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『修証義』 第16節

「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200-1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめて、仏さまの教えを優しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文形の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【第16節 現代語訳】
これらの〔十六条の〕戒律を授かれば、お釈迦様と同じさとりを得ることが約束されるのです。賢明な人で、これを願わない人がいるでしょうか。お釈迦様は次のように仰っています。「受戒した人々は、仏の仲間入りをしたのである。仏と同じ位に就くことが約束されたのである。仏の子になったということである」と。

【ミニ法話】
受戒を機に、私たちは「仏の子」となります。正真正銘の「仏」へと至る道、それも脇道のない一本道を歩み始めるのです。これはたいへん重大な転機です。なぜなら、受戒するまでは俗世の人間として無闇に罪を犯し続けていたのが、受戒した後は「仏の子」という自覚のもとに、仏として振る舞うようになるからです。「殺さない」という戒律は「殺せない」に、「嘘を言わない」という戒律は「嘘を言えない」に昇華していきます。仏として振る舞い続けるには忍耐(忍辱)と努力(精進)が必要です。私たちの心はとても弱く、油断すると、もとの俗世の感覚に戻ってしまうからです。努力は、さとりを得て「仏」となる日まで続きます。ある高僧は努力について「仏の生き方を真似ることだ。一日真似れば一日の真似。二日真似れば二日の真似。一生真似れば本物」と言いました。では、「仏の生き方」とは何でしょうか。それは「他人の幸福のために生きる」というただ一点です。

ラブちゃん

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ラブちゃんは一番体が小さくて、末っ子の甘えん坊タイプ。甘噛みが大好きで、お坊さんたちの指をフガフガ言いながら噛んでいます。その仕草がとても可愛いのです。きれいな赤毛で、うり坊に似た縦縞が背中にあります。年齢を感じさせない、いつまでも愛くるしいラブちゃんです。

ダメな自分を丸ごと愛する

こう言うと、「失敗したり人を傷つけたりするのは、ダメな自分がやったことだから、みんなは温かい心で大目に見てほしい」などと都合よく解釈する人がいます。「自分は不完全のままでいい。でもみんなは完全でいてください」と、わがままを言っているようなものです。

「ダメな自分を丸ごと愛する」とは、仏さまの前では自分も人も同じくらいダメな存在だと知ることです。だからこそ、お互い様の心で人の過ちを許すことができます。「愛は近きより」という言葉があります。身近な人を愛せるなら、遠くの人(すべての人)も愛せるという意味です。あなたにとって最も身近な人・・・それはあなた自身です。自分を愛せる人は他人をも愛せる人なのです。ダメな自分と真剣に向き合う人ほど、人に優しくなります。「わがまま」ではなく「許し」に昇華させてこそ、この言葉が生きるのです。

友よ

遠方より友が訪ねて来ました。曲がったことが嫌いで、道義にもとる行為に対しては、我が身の不利益を顧みずに断固として抗議するような人です。質素な人で、着る服にも食べる糧にもほとんど執着しません。ひとたび災害が起これば、今日は岩手、明日は熊本とボランティア活動に明け暮れます。どうしてそこまで人に優しいのかと疑念を抱きたくなるのは、ひとえに私の不徳から来る嫉(ねた)みゆえかもしれません。お恥ずかしい限りです。彼はその実直さのために社会に馴染めず、不遇の生活を送っています。経済的にも楽ではないでしょう。私は、彼が幸せになってほしいと願い偉そうに説法をしましたが、彼の去った後には、失礼ながら不相応とも思える額のお布施と、冷蔵庫いっぱいの食料品が残されていました。一人暮らしの私の健康を気遣って黙って置いていったのでした。いったいどちらが仏法を説くに値する人間なのか分からなくなります。

私は君のような友を持って幸せです。君は「自分はまだまだです」などと言って卑下したが、その優しさで十分です。「真実の愛は痛みをともなう」という聖書の話を二人でしたね。私は君にその実践を見たし、十分に心動かされました。君は私を慕ってくれているようだが、見習っているのは私のほうです。疲れたら、いつでも心を休めに来てください。待っています。

無聖(むしょう)
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問い:子供を亡くして辛いです。

答え:以下は、同じ経験を持つ女性の話です。

子供を亡くしたお母さんがいました。「悲しくて辛くてしかたがありません」と言います。励ましの言葉も、深い悲しみの前では無力のようでした。

しばらくして女性から連絡がありました。聴けば、今は託児所で働いているということでした。子供好きの彼女らしい選択でした。彼女は「悲しみが消えたわけではありませんが、子どもたちに囲まれていると安心するんです」と言いました。私はその言葉を聴いて、とても大切なことを思い出したのです。

