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『修証義』 第27節

「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200-1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】
考えてもみなさい。もしお釈迦様が真理をお説きにならなかったら、私たちが正しい教えを求めて、それに忠実に生きようと願っても、それは叶わなかったのです。〔しかし、嬉しいことにそれは叶います。ですから〕正しい教えに出逢えるようにいつも願うのです。お釈迦様は仰っています。「もし正しい教えを説く師に出逢ったら、その人の氏素性を探ってはならない。容貌を見てはならない。行いに非があっても〔それには深い意味があるのであるから〕批判してはならない。修行の方法を疑ってはならない。ただ教えのみを尊重すれば良いのである。師を礼拝して敬い、信じて従うことである」と。

【法話】
私たちは、語られた言葉を聴かず、誰が言ったのかを気にします。それが批判めいた言葉であった時「あなたに言われる筋合いはない」などと腹を立て耳を傾けません。それが正しい批判であってもです。カチンと来る心やプライドが正しい教えをはばんでいます。正しいこと、真実なことを語る人に出逢えたら、それはとても幸運なことです。もしそんな人に出逢えたなら、素直になって、黙って付き従うことです。そして余計なことは詮索せず、語られる言葉だけをしっかり理解するように努めましょう。あなたの人生で、そのような人はもう二度と現れないかもしれないからです。

『修証義』 第26節

「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200-1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】
私たちは、この世界に人間として生まれてきたからこそ、菩提心(自分よりも人の幸せを願う心)を発することができるのです。過去からの数々の因縁がつながっただけでなく、強く願う心があったからこそ、この人間世界に生まれ、お釈迦様の教えに出会えたのです。なんと嬉しいことではありませんか。

【法話】
この一節は、我が身の尊さを説いています。しかし「私は偉い」と慢心することではありません。私という人間が今こうして存在するためには、いったいどれだけの命がつながり、どれだけの条件が揃えばいいのでしょうか。どれ一つ欠けても成立しないこの命です。まさに奇跡の連鎖と言えるでしょう。その命の貴重さを説いているのです。しかし私たちは、こうして授かった貴重な命を雑に扱ってはいないでしょうか。自分の命を軽んじるのは、それが自分の所有物だと勘違いをしているからです。「私の命は私のもの。それをどう扱おうが私の勝手」と言う人がいます。しかし体の中で私のものと呼べる部分があるでしょうか。もし本当に私のものなら、何事も思い通りになりそうですが、実際にはそうはなりません。顔のシワが増えることや髪や爪がのびることを、私たちは一秒も止めることができません。病気になることも歳をとることも、何一つ自分の思い通りにコントロールできないのです。これで本当に自分のものと言えるでしょうか。体の中の細胞の一つ一つは、すべてご先祖様が作り上げてきたもので、私が新たに作り出したものではありません。私という命は、すべて他人が築き上げたものであって、「私」という意識が、ただその管理を託されているにすぎません。私たちは管理者として、この命を有難く受け継ぎ、そしてこの命の価値を全うしなければなりません。それは、子供を産み次の世代に命をつなぐことだけではなく、誰かの生きる力となって、その命を支えることでもあります。菩提心がそれを可能にします。菩提心こそ、すべての命の中で人間だけが持つことを許された奇跡の心なのです。

「利他はうんざり!」

そう言って若い僧侶が怒っていました。ちなみに「利他(りた)」というのは、仏教の教えで、選り好みせずに有縁の人々を幸福へ導くことを言います。仏弟子(僧侶)の重要な使命であり、日々の実践徳目でもあります。

その若い僧侶の言い分は「○○さんの幸福のために、どうして私が自分の人生を犠牲にしなくちゃいけないんですか!?」というものでした。彼が○○さんのことを嫌っているのは明らかです。自分の好き嫌いで相手を選んでいること、自分が損をすると思い込んでいること、この二つで、彼が「利他」を理解していないことが分かります。

