法話

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短い命

お寺では毎日、多くの命と向き合います。様々な命を目前にして、私は「命とは何だろう」と考えます。しかしこの問いに対して私は明確な答えを持ちません。生まれること、老いること、病気になること、死ぬこと、これらは人の力ではどうにもならない絶対の真理です。人智の及ばない大きな流れのようなものがあって、人はその流れに身を委ねるだけだと考えられています。そうであるからこそ、「命とは何か」とどれだけ考えても、答えは見つからないのでしょう。答えが見つかるとすれば、真理を真理として完全に理解した時、自らが真理と一体となった時だけなのです。

水子ちゃんをはじめ、幼い子を亡くした親の悲しみは察するに余りあります。また大切な家族だったペットを若くして亡くす悲しみも同じです。命の尊さに人も動物も違いはありません。そのような時、私たちは“短い命”についてどう考えればいいのでしょうか。

言えることはただ一つ、命は何かの理由があってこの世に生じ、また何かの理由があってこの世から滅するということです。私たちの思い計らいとは無関係に命は生じて滅します。私たちにできることは、自分の価値基準で命について長い短いなどと計らないこと、命がこの世に存在した価値を考えることです。

仮に一年間しか生きなかった命があるとします。人はその短かさを悲しむばかりで、その命の価値を見ようとはしません。神仏のおはからい(縁起とも摂理ともいいます)によって、一年間という期限付きでこの世に生じた命は、それに相応しい価値を持っているのです。私たちは可能な限り、その価値を読み解く努力をしなければなりません。一年という期限が付いているからこそ、私たちの心にしっかりと刻まれるものがあるはずだからです。それは“愛”であって欲しいと思います。一年間の命にも、私たちの一生を左右するだけの“愛”があるはずなのです。その愛を読み解いて欲しいのです。

悲しむことと一緒に、短い命が伝えようとした愛を読み解いてください。そしてその愛の価値をさらに高めるような幸福な人生を築いていただきたいと思います。「この短い命があったからこそ、私は本当の愛に目覚め幸せになることができました。私が今こうして幸せでいられるのは、この短い命のおかげです」と、あるお母様はおっしゃいました。このように胸を張って言えるようになってください。あなたが幸せになればなるほど、短い命の価値が高まるのです。一つの命が別の命を幸せへと導く。これが、命がこの世に存在する価値ではないかと私には思えます。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)

問い:私はダメな人間です

答え:大丈夫。そこからスタートです。

ついこの前までは自分の後ろを歩いていた人が、気が付けばずっと先を走っているということがあります。人は当たり前のようにできているのに、自分には同じことができないということもあります。そんな時、人をねたんでも、ふてくされても、結局は自分がむなしい気持ちになるだけです。だから仕方なく自分を責めます。ダメな人間だと前もって宣言することで、人から見下げられないようにしているのかもしれません。でも、そのように自分を卑下することが何の役に立つでしょう。心の痛みはどんどん増えるばかりです。そんな時、私は「ダメな自分も丸ごと愛してください」とお話しします。「ダメな自分に打ち勝て」とは言いません。勝てばいいですが、負けたらどうしますか。結局は堂々めぐりです。勝ち負けでは解決しません。

今から800年ほど前の鎌倉時代、親鸞(しんらん)という偉いお坊さんがいました。親鸞さんは「人の心の中には、恐ろしい毒を持ったヘビやサソリが住み着いている。どんなに善人でも、小さなきっかけ一つでたちまちそれらが現れて毒を吐く。人間というのは簡単に周りに影響されてしまい、その時々で善にも悪にも染まる。とても弱くて、愚かで、もろい生きものなのだ」というようなことを言っています。そしてその上で「自分を良く見せるために虚勢を張ったり、嘘を言ったり、ごまかしたりせずに、ダメな自分を素直に認めて、そのままで仏さまにおすがりしなさい」と言っています。私が「ダメな自分を丸ごと愛してください」と言うのも、私にも親鸞さんと同じ思いがあるからです。

ただし、私は、仏さまにおすがりするだけでなく、自分の力でより良い未来を切り開く努力が必要だと思っています。そして努力する私の背中を仏さまが押してくださるのだと信じています。ダメな自分も立派な自分も両方とも同じ自分です。ですからダメな自分も大切にしてほしいのです。ダメな自分を隠さずに知っているから、それを反面教師にして立派な自分を育てることができます。「すべてがうまく行っている」と思えても、何かの拍子に簡単にダメな自分に逆戻りすることもあります。そうならないように、緊張感を持ちながら、いつも気をつけていることが大切なのです。“ダメな自分”が、緊張感を持続させてくれます。

