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『修証義』 第18節

「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200-1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめて、仏さまの教えを優しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文形の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】
菩提心(ぼだいしん)を起こすとは、自分が仏になるより先に一切衆生を仏にしようと誓願し、実際にそのように生きることです。たとえ在家者であろうと出家者であろうと、苦しい状態にあろうと楽しい状態にあろうと、置かれた状況に関係なく、一日も早く「自未得度先度他(じみとくどせんどた)」の心を起こすのがよいのです。

【ミニ法話】
まったくの偶然ですが、新年最初の『修証義』がこの節であることを嬉しく思います。 年の初めは、誰にとっても誓いを立てやすいもの。最初の誓いは、是非この「自末得度先度他」であってほしいと思います。これは平たく言えば、自分の利益よりも人の利益を優先するということです。自分の楽しみや喜びはひとまず後回しにして、人の楽しみや喜びのために努力することを言います。だからと言って自分が損をすることはありません。後の節でも出てきますが、結局はそれが自分の幸せに直結するのです。そしてこの誓いは、何か特別な才能を持った人に限るのではなく、年齢も性別も地位も関係なく誰でも持つことができるのです。

問い:人生で一番苦しいことは何ですか。

答え:それは耐えることです。

お釈迦様は「耐えることは最大の苦行である」とおっしゃっています。私たちが耐える痛みの中には、肉体的なものや精神的なものがありますが、多くは私たち自身にその原因があります。しかしこれとは違って、他人に起因する痛みもあります。あなたの大切な人が他人によって蔑(さげす)まされたり、傷つけられたりした時に感じる痛みがそうです。時には自分が受けた以上に痛みを感じることがあります。私は子供の頃、友達に「お前の母ちゃん、でーべーそ」と言われて、顔を真っ赤にして怒ったことがあります。きっと皆さんも似た経験をお持ちでしょう。これは可愛らしい例ですが、子供の頃のこうした感情は、大人になってもなくなりません。人間には、大切なものを守ろうとする“保護本能”があるからです。保護本能は、その人に自制する力がない時には、憎しみや怒りに火を点けて収拾のつかない争いへと発展することがあります。だからこそ、どのような理由があっても、人が大切にしているものを蔑(さげす)んだり傷つけてはならないのです。

しかし現実には、傷つける人は多く、傷つけられることはまことに多いのです。お釈迦様は、目の前で自分の一族が虐殺されるという経験をなさいました。その悲しみ、怒りはどれほどだったでしょう。お釈迦様はそれでも耐えられました。「怨みを捨ててこそ、怨みは止む」という真理の言葉をご自分の血肉とするまで、どれほど苦しまれたことでしょう。そんなお釈迦様だからこそ「耐えることは最大の苦行である」とおっしゃったのだと思います。

仏教は、殻に閉じこもって一人で悶々と耐えるのではなく、人に優しい言葉をかけたり、人の為になることを積極的にしながら、善い生活習慣の中で耐え続けなさいと説きます。ただ耐えるだけではなく、間違った方向へ向かわないように、それ以上の努力を求めているのです。これを“精進”と呼び、この精進の先に本当の幸せがあると教えます。人から見れば“泣き寝入り”と映ったり、“弱腰”に見えるかもしれません。しかし心の内では、「悪心に染まらないように注意深く自制しながら耐える」という非常に困難なことに挑んでいるのです。真の勇者でなければできないことです。

すべての人が勇者であってほしいと思います。しかし人は弱くて脆(もろ)いのです。勇者がいつも勇敢とは限りません。耐え続ける内に、ひねくれたり、離反したり、復讐心を持つこともあります。人が大切にしているものは、物であれ、人であれ、信仰であれ、誇りであれ、尊厳であれ、決して傷つけてはなりません。

本日、渡辺和子さんがお亡くなりになりました。

2016年大晦日、カトリックのシスター渡辺和子さんがお亡くなりになりました。89歳におなりでした。多くの著作があり、ベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』をお読みになった方も多いことでしょう。わたくしはシスターのご本を通して聖書の世界に入りました。時には法話の内容としてシスターのお言葉をお借りしたこともありました。キリスト教徒、仏教徒の枠を超えて、同じ信仰者としてどれだけ励まされたか分かりません。心からご冥福をお祈りいたします。

今年もありがとう

皆さまが聞いてくださるから、私は真実であろうと努めます。皆さまが信じてくださるから、私は善であろうと努めます。皆さまがいてくださるから、私はこうして僧侶でいられるのです。大切なことはすべて皆さまが教えてくださいました。本当にありがとうございました。

新年が皆さまにとって幸せな一年となりますよう心からお祈りいたします。たとえ今が悲しくても必ず喜びが訪れます。たとえ今が虚しくても必ず心は満たされます。どうぞよいお年をお迎えください!