好きな人のために犠牲になることは誰でもできます。そんな誰でもできることをしても、迷いからの解脱や真の幸福は手に入りません。嫌いな人の幸せを願う心があって初めて手に入るのです。聖書には「汝の敵を愛せ」とあります。同じことです。そして利他は人のためだけではなく、自分のためであることを知らなければなりません。修証義という経典には「利行は一法なり、あまねく自他を利するなり」とあります。俗に言う「情けは人のためならず(自分のため)」です。

もちろん簡単なことではありません。修行の自覚がなければ、続けるのは難しいでしょう。その若い僧侶は、困っている人がいたら口よりも先に体が動くような人で、十分に気持ちの優しい、行動力のある人です。そんな彼ですが、利他はできません。それは利他が確かな修行の先に実現するものだからです。

これは私も時々直面する問題です。そんな時私は釈尊の言葉を思い返します。それは「他人のすることしないことを見るな。自分のすることしないことだけを見よ」という言葉です。善いことをする時は、相手の反応や態度を気にせず、一切の見返りを望まず、やったことの中身を誇示せず、やった自分を誇らない、という意味です。ただ、自分は善に照らして何をしたか、何をしなかったかだけを自問すれば良いのです。これが確かな修行です。私はこの修行の中で一進一退を繰り返しています。この先に利他の心がありますが、まだ遠い道のりのように感じています。若い彼が悩むのも無理もないことです。

問い:苦しみはどこから来ますか?

答え:私たちの所有欲からです。

苦しみは、すべてのものに対して「自分のもの」と思い込んで、それに執着することから生じます。すべてのものはただ変化し消滅するだけのものなのに、私たちは不変不滅を望みます。そしてその望みは決して叶えられません。そこに苦しみが生じます。一番身近な例は自分の体です。誰もが自分の体は自分のものだと思い込んでいます。ところが、所有物にもかかわらず、私たちは皺や白髪が増える老化を一秒も止めることができません。病気になることも死ぬこともそうです。いつまでも若くいたい、死にたくないと望んでも、結局は失望することになります。何一つ思いどおりにはならないのです。これで本当に自分のものと言えるでしょうか。もともと所有できないものを所有しようと無駄な努力をしているように見えます。

所有欲の正体は「自分の思いどおりにしたい」という心です。しかし実際には何一つ思いどおりにはなりません。自分の体一つ思いどおりにできないのに、どうして他のものを思いどおりにできるでしょうか。苦しみを減らすには、この世のものはただ変化し消滅するもの、何事も自分の思いどおりにはならず、所有することはできないと思い直すことです。愛する人、愛する人の心についても同じです。

「自分のものではない」と思い直すことは、心が冷めたり、諦めたり、人のことなどどうでもいいと投げやりになることとは違います。むしろ逆です。それは、特定の人に執着するのをやめて、全ての人に対して平等に慈しみの目を向けるということです。私は私のものではなく、彼も彼のものではありません。全ての人が無常の世界に住みながら常住を求めて苦しんでいます。皆が同じ境遇にあるのです。私たちは同じ悲しみを背負った同胞です。互いに憐れみ、優しくしあうのが自然な姿と言えるでしょう。

小さな奇跡

お寺では毎日、何かしら嬉しいことが起きます。普通では考えられないほど頻繁に起きるので、私たちは「小さな奇跡」と呼んでいます。なぜだろうと考えていると、一つの答えが頭に浮かびました。それは、お寺に集まる人々の話す言葉や行いが「素直さ」から出ているということです。仏様の前では誰でも素直になります。嘘を言ったり、我を張る人はいません。その素直さが、本人だけではなく、私たちをも嬉しい気持ちにしてくれます。

お寺には、悲しむ人、苦しむ人、怒る人も集まります。暗い雰囲気になっても不思議ではないのに、そうはならないのは、皆さんが素直に心を打ち明けるからです。重苦しい話でも、どこかに清々しさが残るのは、素直さが根底にあるからです。「お寺は気持ちがいいですね」と誰もが言います。それは、素直な自分になれるから。そして、素直な自分であることが嬉しいからだと思います。

問い:私は何のために生まれてきたのですか?