「ダメな自分だけれど、人に自慢できる事でもないけれど、これだけは心の中で守っている。これだけはまじめに続けている」という事を持つようにしましょう。ダメな自分を認めながら、しかし「これならダメな自分にもできる」という事はちゃんとやるということです。途中でギブアップしてもかまいません。ちょっと休んだら、また始めましょう。自分のスピードでやり続けることです。やれる事は人それぞれです。人と比べる必要はありません。大切なのは続けることです。まず一ヶ月、次に三ヶ月です。三ヶ月続けられれば三年は大丈夫。三年続けられれば一生大丈夫です。

“継続は力なり”という言葉があります。続けられることは、そのままあなたの力となり、生きる自信となります。そうこうしている内に、頑張っている自分が好きになっていることでしょう。それも本当の意味で、自分を愛せる人になっています。勝ち負けや優劣といった対立の関係から一歩退いて落ち着いていられる自分を愛するのです。自分が話題の中心にいなくても、縁の下の力持ちでしかないとしても、そんな自分をニッコリ笑って愛するのです。世間の価値観に振り回されることなく、自分のやれること、やれないことを知っている人、ダメな自分から目を背けない人だから、人の弱さや悲しみが分かるのです。そこに、人を憐れみ人を愛する気持ちが生まれます。つまり、ダメな自分を愛せる人は、人をも愛せる人なのです。人を愛せる人は、どんな時でも幸せでいられます。これは真理です。

大丈夫。ダメな自分からスタートしてください。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
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問い:ペットを火葬した後、すぐに埋葬してもいいですか?

答え:四十九日間はご供養をしてあげてください。

故人の場合と同じで、四十九日間はお骨を前に追善のご供養をします。初七日から七七日(四十九日)まで一週間おきのご供養です。四十九日を過ぎて埋葬する際は、お骨を木綿のハンカチや手ぬぐいなどで包んでから埋めます。覆い袋や骨壺は廃棄しても大丈夫です。埋葬した後は、花を植えるなどして、そこに大切なペットが眠っていることが分かるようにしてください。ペット用の小さな墓石もあります。以降は折に触れて手を合せ、話しかけてあげてください。他人の所有地に埋葬すると不法投棄と見なされますのでご注意ください。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)

問い:不幸が続くのは水子を供養していないからですか?

答え:「水子」ではなく「我が子」として見てください。

「水子のたたり」などと言って不安をあおる人がいます。本当にたたりというものがあるのでしょうか。不幸が続くのは水子のせいでしょうか。せっかくのお尋ねですが、私には分かりません。

ある人がお釈迦様に「人は死んでも魂は生き続けるか」と尋ねたところ、お釈迦様は「一生考え続けても答えが出ないようなことを思い煩うな。人生にはもっと考えなければならないことがある」とおっしゃいました。私はこのお言葉に従います。同時に、私は水子について一つの信念を持っております。私自身が正しいと考えることです。それは、水子は人を恨むような悪の心を持たない純粋な精霊だということです。このように言うと、水子は善の心だけを持った精霊だと思われるかもしれませんが、それも違います。人の本性は善でも悪でもありません。その中間です。善い境遇にあれば善の心に傾き、悪い境遇にあれば悪の心に傾くのが人の性です。どちらの境遇にもない水子はその中間と言えます。これゆえに「純粋」と申し上げたのです。

善でも悪でもない水子ではありますが、私は第三の心があるように思っています。それは親子の心です。親は子を愛し、子は親を慕います。親子の心は善悪の彼岸にあって、両者を固く結びつけています。子はどこまでも親の愛情を待っています。恨みごと一つ言わずに、ただ待ち続けているのです。子の思いに、親が愛情をもって応えること。この関係以外にはありません。そこにいるのは水子ではなく我が子です。我が子を「怨霊」のように言うのはやめてください。ただ我が子の幸せだけを願ってご供養をしてあげてください。我が子の幸せこそ、親の幸せなのですから。

ご質問には、自分の幸せを第一に考えるあなたのエゴが見え隠れしています。そもそもそのような考え方では真の幸せを得ることはできません。あなたが不幸続きだと思うのも、そこに本当の原因があるようです。真の幸せは、自分ではなく人を幸せにするところから始まります。自分の幸不幸を基準に考えるのではなく、我が子の幸不幸を基準に考えてください。