クリスマスおめでとうございます

今日はイエス様の誕生日です。私は信徒ではありませんが、「本当のこと・大切なこと」を教えてくれるイエス様を敬愛しています。そのご降誕を素直に喜びたいと思います。イエス様は、豪華な宮殿ではなく質素な馬小屋でお生まれになりました。このことは私に「静けさの中で、慎ましくあれ」と教えてくれます。私も心静かに、身近な人々への愛を思いながら聖夜を過ごしたいと思います。様々なご縁が一つに実って、今夜は教会のミサに参列させていただくことができました。とても幸せな一夜となりました。

しかし世の中には、今この瞬間も苦しく悲しい思いをされている方もいらっしゃることでしょう。クリスマスどころではないかもしれません。そんな誰にも相談できずに一人でじっと耐えている方にこの話を贈ります。

ある男が夢を見ました。夢の中で男は主イエスと二人で並んで歩いていました。男が後ろを振り返ると、これまでの道のりには、主イエスと自分の二組の足跡が記されていました。ところが、所々、足跡が一組しかない場所があります。男は思いました。

「そういえば、その場所は私が苦しんでいた時だ。
私が苦しんでいた時に限って一組しかない」。
そこで男は傍らのイエスに尋ねます。
「どうして私があなたを一番必要とした時に、
私からお離れになったのですか」。
イエスがお答えになりました。
「いとしい我が子よ。
私は片時もお前の側を離れたことはない。
お前が見た一組の足跡は、私のもの。
私はその時、お前を背負っていたのだ」  

『修証義』 第17節

「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200-1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめて、仏さまの教えを優しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文形の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【第17節 現代語訳】
常に戒律を守って生活をしておられたお釈迦様は、世俗の人々が抱くような欲望に心が囚われることはありませんでした。今、受戒して戒律とともに生きる私たちも同じです。たとえば、同じ風景を見ても、仏の子と世俗の人とでは異なって見るものです。世俗の人は、土や草さえも欲望の対象として見ますが、仏の子は、土も草も石ころもすべて平等に仏の教えを顕わしたものと見ます。風も雨も仏の教えとなって、私たちが一刻も早くさとりを得られるように助けてくれていると捉えるのです。これが受戒の功徳であり、人間の意思やはからいを超えたものです。そしてこの功徳によって私たちは、菩提心を起こすことができるのです。

【ミニ法話】
長い鉛筆と短い鉛筆があります。ただ「長い」と「短い」だけなら、二本の鉛筆の違いを表現しただけです。目に見えるとおりの正しい事実認識と言えます。ところが「長い鉛筆は良い」「短い鉛筆は悪い」と言った時には、正しい事実認識から離れて自分勝手な考えに支配されます。善し悪しの基準は人それぞれで、いわば思い込みのようなものです。あなたにとっては気分を害する短い鉛筆でも、別の人にとっては使い心地の良い短い鉛筆かもしれません。あなたの勝手な思い込みが鉛筆から本来の価値を奪ったのです。鉛筆は鉛筆です。文字を書く価値に変わりはありません。私たちはこれと同じ過ちを鉛筆の他にもしているのではないでしょうか。
受戒して仏の子として生きることで、私たちは思い込みを減らすことができます。そうして思い込みが無くなった後に見る世界は、土や草や石ころでさえ、あるべき姿、ありのままの姿、本来の価値を現わすのです。そこに上下や優劣はありません。価値の比較がない完全なる平等、これがお釈迦様の言う“さとり”です。“さとり”は外からやって来るのではありません。一切の思い込みを無くしたあなたの心のあり様が、そのまま“さとり”なのです。物事には区別があります。しかし決して差別をしてはならないのです。

聖書と経典

このブログには、度々聖書の言葉が出てきます。私は、いわゆる“お坊さん”ですが、仏教経典と同じように、聖書を好んで読みます。経典や聖書に書かれている真理には、言葉や民族、国家や宗教の壁がありません。お釈迦さまがお説きになっても、イエス様がお説きになっても真理は真理だからです。私の心の中では両者に違いはないのです。 

