けません。車の役割は、目的地に行くことです。この理(ことわり)が分かれば、VIPは自分でハンドルを握ればいいのです。

偏らないためには、心の成熟が必要です。大切なことは何か、目的は何かを考える力が必要です。本物の「素直」は、天性のものではありません。生まれつきそなわっているわけではありません。後天的な努力によって勝ち取るものなのです。それは「力」です。力は修練して蓄えなければなりません。「素直になれない」と悩んでいるあなたは、どこかで「自分には天性の素直がない」と思い込んで、あきらめているのではありませんか。本物の「素直」は、努力によって得るものです。今からあなたが努力を始めれば、力としての「素直」が手に入ります。安易に自分をタイプに落し込まないでください。タイプの上にあぐらをかかないでください。今の自分のタイプから抜け出す勇気を持ってください。

問い:思い通りになりません。

答え:思い通りにならないのが当たり前です。

ある老人は言いました。「人生は思うままにならないのが当たり前であり、それ故にありがたいのだ。人の思いの中には、良いものもあるが、よこしまなものもたくさんある。それがもし、人の思いのままになるとしたら、我々は安心して生きていられまい。思うままにならないからこそ、安心して暮らすことができ、またより大いなる者への随順の気持ちも起きようというものだ」と。

本当にその通りですね。私の思いの中にも、良い思いとよこしまな思いとがあります。私は自分のよこしまな思いがどんなものかを知っていますから、それが思い通りになって形になることを想像するとゾッとします。思い通りにならなくてよかったと思います。お釈迦様は、よこしまな思いを“悪魔”と呼び、「誰の心にも住みついている」とおっしゃいました。私は、私の中の悪魔を退散させ、良い思いだけで生きられるようにとお釈迦様に祈っています。それが「大いなる者への随順の気持ち」というものでしょうか。

しかし良い思いまで思い通りにならないのは辛いですね。ある人と「良い関係を築きたい。仲良くなりたい。信頼し合いたい」と思って努力しているのに、相手は少しも反応してくれないということがあります。辛いですし疲れます。八木重吉(1898-1927:キリスト教信徒・詩人)はこう言います。

人と人とのあいだを
美しくみよう
わたしと人とのあいだをうつくしくみよう
疲れてはならない

良い思いを通そうとすると、時に疲れます。そう、疲れてはいけないのです。あきらめないでください。無関心にならないでください。あなたが努力して愛を込め続けていることは、神仏をはじめ皆が知っています。

ダメな自分を丸ごと愛する

こう言うと、「失敗したり人を傷つけたりするのは、ダメな自分がやったことだから、みんなは温かい心で大目に見てほしい」などと都合よく解釈する人がいます。「自分は不完全のままでいい。でもみんなは完全でいてください」と、わがままを言っているようなものです。

「ダメな自分を丸ごと愛する」とは、仏さまの前では自分も人も同じくらいダメな存在だと知ることです。だからこそ、お互い様の心で人の過ちを許すことができます。「愛は近きより」という言葉があります。身近な人を愛せるなら、遠くの人(すべての人)も愛せるという意味です。あなたにとって最も身近な人・・・それはあなた自身です。自分を愛せる人は他人をも愛せる人なのです。ダメな自分と真剣に向き合う人ほど、人に優しくなります。「わがまま」ではなく「許し」に昇華させてこそ、この言葉が生きるのです。

問い:子供を亡くして辛いです。

答え:以下は、同じ経験を持つ女性の話です。

子供を亡くしたお母さんがいました。「悲しくて辛くてしかたがありません」と言います。励ましの言葉も、深い悲しみの前では無力のようでした。

しばらくして女性から連絡がありました。聴けば、今は託児所で働いているということでした。子供好きの彼女らしい選択でした。彼女は「悲しみが消えたわけではありませんが、子どもたちに囲まれていると安心するんです」と言いました。私はその言葉を聴いて、とても大切なことを思い出したのです。

