
今年の色づきはいいようです。普段は気にも止めませんが、今日は思わず足を止めて見入ってしまいました。こうした美しい風景を見ると、自分が恵まれた環境で修行していることを思い出します。修行生活は易しくないので、ついそれを忘れがちです。
住職代理 無聖(むしょう)

今年の色づきはいいようです。普段は気にも止めませんが、今日は思わず足を止めて見入ってしまいました。こうした美しい風景を見ると、自分が恵まれた環境で修行していることを思い出します。修行生活は易しくないので、ついそれを忘れがちです。
住職代理 無聖(むしょう)
昨年2月、私は「どうして生きなければならないのか(長文)」というタイトルのブログを掲載しました。その中で私は次のように述べました。
ここで改めて最初の疑問「なぜ生きなければならないのか」を考えたいと思います。これまでお話ししてきた経緯から私が導き出した答えです。
私という命があるから他の命はあり、
私という命がなければ他の命はない。だから生きなければならないのです。生きる意味も同じです。そして、このことは私の意思や感情や能力とは無関係です。すべては縁起によるつながりなのです。そうであるなら、命は生きているだけですでに役目を果たしていると言えるかもしれません。生きる意味は探すことではなく、すでにそこにあるのです。
もし私たちが、ただ生きているだけですでに役目を果たしているというなら(私はこれを信じておりますが)、私たちの主体性はどこにあるのでしょうか。そして私たちの意思や感情や能力が無関係というなら、それらはいったい何のためにあるのでしょうか。
私はこう思います。命と命のつながりの生滅変化は縁起に任せするとしても、そのつながりを善いものにするか、それとも悪いものにするかは私たちに任されているのではないでしょうか。私とあなたのつながりは縁起によって定められたことかもしれませんが、その関係を善くするか悪くすかは私たちの努力精進次第ということです。そのために私たちは意思や感情や能力を使うことができます。繰り返しになりますが、私たちは生きているというだけで他の命を生かしています。そこに私たちの主体性はありません。それでもなお私たちに努力精進の余地が残っている理由は、その関係をより善いものにすることができるからです。そして善い関係を築くことによって他の命を善く生かすことができるからです。そしてそのことによって結局は双方の命の価値を高めることができるのだと思います。
私は「どうして生きなければならないのか」と問うのは傲慢な態度だと思います。私たちは因果の全容を見通すことはできませんし、縁起の働きを完全に理解することもできません。私が生きているだけで他の命を生かしているというなら、私は黙ってこれに従いたいと思います。できればもっと謙虚になって、「どうして生きなければならないのか」と問うのはやめて、「縁起によって与えられたこの命、その命の価値を私の努力精進によってどこまで善くすることができるのか」と問いたいと思います。
住職代理 無聖(むしょう)

正雲寺の庫裏(くり:お坊さんの住居)には三匹の猫が住んでいます。三匹とも元は野良猫で、私たちが偶然に見つけて寺に迎え入れました。古参の猫はトモ吉(通称トモ)、次にやって来た子は観太郎(通称カンカン)、新参の子はアミタ(通称アミ子)です。トモは私の部屋に、カンカンとアミ子は別の僧侶の部屋に二匹一緒に住んでいます。
トモは甘えん坊ですが臆病な性格です。知らない人が来ると姿を隠します。アミ子が私の部屋に遊びに来ても一目散にハウスに逃げ込んでしまいます。私以外の人にはほとんど気を許さないトモです。それがまた可愛いのです。飼い猫の虜になった飼い主のことを下僕(げぼく:あまり良い呼び名ではありませんね)と呼ぶそうですが、私はそれかもしれません。
カンカンは全身真っ白でとても美しい猫です。捕獲の時、激しく抵抗するカンカンを私が無理やり押さえ込んでケージに入れたため、すっかり恨みを買ってしまいました。いまだに許してもらえません。それでも飼い主である別の僧侶にはべったり甘えていて、いなくなるとずっと鳴き続けます。他の二匹は子猫の時に保護しましたが、カンカンは成猫になってから保護しました。野良の生活が長かったからでしょうか。小さなことにはまったく動じない貫禄をそなえています。たくさんの苦労を乗り越えて心が強くなったのでしょうね。それもあって余計に美しく見えます。