彼女の言うとおり、悲しみが消えたわけではないでしょう。それでも彼女は今、安心して暮らしています。悲しくて辛いだけだった以前と比べれば大きな前進です。なぜ安心できたのでしょうか。それは彼女が、自分でも気付いていませんが、幸せになる方法を実践しているからです。幸せに向かって歩いていることを自分でもなんとなく感じているのです。

幸せになる方法は一つです。それは、他人の幸せを考えることです。自分が幸せになりたいなら、他人の幸せを考えることです。反対に、不幸になりたいなら(そんな人はいないと思いますが)、自分の幸せだけを考えることです。自分の悩みでいっぱいで、他人のことに目を向ける余裕がないという人は、幸せには遠いと言わざるを得ません。

子供好きが高じて、子供のために何か役に立ちたいと思い、彼女は託児所で働き始めました。そこでは毎日が子供の幸せを考える日々です。おそらくは我が子を亡くした悲しみを忘れてしまうほどに忙しい日々でしょう。しかしそれが彼女自身の幸せにつながっているのです。

私にも亡くした子がいます。悲しみは消えません。それでも穏やかな気持ちでいられるのは、私が「人の役に立ちたい」と願い、また微力とは言え、多少なりとも実践しているからでしょう。私も彼女と同じように、他人の幸せを考えることによって自分の安心を得ているのです。

悲しくて辛い時には、気力を振り絞って、人の幸せになることをしてください。今のあなたに気力がないのはよく分かります。それでも振り絞るのです。これ以外に安心を得る方法はありません。必ず光が差して来ます。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
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貧者の一灯

お釈迦様が説法をする時、人々はロウソクを立てて明りを献じたといいます。数え切れないほどのロウソクがお釈迦様を照らしました。富豪たちは、自分の信心を誇示するために、競い合うようにして何千何万もの明りを献じたといいます。

説法が始まって間もなく、竜巻がお釈迦様たちを襲いました。天幕は吹き飛ばされ、人々も立っていられないほどです。富豪たちの明りは、一瞬の内に吹き消されてしまいました。あたりを漆黒の闇が包むかと思われたその時、人々は会場の片隅で弱々しく燃え続ける小さな小さな灯を見たのでした。それは、夫と子供に先立たれ、今は貧しいばかりの老婆が、自分の髪を売って買い求めた一本のロウソクだったのです。不思議なことに、この弱々しい灯は、荒れ狂う竜巻の中でも決して吹き消されることはありませんでした。老婆の灯はやがて隣のロウソクに飛び火し、そのロウソクがまたその隣のロウソクに飛び火して、ついにはすべてのロウソクに再び火をともしたのでした。

この物語は教えています。それは、「行いの大きさが重要ではなく、行いの中にどれだけ愛を込めたかが重要である」ということを。そして「どんなに小さく弱くとも、愛は万人の心を動かす」ということをです。

私は自分の日々の勤め、多くは地味で目立たない小さな事柄ばかりですが、その小さな勤めの中に私の愛をしっかり込めているかを問います。漫然として流れ作業のようになっていないか?友人の神父は「この小さな教会で行う毎週のミサを、最初で、唯一で、最期のミサにしたい」と言いました。彼も自分に問うているようです。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
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見えないものを信じる心

私の日常生活は、見えないものを信じる心の上に成り立っています。人から愛されることを信じていますし、人を愛することも信じています。神の摂理も、仏の説く縁起も信じています。ご先祖様の御冥助も、亡くなった幼子の愛も信じています。私の未来の可能性も、人の未来の可能性も信じています。漫然と日を暮らすこともありますが、信じる心を失ったことはありません。見えないものを信じる心は、辛くて悲しくて苦しい時でさえ、私に希望と愛を与えてくれます。“見ないのに信じる人は、幸いである”(ヨハネ20-29)

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
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『修証義』 第15節

「しゅしょうぎ」は、道元(どうげん:1200-1253)禅師のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめて「仏さまの教えとは何か」を解説しています。
皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文形の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業はわたくしのライフワークになりつつあります。わたくしの等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いに存じます。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
http://shounji.or.jp