彼女の言うとおり、悲しみが消えたわけではないでしょう。それでも彼女は今、安心して暮らしています。悲しくて辛いだけだった以前と比べれば大きな前進です。なぜ安心できたのでしょうか。それは彼女が、自分でも気付いていませんが、幸せになる方法を実践しているからです。幸せに向かって歩いていることを自分でもなんとなく感じているのです。

幸せになる方法は一つです。それは、他人の幸せを考えることです。自分が幸せになりたいなら、他人の幸せを考えることです。反対に、不幸になりたいなら(そんな人はいないと思いますが)、自分の幸せだけを考えることです。自分の悩みでいっぱいで、他人のことに目を向ける余裕がないという人は、幸せには遠いと言わざるを得ません。

子供好きが高じて、子供のために何か役に立ちたいと思い、彼女は託児所で働き始めました。そこでは毎日が子供の幸せを考える日々です。おそらくは我が子を亡くした悲しみを忘れてしまうほどに忙しい日々でしょう。しかしそれが彼女自身の幸せにつながっているのです。

私にも亡くした子がいます。悲しみは消えません。それでも穏やかな気持ちでいられるのは、私が「人の役に立ちたい」と願い、また微力とは言え、多少なりとも実践しているからでしょう。私も彼女と同じように、他人の幸せを考えることによって自分の安心を得ているのです。

悲しくて辛い時には、気力を振り絞って、人の幸せになることをしてください。今のあなたに気力がないのはよく分かります。それでも振り絞るのです。これ以外に安心を得る方法はありません。必ず光が差して来ます。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
メール: mushosan@shounji.or.jp
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貧者の一灯

お釈迦様が説法をする時、人々はロウソクを立てて明りを献じたといいます。数え切れないほどのロウソクがお釈迦様を照らしました。富豪たちは、自分の信心を誇示するために、競い合うようにして何千何万もの明りを献じたといいます。

説法が始まって間もなく、竜巻がお釈迦様たちを襲いました。天幕は吹き飛ばされ、人々も立っていられないほどです。富豪たちの明りは、一瞬の内に吹き消されてしまいました。あたりを漆黒の闇が包むかと思われたその時、人々は会場の片隅で弱々しく燃え続ける小さな小さな灯を見たのでした。それは、夫と子供に先立たれ、今は貧しいばかりの老婆が、自分の髪を売って買い求めた一本のロウソクだったのです。不思議なことに、この弱々しい灯は、荒れ狂う竜巻の中でも決して吹き消されることはありませんでした。老婆の灯はやがて隣のロウソクに飛び火し、そのロウソクがまたその隣のロウソクに飛び火して、ついにはすべてのロウソクに再び火をともしたのでした。

この物語は教えています。それは、「行いの大きさが重要ではなく、行いの中にどれだけ愛を込めたかが重要である」ということを。そして「どんなに小さく弱くとも、愛は万人の心を動かす」ということをです。

私は自分の日々の勤め、多くは地味で目立たない小さな事柄ばかりですが、その小さな勤めの中に私の愛をしっかり込めているかを問います。漫然として流れ作業のようになっていないか?友人の神父は「この小さな教会で行う毎週のミサを、最初で、唯一で、最期のミサにしたい」と言いました。彼も自分に問うているようです。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
http://shounji.or.jp

見えないものを信じる心

私の日常生活は、見えないものを信じる心の上に成り立っています。人から愛されることを信じていますし、人を愛することも信じています。神の摂理も、仏の説く縁起も信じています。ご先祖様の御冥助も、亡くなった幼子の愛も信じています。私の未来の可能性も、人の未来の可能性も信じています。漫然と日を暮らすこともありますが、信じる心を失ったことはありません。見えないものを信じる心は、辛くて悲しくて苦しい時でさえ、私に希望と愛を与えてくれます。“見ないのに信じる人は、幸いである”(ヨハネ20-29)

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
http://shounji.or.jp