アミ子は最近仲間入りしました。まだ大人になる前のあどけなさが残る子です。トモやカンカンとは性格が全然違います。人見知りせず誰にでも近づいてスリスリします。カナリアのように細く可愛い声で鳴きます。好奇心旺盛で何にでも興味を示し体当たりで向かっていきます。トモに「シャーシャー」言われても、ひるむことはありません。何度も何度も近づいて甘えようとします。「友達になろうよ〜」という声が聞こえてきます。庫裏全体を明るくしてくれる太陽のような子です。
三匹とも正雲寺によく来てくれました。たくさんいたワンコ達がみんな亡くなってしまい、私たちは寂しい思いをしていました。そんな時、抜群のタイミングで三匹のニャンコが立て続けにやって来たのです。予想だにしなかったことです。これを「命のつながり」と言うのでしょうか。お寺では良縁をいただくことが多いですが、これもその一つです。
※写真はアミ子。外作業のお坊さんを眺めながら日向ぼっこを楽しみます。
住職代理 無聖(むしょう)
自分は善いことをしているのか、それとも悪いことをしているのか。修行僧はいつも悩んでいます。修行僧は仏法の理解が浅いため我流の判断に陥りがちです。自分では善いと思っていることでも、仏法に照らせば悪いという場合もあります。普通に考え話し行動しているだけなのに、それらがすでに悪いということがあるのです。学びのない、よく調教されていない心は、私は敢えて「ありのままの自分」「自然体の自分」と呼んでいますが、そのままでは悪い場合が多いのです。
師匠や善い先輩に恵まれれば、ことの善悪について助言をもらうことができますし、悪いことをしている時には修正してもらうこともできます。しかしそれらは人生の中ではごく一時的なことです。結局は人に頼らず自分で正しい判断をしなければなりません。そのためには、仏法を懸命に学ぶのと同時に日常の言葉や行動を慎しむことが大切になってきます。その昔、「お前は黙っていなさい」とよく叱られました。これは「沈黙せよ」という意味ですが、同時に「考え話し行動する前に、それらが仏法に適っているのかよく点検しなさい」という意味でもあります。
しっかり点検し、満を持して話し行動しても、必ず善い結果になるとは限りません。まだまだ点検が足りないということもありますし、そもそも拠り所となる仏法への理解が浅いということもあります。もし対人関係で痛い思いをしようものなら、「もう何もしない方がいい」となりがちです。しかしそれではいけないと思います。慎しむことと臆病になることとは違います。慎しみながらも踏み出す勇気は必要です。結果として痛くて苦しい思いをしたなら、自分で悪い原因を作ったということですし、反対に嬉しくて楽しい思いをしたなら、自分で善い原因を作ったということでしょう。こういう実体験を通して善悪のことを学ぶのには勇気が必要です。悪因苦果を懺悔(さんげ)するのも、善因楽果に自惚(うぬぼ)れないのも勇気です。苦果をもたらした悪因は何だったのか、楽果をもたらした善因は何だったのかを冷静に見定めることで善悪の判断が徐々にできるようになります。勇気を出して痛みや失敗を乗り越え、悪因苦果を確実に減らし、善因楽果を一つずつ増やしていくこと、それが現実的な仏道修行と言えるでしょう。目標とするのは、考えること、話すこと、行動することの全てが善因となり楽果となることです。
住職代理 無聖(むしょう)
お釈迦様の教えは「この世の全ては原因と条件と結果の関係の中で生まれて変化し消滅する」です。ここから二つの目的が見えてきます。一つ目は、運命や神秘的な力に頼らず、自分の持てる力と眠っている力とを信じて、あきらめずに改善の努力を重ね、生きている間に本物の幸せを得ることです。たとえ過去の悪業の報いに苦しむことになっても、苦しみに負けずに今この時に善い原因を作り、善い条件を選び、そして善い結果を獲得するのです。二つ目は、苦しみの正体を知って苦しみを回避することです。変化し消滅するものに対して、変わらないように望んだり、消滅しないように望んでもそれらが叶うことはありません。この思い通りにしたいのに思い通りにならないことで生じる怒りや失望が苦しみの正体です。苦しみを招く執着心を制御しながら善に生きることで清らかな心を獲得することができます。清らかな心は自分と他人との両者を幸せにします。