聖書は「愛」を語ります。同じように、経典は「大悲」を語ります。いずれも「他者を大切に思う心」のことです。そして「この心によって、他の誰でもなく、あなた自身が幸せになるのだ」と説きます。キリスト教は2000年間、仏教は2500年間、この真理をまっすぐに説き続けてきました。これが歴史的な事実です。ところが私たちはこの事実を軽んじて、他者よりも自分を大切に思う心を優先しがちです。真理とは反対の心です。だから悲しみや苦しみが繰り返されるのです。

利己的な振る舞いは、ある意味で人間の防衛本能です。自分の命を存続させるためには仕方のないこともあります。しかしこれは程度問題です。本能は必要最小限にとどめておかなければ、他者との協調は難しくなります。人は、好むと好まざるとにかかわらず、集団で行動する動物、一人では生きられない動物だからです。私たちは本能の外側で高い理性を身につけることができます。自分にも他人にも悪さをしない程度に本能と付き合い、人生の大半を理性によってコントロールする力があるのです。そしてこの理性は、聖書や経典に書かれている真理に基づいています。実際に手にとって読んでみましょう。その価値は十分にありそうです。

誰も見ていないところで

善いことをしましょう。とかく人の目は気になるものです。善いことをするなら、人に分かるようにしたいのが本音でしょう。しかしそれでは「人によく思われたい」という欲が一番で、「善いことをする」という良心が二番になります。せっかくの良心が欲で曇ってしまいます。ですから、わざわざ人が見ていないことを確認してから善いことをするのがいいのです。これは、あなたが非常な勇気を出して欲を断ち切っている努力の証しでもあります。でも、本当に誰も見ていないと思いますか。神さまはしっかり見ています。そして必ずそれにふさわしい果報(喜びや楽しみ)を与えてくださいます。

「〔善いことをする時は〕右手がすることを左手に知らせてはならない。〔善いことをするのを〕人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに酬いてくださる」(マタイ6.3)

力としての愛を育てよう

前回の記事で私は「素直さは力であり、修練して蓄えるもの」とお話ししました。実は「愛すること」も同じです。「愛すること」も私たちが生まれつき持っているものではなく、後天的な努力によって勝ち取る「力」なのです。なぜなら「愛すること」は智慧に裏付けられた行為であり、とても理性的なものだからです。この智慧とは無関係に誰でも本能的に持っているのが「好き嫌い」という感情です。例えば、あなたに嫌いな人がいるとします。「ひどい仕打ちをされた。裏切られた。傷つけられた」など理由は様々です。とにかく話しもしたくないし、会いたくもないという人です。感情的にはその人を避けて通りたいと思っています。ところが、ある智慧を持てば、そんな相手でも自分の恩人のように思えたり、その人の幸せを祈ったりすることができるのです。その智慧とは「ご縁に感謝する」ということです。

考えてもみてください。あなたは相手のひどい仕打ちのおかげで、ちょっとやそっとのことではへこたれない強い心を獲得したのではありませんか。傷つけられた時の心の痛みが分かるから「自分は人にそんなことはしない」という優しさを持てるようになったのではないですか。ひどい仕打ちをした相手に対してではなく、そのような人を自分の目の前に置いた神仏のお計らい(これを「ご縁」と言います)に感謝するのです。神仏から見れば、私たちは将棋の駒のようなものです。駒の配置には必ず意味があります。そこには神仏の親心やエールが隠れています。その意味を読み解き、自分のプラスにできれば、感謝することができるのです。

私にも嫌いな人がいます。今でも感情的には近づきたいとは思いません。その人からはひどい仕打ちを受けましたが、しかし結果として、その人が直接的間接的な原因となり、私はこうして仏道を歩くことができるのです。最初は「ご縁」に対してだけ感謝をしていたのですが、今では相手にも感謝の心を持てるようになりました。不思議なことですが、この気持ちは徐々にやって来るようです。少し時間がかかります。でもそれが修練というものなのでしょう。嫌いな人でも愛することはできます。その人の幸せを祈ることもできます。本能や感情に振り回されず、智慧によってマイナスをプラスに転換し、人として成熟すること。それが人間として生まれた私たちの特権というものです。「力としての愛」を育てていきましょう。