水子ちゃんのことでお悩みの方は、いつでもご連絡ください。なんでもお話しください。ご相談は無料です。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)

問い:最愛のペットを亡くしました。悲しくてたまりません。

答え:今は泣けるだけ泣いてください。

子供の頃、私の家には吹雪(ふぶき)という名の犬がいました。私と吹雪はとても仲良しで、家族もうらやむほどでした。吹雪は私との時間を一秒も無駄にしたくないという様子でいつも私のそばにいました。そんな吹雪を家族は「この子はどこか生き急いでいるね」と言うのでした。その言葉のとおり、吹雪は4歳でこの世を去りました。鼻にガンが見つかったのです。顔の半分が陥没し、痛みのせいで体をふるわせる吹雪。私がそばに寄ると、吐血しながらも起き上がろうとします。安楽死のための薬を投与された時、最後の力で頭を上げて私の顔をじっと見つめました。その時の吹雪の目を今も忘れません。私は毎日泣き続けました。当時「ペットロス」という言葉はまだありませんでしたが、私はその典型だったと思います。もう30年も前のことです。

しかし今は違います。吹雪のことを思うと穏やかな幸福感に包まれます。悲しみが消えたたわけではありませんが、私の中で悲しみと幸福がうまく同居しているのです。今なら分かります。一方を好んで一方を嫌うことなどできません。どちらも吹雪だからです。吹雪を丸ごと愛する心が一層強くなったことで悲しみを見直すことができるようになったのでしょう。

深い悲しみを癒すのは愛です。私が得た教訓は、吹雪のすべてをありのままに受け入れて愛することでした。やせ細った体も吹雪が流した血もわずか4年の命もすべてが吹雪の一部です。そう思える時、悲しみは悲しみでなくなります。私が勝手に「悲しみ」と決めつけていたのです。「すべては私の心しだい」。これが私の気づきです。少しでもお役に立てば幸いです。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)

問い:ペットにもお葬式が必要ですか?

答え:それはあなたのお心しだいです。

お葬式は、亡くなった命が天国への道を歩むために最初にくぐる「門」だと思ってください。どこに向かえばいいのか迷っていた精霊(亡くなった命)が、お葬式によって、この正しい門を見つけることができるのです。そう考えれば、すべての命にとって、お葬式は必要ということになります。しかし、何より大切なのは、あなたの「ご供養をしてあげたい」という清らかな心です。

仏教では、動物も人間も同じ命と考えます。命は過去世・現世・来世の三世を永遠に生き、「生まれて死に、また生まれて死ぬ」を繰り返します。これを仏教の言葉で「輪廻転生:りんねてんしょう」と呼んでいます。この繰り返しの中で、たまたま動物として生まれ、たまたま人間として生まれただけと考えるのです。私たち人間も来世には動物に生まれ変わるかもしれませんし、ペットは人間に生まれ変わるかもしれません。荒唐無稽に聞えるかもしれませんね。大切なことは、私たちは皆同じ条件のもとで生きているということです。ですから、命の尊さに違いはなく、そこには差別はないのです。

人が亡くなった時は、誰でも当たり前のようにお葬式をします。動物だからという理由で命を軽んじていいわけがありません。他の命を軽んじるということは、自分の命を軽んじることでもあるのです。命を尊ぶ心は、人に対しても動物に対しても同じでありたいと存じます。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)

問い:何をやってもうまく行きません。

答え:そんな自分を丸ごと愛しましょう。

失敗が続いたり、挫折をしてしまうと、自分のことが嫌いになることがあります。「こんな私は生きる価値がない」と思い詰めたりもします。おそらく多くの人が同じ経験をお持ちでしょう。私もそうです。特に器用でもなければ、利口でもない私は、努力することでしか人並みにはなれないと思っています。私なりに努力を重ねてはいますが、それでも心の片隅には、“努力してもカバーできない、どうしよもなく愚かな自分”というものを持っています。厄介なことから逃げたり、やるべきことを怠けたりする“分かってはいるけど、そうできない自分”です。そんなダメな自分を捨て去りたいと思いながら、けっこう楽しく一緒に暮らしているのです。

私は、そんなダメな自分も含めて丸ごと愛せる心を持ちたいと思っています。心理学者のカール・ロジャーズは、「人間には有機体として自己実現する力が自然に備わっている。有機体としての成長と可能性の実現を行うのは、人間そのものの性質であり、本能である」と言っています。人間は、どのような状況下でも成熟に向かって前進する力を本能的に持っているということ、うまく行っても行かなくても、成功しても失敗しても、どんな状況に置かれても、私たちは必ずそれらを自分の成熟に活かすことができるということです。その自己実現力を信じること、それが自分を愛するということです。逃げることも怠けることもあるけれど、決してそれだけでは終わらないものを持っているからこそ、自分を愛せるのです。

