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護法山正雲寺 会津本山 > 最新情報 > 2024年

私の悩み

私の三つの悩みをお話しします。出家を志している方の参考になればと思います。

一、私は仏法を正しく学んでいるか。
教え導いてくれた師はすでになく、私は自力で仏法を学ばなければなりません。正師を失った修行者は道を踏み外しやすく我流(仏法を自分の都合のいいように解釈すること)に陥りがちです。正しい修行は困難と苦しみを伴います。我流は楽で心地いいものです。私は心の弱さに負けて楽を選んでいないか。我流を正しい仏法と思い込んでいないか。心を清らかにするどころか逆に汚しているのではないか。これが一つ目の悩みです。

二、私が感じる孤独は正しいものか。
お釈迦さまは「ただ独り歩め」、「他に頼らず仏法を拠りどころとして己れを頼りとせよ」とおっしゃっています。修行僧が孤独になるのは必然かもしれません。ただその孤独は正しい考え(【正見(しょうけん)】)とともにあるはずです。間違った考え(邪見)は別の孤独を生みます。私が恐れるのは、私の邪見が人々を傷つけ遠ざけてしまった挙句に孤独になることです。しかし私のような未熟な修行僧が正見を十分に実践できているとは思えません。ならば私が感じる孤独は邪見から来るのか。これが二つ目の悩みです。

三、私は「仏弟子」と言えるか。
仏典や語録を読むと、私とは生き様が大きく違う仏弟子たちの姿が見えてきます。仏法を二千五百年間守り継いできた人々です。彼らの学び、彼らの真実さ、彼らの厳しさは桁違いに見えます。「私も肩を並べたい」という思いと「私にできるか」という弱気とが交錯します。彼らと比べた時に、今の私に仏弟子を名乗る資格はないように思えてなりません。私は仏弟子にもなれず俗人にもなれない半端な人間ではないか。これが三つ目の悩みです。

このような悩みを持っていると、学びも実践も思うように進みません。何事も慎重になってしまい導師をつとめることにも躊躇します。これが【脚下照顧(きゃっかしょうこ)】ならばいいのですが。今、私の目前にある自灯明と法灯明の道はとても長く険しく感じられます。その道の手前の迷いの世界で私は堂々めぐりをしているようです。私にとっては現実的な痛みです。

住職代理 無聖(むしょう)

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【正見】
正しい考え。すなわち苦、無常、無我の三相に載せた考えのことです。
【脚下照顧】
禅寺では「足下に注意せよ」という注意喚起に使いますが、この他に「人のことを論じる以前に自分のことをよく省察せよ」という意味でも用いられます。

私たちはどうして苦しむのか(改訂版)

私たちはどうして苦しむのでしょうか。人生には楽しいこともありますが、苦しいこともあります。中には苦しみが多すぎて楽しみを忘れてしまった人もあるでしょう。たった一つの苦しみが他のすべての楽しみを帳消しにしてしまうことがあります。そんな時は誰でも「生きるのは辛い」と思いがちです。

お釈迦様は、苦しみの原因は「渇愛(かつあい)」にあると言いました。渇愛とは、のどが渇いた人が激しく水を求めるような激しい執着(しゅうちゃく)のことです。執着には二つの顔があります。自分の好きなものに対する「愛着」と自分の嫌いなものに対する「嫌悪」です。どちらも対象にとらわれて心が拘束されている状態です。愛着が深ければ、失った時の悲しみが深くなります。嫌悪が強ければ、一緒にいることの苦痛が強くなります。愛着も嫌悪も自分の思い通りにしたいという心の現れです。そして思い通りにはならないときに苦しみが生まれます。

愛着と嫌悪が無くなれば苦しみも無くなります。それはつまり「好きなものを作るな」「嫌いなものを作るな」ということです。これは対象に対して「無関心でいなさい」という意味ではありません。むしろその逆です。対象を突き詰めて観察し、「その実相(本当の姿)を見なさい」という意味です。実相とは、私たちが好き嫌いのフィルターを外した時に初めて見える対象の本当の姿、ありのままの姿のことです。しかし実相を見るのはなかなか大変です。なぜなら私たちの心の中には愛着と嫌悪が根付いていて、それらのフィルターを通して対象を見ることに慣れきっているからです。当たり前のように対象を愛着と嫌悪で選別してしまいます。そのはびこり様はとても厄介です。この厄介者を取り除くためには強力な武器が必要です。お釈迦様はその武器として二つの知恵を用意してくれました。それが「無常」と「無我」です。

 

 

この世に存在するあらゆる事物は因縁(初めに原因があり後に条件が揃うこと)によって生まれ、変化し、やがて消滅します。初めに種があり、土や雨や太陽といった諸条件が揃って花が咲くようなものです。条件は刻一刻と変化し、それに応じて花の姿も変化し、やがて消滅します。この一連の動きは一時も止まることがありません。この連続した有り様を無常といいます。私たち人間もこの無常の中で生きています。生まれた時から肉体は老化します。目には止まっているように見えても確実に変化しています。細胞も皮膚も髪の毛も生じ変化し消滅することを繰り返しています。ところが私たち人間はその事実を認めようとしません。それどころか老化を止めようとして変化に抵抗します。移り行くこと(無常)は誰にも止められない事実なのに、時を止めて状態を固定し同じ状態のまま存続させようとします。移り行くものたちの中で自分の執着したものだけは固定した存在であるかのような妄想を抱きます。あらゆる事物は因縁によってその時その時に姿を現しているだけであり、それははかなく生成された現象に過ぎません。固定された確たる存在はどこにもないのです。この事実を無我といいます。無我は対象の存在自体以外にも対象に向き合った時の人の感情にも当てはまります。分かりやすくするために無我の「我」を「自分が感じたこと」と解釈してみましょう。人が感じる器官は六種類あります。眼(眼に見えること)、耳(耳に聞こえること)、鼻(鼻に香ること)、舌(舌に味わうこと)、身(身体に触れること)、意(心に感じること)です。ここでは六つの代表として「舌」について考えてみます。