【第15節 現代語訳】
「三帰戒」を受戒した後は「三聚浄戒(さんじゅじょうかい)」を受戒しなさい。三聚浄戒とは、三つの清らかな戒律のことです。

一、悪いことをしない。
二、善いことをする。
三、人の役に立つことをする。

いずれも行いだけでなく、心と言葉でも守らなければなりません。三聚浄戒を受戒したら、次に「十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)」を受戒しなさい。十重禁戒とは、十の重い悪事を禁じる戒律のことです。

一、殺さない。
二、盗まない。
三、邪な愛欲をもたない。
四、嘘を言わない。
五、酒や薬物に近づかない。
六、人の過ちを責めない。
七、自慢話をしない。人を批判しない。
八、物惜しみしない。
九、怒らない。
十、三宝を疑わない。

以上の「三帰戒」と「三聚浄戒」と「十重禁戒」の十六ヶ条の戒律は、お釈迦様の時代から人々がずっと守り継いできたものなのです。

【ミニ法話】
十の戒律の内、実に四つまでもが言葉に関する戒律であることにお気づきでしょうか。「嘘を言わない」・「人の過ちを責めない」・「自慢話をしない、人を批判しない」・「怒らない」の四つです。私たちは毎日何かしらの罪を犯して、それによって苦しんだり悲しんだりします。その原因の四割は、私たちの言葉にあるのです。「そのような言葉を口にしないためにはどうすればいいですか」との弟子の問いに対してお釈迦様は「常に気をつけていなさい」とだけ答えました。つまりそれは、相手の言葉にすぐに反応しないで少し考えてからゆっくり答えるということです。この慎重な態度は、あなたの言葉の数を減らすことでしょう。会話の空白を無理に埋めようとせず、にっこり微笑んで沈黙することも大切なのです。

ワカちゃん

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ワカちゃんは少し臆病です。一番体は大きいのに気は小さくて、いつもボーッとしています。兄弟ケンカには決して加わりません。小麦色の毛並みが美しくて、気持ちの優しい平和な子です。

短い命

お寺では毎日、多くの命と向き合います。様々な命を目前にして、私は「命とは何だろう」と考えます。しかしこの問いに対して私は明確な答えを持ちません。生まれること、老いること、病気になること、死ぬこと、これらは人の力ではどうにもならない絶対の真理です。人智の及ばない大きな流れのようなものがあって、人はその流れに身を委ねるだけだと考えられています。そうであるからこそ、「命とは何か」とどれだけ考えても、答えは見つからないのでしょう。答えが見つかるとすれば、真理を真理として完全に理解した時、自らが真理と一体となった時だけなのです。

水子ちゃんをはじめ、幼い子を亡くした親の悲しみは察するに余りあります。また大切な家族だったペットを若くして亡くす悲しみも同じです。命の尊さに人も動物も違いはありません。そのような時、私たちは“短い命”についてどう考えればいいのでしょうか。

言えることはただ一つ、命は何かの理由があってこの世に生じ、また何かの理由があってこの世から滅するということです。私たちの思い計らいとは無関係に命は生じて滅します。私たちにできることは、自分の価値基準で命について長い短いなどと計らないこと、命がこの世に存在した価値を考えることです。

仮に一年間しか生きなかった命があるとします。人はその短かさを悲しむばかりで、その命の価値を見ようとはしません。神仏のおはからい(縁起とも摂理ともいいます)によって、一年間という期限付きでこの世に生じた命は、それに相応しい価値を持っているのです。私たちは可能な限り、その価値を読み解く努力をしなければなりません。一年という期限が付いているからこそ、私たちの心にしっかりと刻まれるものがあるはずだからです。それは“愛”であって欲しいと思います。一年間の命にも、私たちの一生を左右するだけの“愛”があるはずなのです。その愛を読み解いて欲しいのです。

悲しむことと一緒に、短い命が伝えようとした愛を読み解いてください。そしてその愛の価値をさらに高めるような幸福な人生を築いていただきたいと思います。「この短い命があったからこそ、私は本当の愛に目覚め幸せになることができました。私が今こうして幸せでいられるのは、この短い命のおかげです」と、あるお母様はおっしゃいました。このように胸を張って言えるようになってください。あなたが幸せになればなるほど、短い命の価値が高まるのです。一つの命が別の命を幸せへと導く。これが、命がこの世に存在する価値ではないかと私には思えます。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)