本日は私の趣味のお話です。何かの学びになるようなお話ではありませんので、気楽にお付き合いくださいませ。
お寺には写経(しゃきょう)というものがあります。漢文のお経を筆で書き写すものです。身近な写経と言えば『般若心経』ですね。ご経験のある方もいらっしゃるでしょう。写経の目的は、願い事を成就させるためであったり、心を落ち着かせるためであったり、またはご供養のためであったりします。しかし、ここで言う私の趣味の書写(しょしゃ)は、これらの目的とは異なり、単に私個人の喜びや楽しみに限定したものです。
書写にルールはありません。お気に入りの筆記具で好きな文章を書き写します。趣味の世界ですから、多少のこだわりがあるほうが面白いかもしれません。私のこだわりは、使い慣れた万年筆を使って縦書きノートにお経の現代語訳を書写することです。経机に正座ではなく、こたつにあぐらで書きます。5分でも10分でも気が向いたときに楽な気持ちで書いています。以前は本を見ながらでしたが、近年は老眼のため活字が見えづらくなってしまいました。そんな私の強い味方は、iPadとキンドルです。キンドルなら活字を自由に拡大して楽に見ることができます。
文章は小説でも良かったのですが、私はお経の現代語訳を選びました。今は『法華経』です。やはり仏教が好きなんですね。勉強なんていう意識はありません。ただ書くことを楽しんでいるだけです。もしこれで仏教への理解が深まるなら嬉しいですが、あまり欲を出さないようにしています。さらにこだわる方なら、万年筆や紙やインクにこだわって楽しむのでしょう。それも楽しい世界ですね。しかし私はそこまではありません。大学入学の時に贈られた万年筆を使っています。万年筆は他の筆記具とは違い、あまり筆圧をかけずに滑らかに筆記できます。その独特の書き心地がある種の快感をもたらします。時々『法華経』と万年筆とどちらが主役なのか分からなくなるほどです。趣味ですからそれも許されるでしょう。
漢文のお経を正座して写経するのと現代語訳のお経をあぐらをかいて書写するのとは、いったい何が違うでしょうか。実のところ、私もよく分からないのです。これはこれで「面白い」と思います。たまにはキーボードから離れて、ゆっくりと日本語を手書きするのも味わいがあって良いものです。皆様もぜひ。
住職代理 無聖
私たち修行僧にとって、仏様の教えは真実であり、生きて行く上での指針でもあります。ですから、議論の場では仏様の教えこそが正論ということになります。試しに「正論」を辞書で引きますと「道理にかなった論議」とあり、さらに「道理」を調べてみると「人間として守らなければならない道」とあります。
時々、修行僧同士で議論することがあります。議論が白熱すると、誰もが仏様の教えを口にして「私が言っていることは正論なのに、なぜあなたは理解しないのか」というようなことを言います。時にそれは相手を責めているようです。言われた方も正論であることを分かっていますから、そのように言われるとぐうの音も出ません。しかし心の中では「人間は正論どおりにはいかない」と負け惜しみをつぶやくのです。
「人は仏様の教えのとおりにはなかなか生きられない」。私もそう思います。もちろん教えのとおりに生きたいと願っていますし、その努力もしています。それでもなかなか届きません。そんな私にできることは、仏様の教えに届かない自分を見限ったり、道を諦めたりしないことでしょうか。私の中には、仏様の教えに届こうと努力する実直な自分とその努力を台無しにしてしまう愚かな自分がいます。二人の私が心の中でせめぎ合っているようです。
私は議論の場ではできるだけ正論を持ち出さないようにしています。分かっていてもできない自分のように相手もそうかもしれないからです。その人が心の中のせめぎ合いに打ち勝って、課題をクリアするまでは待ってあげてもいいのではないでしょうか。私ならそうしてほしいと思います。もちろん相手が「努力の人」であることが前提ですが。正論は高徳の人が用いれば正しく力を発揮しますが、未熟な者が使えば人を責めたり非難したりするための凶器にもなります。修行僧は特に注意すべきことです。
住職代理 無聖(むしょう)