私は子供の頃、ほうれん草が大の苦手でした。ところが大人になった今では大好物になりました。変わったのは私の感じ方であり、ほうれん草自体は昔も今も変わりません。ですから「ほうれん草はまずいもの」と決めつける私の感覚は正しくほうれん草の実相を言い当ててはいないのです。また「ほうれん草は美味しいもの」という感覚も同様です。では、私の舌の感覚を除外した時に見えるほうれん草の実相とは何でしょうか。「緑色をした野菜」ですか。果たして可視光線の異なる人間以外の昆虫や動物の目にも緑色に映るでしょうか。また彼らにとっは野菜なのでしょうか。こう考えると、「緑色」も「野菜」も人間世界だけで通用する感じ方と言えるかもしれません。このように主体によって感じ方が変わるという世界で対象の実相を見るのはとても難しいのです。もし無常と無我の視点からほうれん草を見るなら、それは因縁によってその時その時に姿を現し、はかなく生成された現象であり、固定された存在ではないとしか言いようがありません。そしてここに至っては「ほうれん草」と名前をつけて他と区別することすら無意味になるのです。

あなたが対象にしているもの、それ自体が無常の中にあって無我なる存在です。あなたが対象から受ける愛着や嫌悪といった感じ方も無常であり無我です。形のあるものも形のないものもすべては移り行くのであり、固定された存在ではありません。空に浮かぶ雲、川を流れる水、谷を渡る風、それぞれが無常の有様と無我の事実を如実に語っています。自然の営みだけではなく、私たち生き物の一生とその心に抱く感情もまた同じなのです。あなたがとらわれているものは移り行くものであり、現象のようなもので実体がありません。そのような捉えどころのないものに対して「こうあって欲しい」「こうでなければならない」という感情を持っても思い通りにはなりません。それはまるで流れる川に一本の釘を打つようなものです。私たちは流れを止めて水を固定しようとしますが実現はしません。そして実現しないことに腹を立てたり悲しんだりしています。もしあなたが流れる川に釘を打つことが無駄なことだと思うなら、対人関係においてもその思いを持てるように努力してください。すべての対象の中で対人関係を挙げたのは多くに人にとってそれが一番切実な問題だからです。嫌いな人、愛する人とどうやって向き合えばいいのか。彼らに心を乱されることなくいつも平和でいるにはどうすればいいのか。それらがとても切実なのです。相手の存在も自分の感じ方もすべては流れる水のようなものであり、釘を打ち込んで停止できるようなものではない(執着するべきものではない)ということを積極的に意識することです。それは本物の心の平和を獲得するための第一歩となります。

どこで聞いたのか覚えていませんが、「世界は執着心でできている」と言った人がいました。お釈迦さまの教えもこのとおりです。そうであるなら、その世界で執着心を捨てよというのはゴジラに対して素手で戦いを挑むようなものかもしれません。しかし驚くことに勝算は十分にあります。それほど私たちの知恵と知恵に支えられた心は強力で偉大なのです。

住職代理 無聖(むしょう)

新年のご挨拶

新年明けましておめでとうございます。

正雲寺と私たち僧侶は無事に正月を迎えることができました。

ひとえに皆様のお支えのおかげです。

あつく御礼申し上げます。ありがとうございます。

これからも仏道に専一に精進し、皆様のご恩に報いる所存です。

皆様にとりまして、幸せ多く災いのない一年となりますよう

心よりお祈り申し上げます。

合掌

 

世の中には、今この時も苦しい思いをされている方がたくさんおられるでしょう。孤独を感じその中でじっと耐えているでしょうか。そのような方々に次の話を贈ります。これはキリスト教で語られているお話ですが、私は、宗教の枠を超えて多くの人の心をハッとさせる内容ではないかと思っています。「あなたは一人ではない」というお話しです。

ある男が夢を見ました。夢の中で男は主イエスと二人で並んで歩いていました。男が後ろを振り返ると、これまでの道のりには、主イエスと自分の二組の足跡が記されていました。ところが、所々、足跡が一組しかない場所があります。男は思いました。

「そういえば、その場所は私が苦しんでいた時だ。
私が苦しんでいた時に限って一組しかない」。
そこで男は傍らのイエスに尋ねます。
「どうして私があなたを一番必要とした時に、
私からお離れになったのですか」。
イエスがお答えになりました。
「いとしい我が子よ。
私は片時もお前の側を離れたことはない。
お前が見た一組の足跡は、私のもの。
私はその時、お前を背負っていたのだ」

苦しい時に「私は誰かに背負われているかもしれない」と想像すらできないとすれば、それは悲しいことです。なぜならその人は苦しみに中にいてもなお自分のことばかり考えているからです。この男のように、一組の足跡を見て自分の足跡だと思い込むところに苦しみは隠れています。

住職代理 無聖(むしょう)