答え:別の命を支えるためです。

ですから、別の命を支える生き方をしましょう。それが自然な生き方です。その生き方で、あなたは必要十分な幸せを得られます。これ以外の生き方、自分の命のためだけに生きる生き方は、不自然な生き方です。この生き方では、一時の喜びは得られても、幸せは得られません。自分が何のために生まれてきたのかを知れば、生き方は自然に定まります。

これは、仏教の根本思想「縁起」に基づくお話しです。縁起では、全ての命はつながり合い、支え合っているとします。ある命は、別の命の支えによって成立しています。一つの命が、他とつながりを持たずに単独で存在することはありません。

強情な人との向き合い方

正雲寺は人里離れた山寺で、周囲には山と川があるだけです。毎日ここで自然の移り変わりを見ていると、時々「なるほど、そうだったのか!」とハッとすることがあります。それは、当たり前のことだったり、すでに言い古されたことだったりします。それなのに、今になって急に胸に迫り、強く心に刻まれることがあるのです。それは「知る」ではなく「気づく」ということなのでしょう。

この冬もたくさんの雪が積もりました。12月から2月までの三ヶ月間は、毎日が除雪作業です。雪の下の方はすで氷の塊となっていて、力任せにツルハシを振ってもはね返されるばかり。その度に氷の破片が顔に飛んで来て痛い思いをします。なかなか作業は進まず、私はますますむきになってしまいます。それはまるで氷の塊と格闘しているようです。

3月になると春が訪れます。太陽は日射しを強め、それに応えるように地面は生気を取り戻します。春の陽気が、重い氷を見る見るうちに溶かして行きます。私が何日もかけて格闘した氷を、太陽はわずか数時間で溶かしてしまいました。しかもとても平和的にです。太陽が「さあ、そろそろ春の日射しを届けよう」と言えば、氷は「ではそろそろ私はおいとまします」と答えるのです。両者は穏やかに向き合って格闘などしません。

人は「人間も自然の一部」などと言いながら、自然の営みに真実を見ようとはせず、自分勝手な解釈を探そうとします。しかしそれはいつでも遠回りに終わったり、無駄に終わったりします。人間が自然の一部なら、私たちも自然の営みと同じであるべきだと思うのです。そこに見える真実のとおりに生きられれば、遠回りも無駄もありません。自然の営み中にある真実は、木で例えるなら、幹の部分です。一方、自分勝手な解釈は枝葉に過ぎません。もしかすると枝葉でさえないかもしれません。

強情な人と向き合う方法は、太陽が氷にするように、春の日射しを届けることです。力任せにツルハシを振るうのは、表面のわずかな部分を削るばかりで、とても長い時間がかかります。途中で抵抗にあって、痛い思いをするかもしれません。決して得策とは言えませんね。強情な人は、いわば氷の塊です。その氷を溶かすのは、あなたが放つ春の日射しです。時々、ツルハシで割れ目を入れるのも良いかもしれません。溶けるのが速くなります。しかしツルハシを入れるポイント、即ち「氷の目」を心得ていないと割れ目は入れられません。もしあなたに心得がないなら、手当たり次第にツルハシを振るうことはせず、ただ暖かな春の日射しを注ぎ続けてください。そしてその日差しが強ければ強いほど、氷が溶けるのも速いことを知っておいてください。

自然の営みは、すぐに答えを求めようする私たちには、まどろこしく見えます。しかし本当は、最も合理的で、一番の近道で、そして何よりも平和的な姿なのです。

問い:マイナスの感情を消し去るには?

答え:心の中にいくつも引き出しを持ちましょう。

人には誰にも言えない感情があります。自分を幸せにする感情なら良いですが、悲しみ、怒り、恨みといったマイナスの感情は厄介です。放っておくと心も体もむしばまれてしまいます。人はこのマイナスの感情によって、人生を左右するような大事な決断をしてしまうことがあります。勢いで会社に辞表をて叩きつけたり、勢いで言ってはならない言葉を吐いたり、勢いで自死を選ぶことがあります。後悔してもすでに手遅れです。マイナスの感情は、人の正気を失わせ、人生を狂わせるほど激しく強いのです。