自分を愛することは、利己主義とは違います。利己主義の人は、いつも自分が中心でなければ気が済みません。中心にいる自分なら愛せますが、脇にそれた自分は愛せないのです。自分は縁の下の力持ちで、他人が中心になっているのをニコニコ笑って見ていられない人です。本当の意味で自分を愛せる人は、縁の下の力持ちで汗水流して働いて、うまく行かなくても報われなくても、そんな自分を少しもみじめに思わない人です。なぜかと言えば、どんなに苦しい仕事をしていようと、どんなに辛い立場にあろうと、それらは自分の本質とは無関係であり、自分が持つ自己実現力、成熟に向かって前進する力は微動だにしないことを知っているからです。

自己実現する力を信じる人は、自分を愛することできます。そして自分を愛せる人は、他人を愛することもできます。自分の愚かさを許せるあなただからこそ、他人の愚かさを許すことができるのです。何をやってもうまく行かない自分を愛してください。成熟に向かって前進する力を信じてください。逃げても、怠けても良いのです。しばらくは静かにしていましょう。気持ちが十分落ち着いたら、少しずつでも良いですから歩き出してください。それが自分を信じること、自分を愛することです。結果は必ず付いて来ます。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
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心のあり方

人は自分の未来について、あれこれと仏さまにお願いをします。しかし仏さまがあなたにお与えになるものは、あなたが「欲しいもの」ではなく、あなたに「必要なもの」です。仏さまはどんな時でもあなたの幸せを願っておられます。ですから、たとえあなたが望まなくても、あなたを幸せにするために、本当に必要なものをご自分の判断でお与えになるのです。それは必ずしも私たちにとって心地よいものとは限りません。

あなたが「お金持ちになりたい」と願っても、仏さまはあなたに貧しさをお与えになることがあります。それがあなたに必要だからです。あなたは貧しさの中から清らかな愛を得ることができます。「成功したい」と願っても、失敗をお与えになるかもしれません。しかし、失敗の中から謙虚を得ることができます。「仲間がほしい」と願っても、孤独をお与えになるかもしれません。それでも、孤独の中から己を信じる心を得ることができます。清らかな愛・謙虚・己を信じる心は、すべて幸せの種です。あなたを本当の幸福に導きます。

たとえあなたの目には苦しい試練に映ったとしても、その中には、仏さまの慈悲の心が必ず込められています。あなたの人生の幸不幸は、目の前の試練に幸せの種を見出せるかどうかにかかっています。すべては、あなたの心のあり方しだいです。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
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身のほどを知る

人の欠点が気になることがあります。それによって腹を立てたり、思い上がったりします。昔の言葉に「他人の目の中にあるおが屑(くず)はよく見えるのに、自分の目の中にある丸太には気づかない」とあります。これは、わたしやあなたに限ったことではなく、いわば人類共通の悪い性質と言えます。行き着くところは、争いと差別の世界です。一刻も早く、そこから抜け出てください。

ブッダは「他人のすること、しないことを見てはいけません。自分のすること、しないことを見なさい」と説かれました。人を裁けば、あなたも必ず裁かれます。そもそも私たちは、すでに家族、友人、隣人、部下と上司、神さまと仏さまから大目に見てもらっている身なのです。自分はたくさんの事を大目に見てもらっているのに、他人のささいな事を大目に見ないとはどうしたことでしょう。人の欠点が気になる時は、身のほどを知ることも大切です。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
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問い:泣きたいときは?

答え:思いきり泣いてください。

苦しい時には、思いきり苦しんでください。悲しい時には、思いきり悲しんでください。泣きたい時には、思いきり泣いてください。仏さまに向かって、心にもないきれいごとを並べ立てるより、あなたの本心を打ち明けてください。存分に泣きごとや恨みごとを言ったらいいのです。仏さまは、あなたの弱い心、あなたの幼い心、あなたの悪い心は全部お見通しです。お見通しの上で、全部引き受けてくださっています。仏さまは、私たちの不完全な心を許してくださいます。私たちが、不完全ゆえに自分で招いてしまう試練の後始末をいつもしてくださいます。その試練を乗り越えるだけの力を私たちにお授けになることで。ご冥助(みょうじょ:目に見えない仏さまの助け)を信じることです。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)