私が苛立つのは、必要な場面で適切な言葉が出て来ないことです。それどころか、的外れな言葉を言ってしまい、後で必ず後悔します。真面目に学んでいるつもりでも、所詮は頭の中の倉庫に「知識」という名の荷物を積み上げているに過ぎません。必要な時に取り出そうと思っても探し出すのに時間がかかり肝心な時に役に立ちません。せっかく蓄えた知識も宝の持ち腐れです。
無学老師は「蓄えた知識で実践してもほとんどは失敗するだろう。大切なのは、失敗した時に経験する辱めや挫折だ。これらを乗り越えた時に初めて知恵が身に付き、そしてその時初めて知識が活かされるんだよ」と言いました。知恵とは、知識という膨大なデータを瞬時に抽出する検索エンジンなのかもしれませんね。
知識は本を読めば済むかもしれませんが、知恵はそうはいきません。自分で実践し経験を積むことでしか身に付かないので時間がかかります。ご老師は「お前は私の年までまだ30年もあるじゃないか。焦らず着実に行きなさい」と励ましてくれました。しばらくは自分の至らなさを後悔し辛抱する日が続きそうです。
住職代理 無聖
正雲寺には、滞在中は誰であろうと必ず守っていただく言葉のルールがあります。一時的に身を寄せている人にも、長期にわたって修行をしている人にも共通したルールです。
お寺は心を清める場所です。乱暴な言葉や嘘は似合いません。「口は災いのもと」と言いますが、その口をコントロールできれば「幸せのもと」にもなります。ここで出会った人には「まずは自分の普段の言葉を見直すことから始めましょう」とお話しします。それほど言葉で失敗している人は多いのです。
住職代理 無聖
ある若い方からお手紙をいただきました。そこには次のようなことが書かれていました。
「自分の気持ちとは別に、人の幸せに対しては笑顔で『おめでとう』と言いたいです。だってその方がかっこいいから。その人が過去に私にしたことを思うと、今でもよく思っていませんが、それとこれとは別です」。
あまり快く思っていない相手に対してでも、そうした感情はいったん引き出しに閉まって、感情には流されないで、人として善いことは善いことと認めることができるなら、それは自分の心を正しくコントロールできている証しです。そのような心から起こる行いは正しいものです。
そしてこうも書かれていました。
「みんなが私のすることを知らなくても、私は私のすることを知っています。だから自分で自分を認められるように、きれいな心で正しいことをしたいです」
結局は、何もかもすべてを知っているのは自分だけです。悪事をなして、たとえそれが人にばれなかったとしても、自分だけはよく分かっています。後悔をするのも、恥に思うのも、誰でもなく自分なのです。善事をなして、たとえそれが誰にも気づかれなくても、自分だけはよく知っています。自分を認め、自分を大切にすることができるのです。こういう目線、判断基準、ものさしを心の中に持っている人からは徐々に悪が遠のいていきます。
このお手紙は、私の目には決意表明のように映りました。いつも宣言どおりにできているわけではないでしょう。実際には、できる時もあればできない時もあるでしょう。それでもこのような心のあり方を自覚し、このような心で生きようと努力することは立派です。確かにかっこいいと思います。時々の自分の悪い感情に流されずに、様々なことに対して「きれいな心」で向き合えているか、「正しい行い」になっているかと立ち止まって考えるのは正しい精進と言えます。そして正しい精進なら、人の幸せを願ってするようなことでも、結局は自分の幸せにつながるものなのです。
お手紙を読み終わって、「さて、私はどうか」と考えました。私も同じです。できる時もあれば、できない時もあります。ですから、できない自分の愚かさを忘れずに、決して傲慢にならずに、できる時を徐々に増やしていきたいと思います。私の机の前の壁には、お釈迦様の言葉を書いたメモが貼ってあります。そこには「自分のすること、しないこと、ただこれのみを観るがよい」とあります。私だけが私のすることを知っています。
お手紙をくださった方へ
あなたの住所がわからないので、ここに書かせていただました。これは、私が信じていることですが、一つ一つの決意表明(仏教では「誓願」と呼びます)が人を育てるのだと思います。心に決めたことをあきらめずにやり通そうとする努力が様々な悪心を遠ざけてくれます。きれいな心になるための努力は、正しい決意表明から始まるように思います。お手紙をありがとうございました。
住職代理 無聖