こうしたマイナスの感情を心の中から消し去りたいと思うのは当然です。「楽になりたい」という願いと、「このままでは自分は過ちを犯しかねない」という危機感がそうさせるのでしょう。多くの人がこの思いを抱いています。ところが現実には、「消したくても消せない」ままずっと苦しみ続けます。

マインドフルネスは古くからマイナスの感情を消し去る方法として実践されてきました。正しい精神集中によって、起きている現象の中にある真実を観察し思考の転換を図る努力です。仏教でも「正念」と呼んで大切にしています。これができる方はそれでいいのですが、多くの方は漫然としてただ悩み続けます。私はそうした方々に「心の中にいくつも引き出しを持ちましょう」とお答えしています。

消し去れないのなら、ひとまず持っておくしかありません。心の中の「苦しみ」と書かれた引き出しにしまっておいてください。それでも苦しいのは、あなたが引き出しを一個しか持っていないからです。一個しか持っていないから、頻繁に引き出しを開けて中を覗いてしまうのです。もしこれが、いくつも引き出しを持っていたらどうでしょう。一つの引き出しには「私の夢のため」と書かれています。また別の引き出しには「愛する人のため」と書かれています。そして一番大きな引き出しには「乗り越えたこと」と書きましょう。

マイナスの感情を引き出しにしまっておくということは、黙って耐えるということに他なりません。多くの人は耐えることが嫌いです。もっとほかの方法はないかといつも探し回っています。しかしどこにもありません。ブッダは「忍耐は、苦行の中の苦行。耐える者は常に勝利者である」と語っています。

あなたは、耐えている間は一触即発の状態にあります。まるで爆弾です。誰かが言った他愛のない言葉が導火線に火をつけることもあります。とても危険な状態です。ですから、人里離れた場所で一人静かにしていてください。それができないなら、黙っていましょう。もし口を開けば、悪言が飛び出すからです。これは正しく苦行です。その時に別の引き出しを持っていれば、この苦行を乗り越えることができます。今の苦行は、私の夢のため、そして愛する人のためなのです。

この苦行を繰り返すうちに、「乗り越えたこと」と書かれた引き出しは、「乗り越えたこと」でいっぱいになっていきます。いつしかマイナスの感情をコントロールする術が身についています。思い通りにコントロールできるということは、決して振り回されないということ、支配されないということです。そしてこれは、心の中からマイナスの感情を消し去ったも同じなのです。

時々「乗り越えたこと」と書かれた引き出しの中を覗いてみましょう。フォルダーの厚みは今どれくらいですか。1センチですか。それとも2センチですか。フォルダーの厚みはそのままあなたの苦歴です。学歴や職歴などとは比較にならないほど、人生に深みと輝き与えてくれることでしょう。

『修証義』 第25節

「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200-1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】
以上の布施・愛語・利行・同事を「四摂法(ししょうぼう)」といいます。菩提心を達成するためには、この四摂法の実践をおいて他にありません。お釈迦さまの四つの智慧で、苦しむ人々をこちらに引き寄せて、決して見捨てることなく助けるのです。すべての人々が四摂法によって、苦しみから解放されます。まことにありがたい功徳です。お釈迦さまとそのお智慧に深く感謝いたしましょう。

【法話】
これら四つの智慧は、人を導く立場にある者の心得、トップの資質のように見えるかもしれません。導く者と導かれる者との間にはもとから能力の差があって、導かれる者にとって四摂法は関係のない話だと思うかもしれません。しかしそうではないのです。道元禅師は「誰でも仏になれる」と言います。仏になれるかどうかは、資質や能力の差で決まるのではなく、今この瞬間に仏らしい振る舞いをしているかどうかで決まるのです。仏らしい振る舞いをしている間だけは、すでに仏です。仏のような心(考え方)を持ち、仏のような言葉を話し、仏のような行動をする。四摂法にはこれらすべてが集約されています。『修証義』の「修証」には、修行している間は、仏であることを証明して見せている、という意味が込められています。四摂法を実践している間は、あなたは仏さまです。そして「一生、仏であり続けて欲しい」という願いが込められているのです。